第22話 強くて綺麗

「正さん」


 貞彦が声をかけると、正は驚きに目を見開いた。


「君は確か、貞彦くんかい。それで、その女性は?」


「初めまして。私は、相談支援部部長の、白須美澄香と申します」


 疲労はあるのだろうが、澄香はそんな素振りは微塵も見せずに言った。


 正は一瞬考え込んだが、思い出したようだった。


「素直の部活の先輩たちか」


「はい。私たちも一緒に、素直さんのことを見守っていても良いでしょうか?」


「もちろん、構わないよ」


 素直と善晴は、デッドヒートを繰り広げていた。


 両者とも一歩も譲らず、互いの意地を張り抜いている。


 何よりも、素直の表情からは目が離せなくなった。


 切磋琢磨し合う、命を削るような戦いでありながら、素直はとてもイキイキとした表情をしていた。


「あんな表情の素直は、久しぶりに見たな」


 正は目を細めていた。


 放つ熱は光となり、輝きとして飛び出す。


 その輝きが心に届いた時、眩しく、美しく感じるのかもしれない。


「『何かをするときいやいやながらするな、利己的な気持ちからするな、無思慮にするな、心にさからってするな。君の考えを美辞麗句で飾り立てるな』」


「澄香先輩、その言葉は?」


「ローマが最も栄えた時代の皇帝、マルクス=アウレリウス=アントニヌスが『自省録』で記した言葉です。常に自己反省をし、自身を研鑽し続けた賢帝です」


 澄香は、正の方をみて、微笑んだ。


「素直さんを大切にし、自身を悔やみ、幸せを願う。正さんの気持ちは、とてもよくわかります」


「俺はそんなに、いい兄貴じゃない」


「素直さんは、お兄さんに憧れていると言っていました。その潔さ、思いの深さはきっと、素直さんに充分に伝わっているのだと思います」


 澄香は相変わらず笑顔だった。


 けれど貞彦には、まるで痛みに耐えているかのように見えた。


「正義や信条とは、強すぎるが故に時には刃となるでしょう。そして硬質な武器は、きっと自分自身を傷つけてしまう。反省も、後悔も、必要なものです。けれど」


 澄香は、悲痛さを含んだ声で言った。


「これ以上、自分を責めないであげてください」


 正は、ずっと前を見つめていた。


 素直と善晴は、ゴール間近まで来ていた。


 四〇〇メートルを走り続け、疲れで足もおぼつかなくなっていた。


 それでも、互いに一歩も譲らなかった。


 自分こそが正しいんだって、子供みたいなわがままで殴り合っているようだった。


 それはきっと、誰かのためなんて、いいものじゃない。


 どこまでも勝手で、自分のために戦っているんだと、伝わってきた。


 正は何も言わない。


 迷いながらも自分を信じて。


 悲しみながらもやりたいことをやりぬいて。


 いつだって自分らしく生きている。


 そんな素直を見て、一体何を思っているのだろう。


 澄香みたいに、含蓄に富んだ言葉は見当たらない。


 心を痺れさせるかっこいい言葉や、感情を揺さぶらせる美辞麗句は持ち合わせていない。


 けれど、自分の感じている思いだけは、伝えたいと思った。


「素直はきっと、俺たちが思っているよりも、ずっと成長していると思うんだ」


 過去のことで、何が正しいのかわからなくなったのだろう。


 抱えきれない思いで、自分が傷ついたこともあったのだろう。


 それがきっと、素直の中では消えない傷になっている。そのことは否定できないように思える。


 それでも、素直はやりたいようにやっている。


 澄香が言ったように、いやいやながらことをせず、利己的な気持ちで動かず、無思慮ではなく、心にさからわず、自身の考えを美辞麗句で飾り立てずにまっすぐに表現する。


 傷ついても、辛くても。


 毎日を楽しく生きている。


 貞彦は、素直のことを思い浮かべた。


 笑って、怒って、ふざけて、泣いて、ほころぶ。


 そんな今を生きる素直は、とても魅力的だ。


「素直はまっすぐで強くて――とても綺麗だ」


 素直は踏み出す。善晴も一歩出る。


 瞬間が連なり、まるでスローモーションのように見える。


 ゴールテープが切られる。


 ほんのわずかな瞬間を切り取ったのは、素直だった。


「ゴール! 紅組の逆転勝ちだあああああああ!」


『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお』


 轟音は勝利を尊ぶ凱歌となる。


 くじけても、弱気になっても、諦めなかった少女は、自分の信念を貫き通した。


 紅組のメンバーが素直に駆け寄り、胴上げを始めた。


「やっほーい! やったよーみんなー!」


 素直は喜びを溢れさせている。


 二度、三度と宙を舞いながら、こぼれんばかりに笑顔を振りまいていた。


 世界の中心は、まるで素直にあるようだった。


 正は、澄香に目を向けた。


 疲労でしょぼくれた瞳も、雫から光が漏れている。


「白須美さん。ありがとう」


 そして、貞彦に向き直った。


「貞彦くん。君の言う通りだ」


 正は、久しぶりの笑顔なのか、不器用に笑った。


「素直は強く、綺麗になったんだな」


 正は目を閉じていた。


 正の中できっと、素直との思い出が巡っているんだろうと、貞彦は思った。


「貞彦さん。私たちも行きましょうか」


 澄香は、貞彦の手を握った。


 ここにいるのは野暮だと、言っている気がした。


「ああ。素直に全力でおめでとうって言わなきゃな」


 貞彦は澄香の手を握り返し、引かれるのではなく、逆に澄香を先導するように前に出た。


 澄香は一瞬、驚きの表情を見せた。


 けれど、それは一瞬の出来事だった。


 澄香は再び笑顔を見せた。


「はい。行きましょう貞彦さん」






 貞彦と澄香を見つけた素直は、犬のように飛びついてきた。


「澄香せんぱーい! 貞彦せんぱーい!」


 素直はすりすりと頬をこすりつけ始めた。


 なんだか、本当に素直から尻尾が生えているような気がしていた。


「わたしがんばったんだよ! ほめてほめてー!」


「よくがんばったな、素直」


「とても素敵でしたよ。素直さん」


 貞彦と澄香からのダブルなでなでを受けて、素直はとても満足そうだった。


「素直さん……久田先輩に白須美先輩……」


 喜びをぶち壊す、怨嗟に満ちた声が聞こえた。


 善晴だった。


 善晴は悔しそうに表情を歪めている。両拳は力をこめすぎているのか、ブルブルと震えていた。


 てっきりキレて暴れ出すかと思い、貞彦は身構えた。


 善晴は鬼のような形相をして、体ごと振りかぶった。


 そして、全力で頭を下げた。


「すまなかった! 君たちが悪の組織だなんて、僕の勘違いだった!」


 唐突に誤解が解けたことで、貞彦の思考は追いついていなかった。


 あれだけ執拗に悪者扱いをしていた善晴に、何があったのかと気にかかる。


 もしかしたら、転んで頭でも打ったんじゃないかと、貞彦は心配になった。


「悔しいが、君たちの輝きは本物だった。勝利のために全力を尽くし、手を取り合って協力し合う姿から、悪の心は感じられなかった。君たちは君たちの正義を貫いていたんだな」


 正義なんて大層なもんを貫いた覚えはない。


 そう思う貞彦は、なんと答えればいいかわからなかった。


 素直も突然の出来事で、呆気に取られているようだった。


 澄香は相変わらずニコニコしていた。


「僕はまだ、君に相応しい男になれてはいなかった。素直さん、教えてくれ! 君に相応しい男になるためには、どうしたらいい?」


「どうしたらって言われても……困るなあ」


「じゃあせめて、好みのタイプだけでも! 僕はどんな努力だって惜しまない!」


 まるで猫に追い込まれたネズミのような必死さで、善晴は言い放った。


 これって実質、告白みたいじゃねえか。


 良い感じで終わりそうだったにも関わらず、また他人のラブコメを見せられるのかと、貞彦は疑念に囚われた。


 素直は、疲労と困惑で、思考力が低下しているようだった。


 考えるような仕草をしたが、めんどくさくなったようで、ポーズを解いた。


 素直は深く考えるのをやめて、率直に言った。


「好みのタイプかぁ……年上の人かな」


 善晴にとって、一番残酷な一言が突き刺さる。


 それだけはどうあがいても、善晴には達成できない条件だった。


「ちくしょおおおおおおおおおお」


 善晴は涙ながらに走り去っていった。


 他人のラブコメがキャンセルされた。


 初めての展開に、一番驚いているのは貞彦だった。


「謝ったり走ったり善晴くんも忙しい人だよね」


「なあ素直……お前もしかして、わざとやってるんじゃないか?」


「なにが?」


 貞彦は素直の目をよく見た。


 何の混じりけもない、純真さが垣間見えた。


「純真な真っすぐさも、時には凶器となり得るのですね」


 善晴が失恋したというのに、澄香は勉強を終えた時のような口調で言った。


 素直という純粋無垢な弾丸は、男の恋心を撃ちぬき、そのまま葬り去ったのであった。


「素直……お前ってほんと……可愛い奴だな」


「えへへへへーありがとう!」

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