第7話 澄香の秘密
貞彦は、深夜に目を覚ました。
明日も学校があるので、もう一度寝ようと思ったが、トイレに行きたくなった。
暗がりの中、廊下を移動する。音を出してしまい、他のみんなを起こしてしまわないように、慎重に移動した。
橙色の光が廊下を照らす。もしこの光がなかったら、真っ暗で何も見えないだろう。
広い家に一人きりで住んでいるという澄香を思う。
それはさぞかし、怖く、寂しいことなんだと想像ができる。
その理由や、背景には何があるのか。
ずっと気になってはいるけれど、貞彦はまだ聞けないでいた。
トイレを済ませ、自分の部屋に戻る最中、普段は閉ざされている扉が、わずかに開いていた。
お泊りバーベキューの時も、白須美家で泊まり込みになった時も、開けないで欲しいと念を押されていた開かずの間。
そこに何があるのか、とても気になっていた。
開けないで欲しいということは、見られたくない何かがあるということだ。
それはきっと、澄香に深く関わることなんだろうと思われる。
知ろうとしてしまうことは、澄香の心の奥底に触れることと、同様の意味を持つように思う。
貞彦は迷ったが、澄香について知りたい気持ちを優先させることにした。
自分で開けたんじゃない。開いてたところをたまたま見てしまっただけ。
そう自分に言い訳をしながら、貞彦は扉の隙間を覗いた。
ちょうど目の前に、暗がりで隠れた誰かの顔があった。
「ぎゃあああああああああ」
貞彦は悲鳴を上げて腰を抜かした。
「貞彦さん、大丈夫ですか?」
パタンと扉が閉められる。開かずの間は再び閉ざされてしまった。
「す、す、澄香先輩」
「何か怖いものでも見たんですか?」
秘密を知ろうとして、覗いたら澄香の顔が目の前にあって驚いてしまいました。
そうとは言えなかった。
「ご、ご、ごめんなさい」
貞彦はとりあえず謝った。
澄香は合点がいったのか、手を打って笑みを浮かべた。
暗がりでわからないが、いつもより瞳に笑顔が足りない気がした。
「貞彦さんは、いけない人ですね」
「いや、その、気になって」
「誤魔化そうとしない姿勢は評価できますね。貞彦さんは、そんなに私のことが知りたいんですか?」
それは、前にも聞かれたことだった。
人と人が近づくことで、傷つくことになる。
まるで、拒絶のような言葉だった。
澄香の言うことに、一定の真実は含んでいる。深く知るということは、心の中の柔らかく繊細な部分に、人を招き入れるということ。
近づけば近づくほど、傷つく度合いは深く、激しくなる。
そんなことは、貞彦にもわかっていた。
だからこそ、自分自身も人と仲良くなることを拒んでいたんだから。
わかっている。
わかっているからこそ、澄香のことを知りたいと、今でも思っていた。
「知りたい。俺はもっと、澄香先輩に近づきたい。その心に、触れたいと思う」
立ち上がり、真剣な表情で貞彦は言った。
澄香は相変わらず笑顔だった。表情は変わらない。
沈黙が降りる。
先に口を開いたのは、澄香だった。
「わかりました。それでは、お入りください」
澄香は扉を開け放ち、貞彦を招き入れた。
一体何が潜んでいるのだろうと、得体の知れない恐怖に苛まれる。
どんなことがあっても、驚いたりしない。
誓いを立てながら中に入ると、貞彦は別の意味で驚いた。
カーテンや照明以外に、家具はほとんどない。
三方を囲む本棚に、木製の椅子とテーブル。
本棚には、目一杯の本が収納されていた。
哲学書、小説、歴史書、自己啓発本、ライトノベルから漫画まで、相当な数の書籍で満たされている。
「これが、澄香先輩が秘密にしていたもの、なのか?」
「はい。本棚を見れば、その人がわかると言います。ある意味、心を曝け出しているようなものなのかもしれません」
「なんていうか、すごい数だな」
一見すると、小説が一番多いように見える。
哲学書も相当数あるが、一番目立っているのは、自己啓発本の類だった。
その中には、自己肯定感を得るための方法だったり、人に嫌われないための技術。対人関係における技術について書かれたものが多いように感じる。
貞彦は、澄香は他人と関ることが好きなんだと思っていた。
けれど、本棚から感じる印象は、貞彦の抱く澄香という人物像と、ずれがあるように感じた。
貞彦は、澄香がこの部屋を見られたくなかった理由、本棚を見ればその人がわかると言った意味、澄香が辿ってきた本の軌跡などを統合して、白須美澄香についてを考えた。
言ってもいいのだろうかと、迷う。
けれど、ここで逃げ出して、この瞬間を逃すことを、もう繰り返したくはなかった。
幸せは、この瞬間にしかない。
澄香の言葉を思い出し、貞彦は自分の気持ちを伝えることにした。
「澄香先輩って本当は、人と関わることが、苦手なんじゃないか?」
澄香は笑った。
諦めたように。
けれどどこか、嬉しそうな面影を残して。
「その通りです。人の言っていることに共感ができない。思想と現実が折り合わない。そんな気持ちを、いつだって感じていました」
「俺も、そんな風に感じることがあるよ。いや、あった、かな」
「貞彦さんは優しいですね」
「澄香先輩のおかげだよ」
「いえ、私はあくまできっかけにすぎません。貞彦さんの学びは、貞彦さん自身で得たものです。誰かの手柄ではなく、自らでつかみ取ったものです」
「それは、澄香先輩だって同じじゃないか」
澄香は、相変わらず笑顔を貫いていた。
その表情こそが普通であるようにと、相当な努力をしていたのかもしれない。
「澄香先輩だって、今の自分になるためにがんばってきたんじゃないか。それは澄香先輩自身が手に入れたものだ。だから、澄香先輩だってすごいんだ」
澄香は両手を胸元に当てていた。
子犬でも撫でるように、愛おし気な手つき。
「理屈ではわかっていても、そう言ってもらえること。それだけで、こんなにも嬉しくなるんですね。ねえ貞彦さん」
澄香は、ねだるような口調で貞彦を呼んだ。
「なんだ?」
「一つだけ、お願いがあるのです」
「お願い? 聞かせてくれないか」
澄香はためらいがちに目を伏せた。
珍しい表情だと思った。
「今日のお話の中で、貞彦さんは皆さんのことを褒めていたじゃないですか」
「あ、うん」
「私のことは、何も言ってくれなかったですね」
その件を指摘されて、貞彦は動揺した。
「いや、それはなんというか、言うまでもないっていうか」
「言葉が心の全てではない。けれど、言葉にしてくれないと、わからないこともたくさんあるのです」
澄香は貞彦をじっと見つめた。
何かを期待するような眼差し。
カーっと熱くなるように感じる。他のみんなに言った時よりも、緊張の度合いが凄まじい。
言葉って難しいと、改めて思う。
本当に言いたいことというのは、上手く言葉にできないからだ。
言葉の大切さが、その重みが、口を開かせるのをためらわせてしまう。
だからこそ。
だからこそ、ここで言わなければならないと、貞彦は決心した。
「澄香先輩は…………美人で優しくて、でも…………とても可愛い」
最後の方は、消え入りそうな声だった。
けれど、澄香はきちんと聞いていた。
澄香は顔を伏せた。
そのせいで、貞彦からは表情が見えなかった。
少しの時間、膠着状態が訪れる。
突然、澄香は顔を上げた。
張り付いた仮面のような笑顔ではなく、まるで少女のような笑みを浮かべていた。
「嬉しいです。貞彦さん」
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