第21話 見続けていた背中

 騎馬戦の勝利により、勢いづいた紅組は、快進撃を続けた。


 しかし、白組も負けずに、縮めた点差を即座にひっくり返す。


 一進一退の攻防が続き、白組一二五〇点、紅組一二一〇点となっていた。


 勝負は、最終戦であるスウェーデンリレーにて決着が着くこととなる。


「いよいよ、これが最後の競技だな」


「貞彦先輩。気合を入れていくよー」


 騎馬戦の勝利以降、素直の調子は絶好調だった。


 弱気な表情もすっかりと引っ込み、いつもの元気さを取り戻していた。


「なあ貞彦。勝算はあるのか?」


 カラスは言った。


「ここまで来たら、もう全力をかける。それだけだ」


「かっこいいじゃん。でも、相手はあの白須美だぜ」


 カラスに言われて、貞彦は再び走者表を眺めた。


 一〇〇メートルから順に、距離が伸びていくスウェーデンリレー。


 貞彦は三〇〇メートルを担当することを志願した。


 その理由は、カラスから事前にもたらされた情報があったからだ。


 澄香が、三〇〇メートルの走者に志願している。


 そして、善晴は最後の走者、四〇〇メートルの走者に志願していた。


 本気で勝利を狙うのであれば、もっといい人選があったはずだ。


 限りなく私情が挟まれている走者順のように思えた。


 だからこそ、貞彦は走者に志願したのだ。


 澄香と全力で戦いたい。


 そして、勝ちたい。


 心からそう思ったのだ。


「だからこそ、望むところだ」


「へえ。お前思ったより、いい男だったんだな」


 カラスはポッキーを咥えて、貞彦の尻を叩いた。


「よし。行ってこい」


「はい」


 貞彦は答えて、走者控えに移動した。


「さだひこせんぱーい! 素直ちゃーん! がんばれー!」


「みんなー愛してるからねー」


「……大丈夫。勝てるよ」


「貞彦。負けたら承知しないからな」


「あたしらならいけるっしょ」


「貞彦くーん! 俺だってがんばったよなー!」


「こんな時まで自分のことばっかりか! 全力で戦ってきなよ!」


 紅組のメンバーから激励を受ける。


 背負っている重さに、少しだけ足がすくむ。


 初めは、変な依頼から生じた出来事でしかなかった。


 けれど、今となってはみんなが一丸となって、勝利を望んでいた。


 もう弱音なんて、吐いていられない。


 貞彦は、体操着の紐をぎゅっと縛った。


 締め付けられて、がっしりと腰に着衣がハマる。


 身が引き締まったように感じた。


「さだくーん。さだくんさだくん! がんばれーがんばれーがんばってー! かっこいいところを見せてください! さだくーん! こっち向いて―!」


「姫奈! お前はうるせえ!」






 紅組の走者が、一同に集う。


 一〇〇メートル走者、太田大樹。


 二〇〇メートル走者、黒田大吾。


 三〇〇メートル走者、久田貞彦。


 四〇〇メートル走者、矢砂素直。


 多少無理を言っての編成だったが、なんとか通すことができた。


 本気で勝利を狙うのであれば、自分は参加しない方がいいように思う。


 卑屈ではなく、実力としての問題だ。


 ただ、澄香が最後のリレーに参加するからには、本気で戦ってみたいと貞彦は願っていた。


 スタッフに誘導され、待機場所に移動した。


 隣には、いつものように微笑む澄香の姿があった。


「貞彦さん。随分と無茶をしたようですけど、お怪我はありませんか?」


「大丈夫だよ。というか、あそこまでしないと、澄香先輩たちには勝てなかっただろうし」


 善晴隊と衝突した最中、必死になって素直を受け止め、脱落することから守り抜いた。


 残党に狙われたが、黒田が食い止めてくれたおかげで、貞彦たちは澄香に辿り着くことができたのだ。


「貞彦さんと素直さんは、本当にすごかったですね。思わず見惚れてしまいました」


「褒められるのは悪くないけど、そう言ってくれるのは、勝負が終わってからにしてくれよな」


「そうですね。今この瞬間では、私たちは敵同士なのですから」


 澄香の笑みの奥には、闘志が宿っているように見えた。


 貞彦とて、それは同じだった。


 決着はまだついていないのだ。


 いつまでも澄香の背中を追いかけているだけでは、満足ができない。


 せめて、隣に。


「あれは」


 澄香は遠くの方を見つめ、呟く。


 貞彦も、澄香の視線の先を追う。


 不安そうな表情をした青年。特徴的なくせっ毛は、とても大事な後輩を思い起こさせる。


「素直のお兄さんじゃないか。ちゃんと来てくれてたんだな」


「やはり、あの方がそうなのですね」


「澄香先輩は知っていたのか?」


「素直さんに兄のことについては存じています。けれど、実際にお見掛けするのは初めてですね」


 澄香は遠い目をしていた。


 貞彦だけでなく、素直の事情については、澄香も知っているようだった。


「でもよかった。来てくれないのかと思っていたんだ」


「ふふふ」


 澄香はくすぐったそうに笑った。


「素直さんのお兄さんなら、初めからずっといましたよ」


「そうなのか? 俺には全然わからなかった」


「見つからないように、物陰から素直さんの様子を見守っているようでした。そのおかげで、怪しくて印象に残っていましたが」


「正さん……裏目に出てるぞ」


 正は初めから最後まで、素直のことを心配していたのだ。


 妹を傷つけてしまった。


 嫌な思いをさせてしまった。


 罪悪感に縛られて、元々の形がわからなくなった、不器用な関係。


「今の正さんにとって、素直はどう写っているんだろうな」


「気になるんですね。それでは、私たちのレースが終わったら、一緒に尋ねに行きましょう」


「そうだな。素直は、目一杯がんばっていたんだ。俺としても素直のがんばりを伝えたい」


「ええ。ですので、遅れないでついてきてくださいね、貞彦さん」


 澄香はからかうように言った。


 澄香なりの挑発行為だとわかり、貞彦の闘志に火が付いた。


「ああ。望むところだ」






 位置について。


 よーい。


 レースの始まりを、銃声が告げる。


 白組の三年生と、紅組の太田が全速力で駆ける。


 太田はがむしゃらなフォームで、なかなかスピードが乗らない。


 チャンスだとばかりに、白組は太田を引きはがしにギアを上げた。


 しかし、太田の本領はここからだった。


 後半の五〇メートル、体の動きが噛み合ったのか徐々にスピードが上がる。


 背後から迫りくる、太田の影。明らかに焦りが見えていた。


 二人の差は少しずつ縮まっていくが、抜き返すには無情にも距離が足りない。


 一足早く、白組のバトンが次へと渡った。


「黒田先輩お願いします!」


「おうよ!」


 太田から、黒田へとバトンが渡る。


 悔しさもあっただろうが、太田はやり切った表情をしていた。


「太田さんと黒田さんがバトンを渡し合う。なんだか、憎い演出ですね」


 澄香に言われて、貞彦も感慨深くなった。


 一人の女性に好意を向けた二人が、協力してレースを行っている。


 ただそれだけのことなのに、なんだか貞彦の心は澄み渡るようだった。


 黒田は初めからトップギアで走り抜けた。


 一歩進むごとに差は狭まる。


 砂を踏みぬき、砂塵が煙る。


 黒田は全身で走ることを体現していた。


 やがて、拮抗した二人。


 わずかに黒田がリードした時、紅組から歓声が上がった。


 蹴る。


 振る。


 繰り返される。


 走る。


 紅組リードのまま終わるかと思われた瞬間、紅組の走者は更に加速した。


 対する黒田は、疲れからかトップスピードは出なくなっていた。


 一〇〇メートルから二〇〇メートルへ。


 距離が伸びていくと言うことは、ペース配分にも気を配る必要があるということだ。


 前半で力を使いすぎた黒田は、バトンタッチまで二〇メートルを残して、再び逆転を許していた。


 ついに、澄香が走り出す時が近づいてきた。


「貞彦さん。私のことを、運動が不得意だと思っているようですが、それは違います」


「まさか、ネコを追いかけていた時に、真っ先にバテていたのは演技だったのか?」


 貞彦は、澄香の戦術に改めて脱帽していた。


 まさか、あんなどさくさに紛れていたことさえも、体育祭のための伏線だったのだろうか。


 貞彦は、澄香に対する底知れなさに、恐怖すら感じた。


「ふふ。私は、運動が不得意なわけではありません。スタミナに――自信がないだけです」


 澄香はそう言って、バトンを受け取り走り出した。


 女子らしからぬ乱れぬフォーム。なめらかな足運びには無駄がなく、疾走していることさえも優雅に見えた。


 けれど、捨て台詞はカッコ悪かった。


 負けてたまるかと、貞彦はツッコみのごとく思った。


「久田頼んだ!」


「わかった!」


 貞彦はバトンを受け取り、澄香の後を追う。


 リレーに出ることを決めてから、毎日走り込みの練習はしていた。


 けれど、澄香との距離は縮まらない。


 運動が不得意というわけではない。


 澄香の言葉は、嘘ではないのだと思い知らされた。


 背中が小さくなるたびに、己の不甲斐なさに心が縮んでいくようだ。


 やはり自分では、ダメだったんだろうか。


 がむしゃらに腕を振る。


 呼吸が乱れる。


 足並みは不揃い。


 それでも、止まれない。


 弱気な心も、必死さで誤魔化してしまおう。


 ここまできて、諦められるわけがなかった。


 応援の声が聞こえる。


 叱咤するような言葉も理解できる。


 半分を走り切ったところで、澄香との差はほとんど最初と変わらない。


 少しずつだが、離されなくなっていた。


 残り、一〇〇メートル。


 真正面には澄香の背中。


 その奥に見える、素直の姿。


 すでにバトンを受け取る体勢で、走り出すことを今か今かと待っている。


 あの背中を追いこして、素直に希望を繋ぎたい。


 力を振り絞る。


 澄香との距離が縮まる。


 もう背中を見ているだけでは、嫌だった。


 いつまでも辿り着けない、高嶺の華を見上げ続けることにはうんざりしてきた。


 届かない永遠に、手を伸ばしている日々から進みたい。


 追いつきたい。


 並びたい。


 澄香の隣に。


 そして、素直の下へ。


 澄香のスピードが弱まる。


 貞彦は止まらずに、走り続けた。


 距離が近づき、すぐ側まで。


 そして、澄香と同時に、次へとバトンが交わされる。


「走れ素直!」


「まかせといてー!」


 呼吸することすら苦しく、ただ目一杯空気を吐き出す。吸い込む。吐き気すら感じる。


 かっこいい姿ではなかった。


 それでも、きちんと届いたのだった。


「はあ。よく、ついて、来られましたね」


「ぜえ、はあっ。そりゃ、近くに、行きたかった、から」


 大の字に倒れた貞彦の手を、澄香は握った。


「はあっ。貞彦さんは、もう、大丈夫、ですね」


 澄香は貞彦を引っ張って立たせた。


 嬉しそうな顔なのに、どこか泣きそうな表情をしていた。


「それでは、約束通り、行きましょうか、貞彦さん」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る