第8話 隠れてしまう前に

 貞彦はトイレを済ませて、矢砂家の廊下を歩く。


 トイレを済ませる間の猶予があっても、素直にかける言葉は見つからなかった。


 何かをしてあげたくても、何もできない自分を不甲斐なく思う。


 自分のやりたいようにやると、言い続けている少女。


 間違っているかもしれないという悩み。そんなものはあって当然だと思う。


 そう言ってあげればいいのかもしれない。


 けど、その言葉は、ある意味では矢砂素直を否定することになる。


 彼女の心情をくみ取る代わりに、信条を歪ませる。


 それは果たして、いいことなんだろうか。


 つらつらと悩みつつ、歩を進める。


 突然開いた扉にも気づかず、貞彦は額をぶつけた。


「いたっ」


「おっと。すまない。怪我はなかったかい?」


 部屋から出てきたのは、二十代半ばほどの男性だった。


 平坦な表情には、疲労の色も見える。くるっとカールしたくせっ毛は、素直の特徴と非常によく似ている。


 貞彦は、素直には年が離れた兄がいることを思いだした。


「大丈夫です。もしかして、素直の……あっ矢砂さんのお兄さんですか?」


「君はもしかして、貞彦くんかい?」


「そうですけど」


「やっぱりそうか。素直がよく君のことを話しているから、印象に残っているよ。申し遅れたね。僕は矢砂正やすなただし。素直の兄だ。よろしく」


 正は愛想よく笑った。


 貞彦は会釈した。よく話しているという詳細は気になったが、初対面で聞くわけにもいかずに、そうすることぐらいしかできなかった。


「お兄ちゃん。帰ってたの?」


 素直が自室から顔を出した。少し時間がかかっていたから、気になったのかもしれない。


「ああ、そうだよ。ごめん、素直に一言いわなくてさ」


 素直はなぜか、瞳を尖らせていた。急な感情の変化に、貞彦はその意味を図りかねていた。


「別にわたしに言わなくても大丈夫だから。ここは自分の家なんだし」


「そうだね。その通りだ。ごめんよ素直」


 素直の表情はますます険しくなった。大好きなイチゴパフェに、しょうゆをぶちまけられたらこんな顔になるのかもしれない。


「謝らなくてもいいっていつも言ってるじゃん!」


 妹に怒鳴られて、正は悲しそうに部屋の中へ戻っていった。


 パタンと扉が閉まると、なんとなく悲しさの気配が漂っていた。それが一体誰の物なのか、貞彦は判断できなかった。


「貞彦先輩……部屋に戻ろ」


 そう言われて、貞彦は素直に従うしかなかった。






 貞彦は先に部屋へと通された。


 バタン、と音を立てて扉が閉まる。素直が乱暴に閉めたからだ。


 素直が感情的になりやすいことは、貞彦も理解している。


 けれど、これほどまでに苛立ちをぶつける素直の姿は、初めて目の当たりにした。


「素直……」


 貞彦は声をかけた。声をかけることしか、出来なかった。


「貞彦先輩。ごめんね」


 素直は謝る。


 謝罪というよりは、独白のようだった。


 感情がうっかりと零れ落ちているようだ。


「俺はいいんだ。それよりも、素直が心配なんだ」


「貞彦先輩は関係ないよ。家族の……ううん。わたしのことだもん」


「お前のことなんだったら、俺は関係なくても、知りたいって思うんだ」


「なんで……なんでそう言ってくれるのかな?」


 素直は真っすぐと貞彦を見つめる。


 本気でわからないのか、困惑した表情。


 そしてなんだか、泣きそうな表情。


 こんなに弱気な素直も、貞彦は初めて見た。


「俺にとっては大切な、後輩だからだ」


 着飾る言葉を、豪奢でロマンチックな言葉を選ぶべきだったのかもしれない。


 そう思いながらも、貞彦は率直な言葉を選んだ。


 もっと飾り立てるだけの魔法の言葉では、素直の奥底には届かないように思えた。


「大切にすることと、傷つけないことは一緒のことなの?」


 心を切り裂くような鋭さで、素直は言った。


 大切にする。大事にすることは、壊さないように優しく扱うことのように思える。


 素直の言葉は、そのイメージを壊してしまうようだった。


 貞彦は真剣に答えた。


 それでも、きっと何かを間違えてしまっていた。


「大切にしたいって思いがあるなら、傷つけたくないなって思うよ」


「その優しさとも言える思いが、さらに相手を傷つけるのだとしても、なのかな?」


「それは……」


 言葉に詰まってしまう。


 貞彦には、なんて答えればいいのかわからなかった。


 自分のやっていること、言ってきた言葉が、更なる悪い展開を呼び起こすのかもしれないと、恐怖を感じる。


 二の句がつげない貞彦を見て、素直は泣きそうに口を引き締めると、ふっと表情を緩めた。


「なんてね。冗談だよ貞彦先輩。ちょっと困っている感じだったからからかっただけだよ」


 素直はそう言って、暗い空気を吹き飛ばすように笑った。


 いつも通りの素直の表情に、安堵とは違った感情が生まれていた。


 この感覚は、以前にも味わったことがあると、思い出していた。


 夏が始まる直前。澄香と二人きりで話した時だ。


 奥深くまで入り込めた扉が、急に閉ざされたように思えた。


 このままなんでもないように笑ってしまえば、きっといつも通りの時が過ぎていくように思う。


 そしてまた、扉は閉ざされる。彼女へと続く道が、途切れてしまうように思う。


 そんなもんだ。人の交流は深いばかりではない。


 表面上の付き合いであったとしても、そこそこ楽しんでお互いに傷つかなければ、なんの問題もない。


 なんの問題もないはずなんだ。


 逃げるための思いが浮かんだ。


 けれど、気が付いたら体が動いてた。


「冗談で片づけるなんて、俺はいやだ」


 貞彦は素直の腕を掴んでいた。


 素直の顔に苦痛が滲む。少し力を入れすぎているのかもしれない。


 それでも、今この手を離してしまったら、素直がいなくなるような気がしていた。


「離してよ!」


「それはできない」


「こうして冗談で済ませれば今まで通りでいられるのにどうしてわかってくれないの!」


「このままだと、素直が辛そうだからだ」


「貞彦先輩のわからずや!」


 素直は貞彦を突き飛ばした。


 それでも貞彦は手を離さず、素直も一緒に床へと倒れこむ。


 貞彦が下敷きになったため、素直には怪我はなさそうだった。


 素直は力なくぐったりとしていた。


 華奢な腕。小さな体躯。驚くほど軽い。


 力強さと真っすぐさを備えた少女は、腕に収まるとあまりにも小さかった。


「俺は素直のことを、仲のいい後輩だと思っていた。強くて真っすぐで、いつでも自分に正直だと思っていたんだ」


「……うん」


「それが間違っているとは思えない。けどさ、正しいかどうかもわからない色々に、悩み続けていたんだって、知らなかったんだ」


「……うん」


「知ったつもりになっていた。素直は素直らしくてそれでいいと思っていた。だから知ろうとしなかったんだなって思う。俺はもっと、素直のことを知りたい」


 素直は何も言わず、貞彦の肩にあごを乗せた。


 素直の重みが加わる。温度が伝わり、鼓動が交わる。


 素直の音。


 素直のぬくもり。


 体で感じる。


 心で感じる。


「顔が見えると話づらいからこのままでもいいかな?」


「ああ。いいよ」


「なんだか変な感じ。貞彦先輩とこんなことをしてるなんてさ」


「ほんとだな。近すぎたからきっと、何も見えなかったのかもしれないな」


「そうかもね。それじゃあ聞いてくれる?」


 素直は、貞彦の手のひらに自分の手を重ねた。わずかな震えから、素直の感情が注ぎ込まれているように感じた。


「わたしが正義について、わからなくなってしまった出来事を」

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