第9話 離さない 側にいる
素直はぽつぽつと話し始めた。
素直には、正義感が強くてかっこいい、ヒーローみたいな兄がいた。
一〇歳年上の兄は、素直にとっては自慢のお兄ちゃんだった。
クラスのいじめには真っ向から異議を唱えて、困っている人を積極的に助けに行く。
素直はそんな兄に、心から憧れを抱いていた。
穏やかだが優しい両親。ヒーローのような兄。
平凡な家庭で、普通と言われるような幸せを受けて育っていった。
素直が中学生に上がった時、正は女性を連れ返ってきた。
俯きがちな仕草は、まるで世間から目を背けているようだった。
肌を見せない長袖の衣服からは、何故か拒絶を感じた。
素直が挨拶をしても、ロクに返事も返ってこない。
不思議に思った素直は、彼女さんってどんな人なのかと、正に尋ねた。
どうやら、彼女は親からほったらかしにされていたらしく、食事もまともに取れていなかった。
保護をしてもらおうにも、本人は拒絶的でどうしようもなかった。
なんとか、栄養だけでも摂ってもらおうと思い、彼女ということにして連れてきたとのことだった。
心を開かない様子も、警戒心が強いからだと説明された。人と関わることが少ない。経験不足なんだと。
素直は仲良くしてあげて欲しい。そう言われた。
素直は張り切って彼女と接することにした。学校であった出来事や、おいしかった食べ物の話。面白いテレビの話など、反応が薄くても話しかけ続けていた。
やがて、ぽつりぽつりと返事が返ってくるようになり、素直は達成感に満たされていた。
正も根気よく話しかけ、勉強を教え、日々の考えや想いを伝えていった。
彼女は徐々に明るくなった、かのように見えた。
時々笑うようになり、自分のことを少しずつ話し始めるようになっていた。
正と素直は、充実した日々を送っていた。
自分たちは善いことをしていると、信じて疑わなかった。
週に一回の訪問が、どんどん頻度が上がっていった。ついには一緒に食卓を囲むようになった。いつの間にか、公認の交際相手として、素直の両親にも認識されていた。
しかし、少しずつおかしなことが増え始めた。
彼女の服装がどんどん綺麗になっていった。着古したようなボロボロの着衣から、新品の物を着るようになった。血色も良くなり、健康的な体型へと変化した。
それはきっと、良い変化だと思っていた。
ある時、素直は見てしまった。
彼女が母親のバッグを漁っている所を。
声を上げようとした素直に、彼女は素直の口を塞ぎ、泣きそうな声で言った。
「お願いだから言わないで。私を助けると思って」
震える体を見て、素直は恐怖よりも哀れみの感情を覚えた。
そして、気づいた。
彼女の身なりが綺麗になったり、健康的となったのは、金銭を盗んでいたからなのだと。
いけないことだとはわかってはいたが、素直はこの出来事を誰にも言えないでいた。
正と彼女が笑う表情。受け入れられいると安心しきっている。初めて会った頃より、明らかに彼女は幸せそうだった。その幸せを壊してしまって、いいのだろうか。
何も信じていない冷たい瞳を見ることに、耐えられるんだろうか。
素直はただ耐えていた。
自分が我慢すれば、何事もなくことが収まっていくように思えた。
しかし、現実は甘くない。
彼女はそれ以降も、盗みを繰り返しているようだった。
綺麗になり、明るくなり、幸せそうに見えるというのに、欲望にはまだ果てがないように感じた。
正は、素直の様子がおかしいことに気が付いた。
口数も少なくなり、ひきつった笑顔を浮かべるようになった妹に、違和感を感じたらしい。
正がどれだけ心配しても、素直は口を割らなかった。
正は、幼い素直に問いかけた。
「素直が言わないでいることは、本当に正しいことなのか?」
素直は泣きながら、今までの出来事を正に話した。
正は何も言わずに、素直の話を聞いていた。
泣きじゃくる素直を抱きしめて、正は言った。
「辛かったな。俺が、なんとかしてやるから」
正の瞳は、決意に燃えていた。
素直は安堵して、ぐっすりと眠ることができた。
これで全てがうまくいく。なんとかなる。
そう思っていた。
その日以来、彼女は矢砂家に訪れることは無くなった。
正は詳細を話さなかったが「正しいと思うことをした」それだけを言っていた。
彼女のことが気になっていたが、いずれ話してくれるだろうと思っていた。
そんな出来事を忘れかけていたある日、素直は家族とテレビを見ていた。
朝のニュースでは、女子高生が死亡した事件が悲劇として語られていた。
切羽詰まった親が引き起こした心中事件。
そこには、見覚えのある名前が。
「わたしには、何が正しいのかよくわからなくなっちゃった。いけないことをそのままにしておいても良くなかったし、いけないことを切り捨てたことで、今のような結末が起きちゃったわけだから」
素直の言葉が、耳に響く。奥へ奥へ。心の方まで。
正しいことをしたという、正と素直。
その結末は、悲劇的だった。
「辛かったな」
貞彦は素直の頭を撫でた。
カールした髪が指に絡む。素直の迷いが反映されたかのように、方向が定まらない。
「なんだかお兄ちゃんみたい」
「言いにくかったらいいんだけどさ、気になることがあるんだ」
「何かな?」
「どうして素直と正さんは、どうしてこじれちゃったんだ?」
兄の振る舞いに対して、苛立っていた素直の姿を思い出す。
普通の兄妹である以上、ちょっとしたことで喧嘩をすることは珍しくない。貞彦だって、口うるさい妹と口論になることはしょっちゅうある。
けれど、この二人に関しては、事情が違うように感じていた。
正が一方的に、素直に遠慮しているように見えた。
素直は貞彦の胸に顔をうずめた。
シャツがほんのりと湿り気を帯びる。
「お兄ちゃんは、あの日のことでずっと自分を責め続けているみたい。わたしに辛い思いをさせたんだって後悔してる」
かすかな声。かすれて弱々しい。
罪悪感のあまり、過剰な大切さで素直を包んでしまっている。
柔らかいベールを、真綿で覆っているような、柔らかく優しい空間。
その気遣いこそが、素直にとっては兄を遠くに感じるのかもしれない。
「素直。俺は謝らないからな」
「えっ……」
貞彦はそう言って、素直を抱きしめた。
愛しさという感情からなのか、同情という思いが行動に変わったのか、定かではない。
ただ、そうしたいと思った。
だからそうした。
「うっ。ううっ」
嗚咽が聞こえる。
腕が背中に回される。
恋人たちのワンシーンのように、二人で抱き合う。
やはり正しいことなど、何一つわからない。それは誰にもわからないことだ。
だからこそ貞彦が従うのは、今こうしたいという衝動だけだ。
素直は貞彦の胸で、声を上げて泣き出した。
さらに強く、ギュッと抱きしめる。
離さないように。離れてしまわないように。
沈殿した濁りが、涙に溶けて消えていくまで、側にいようと思った。
言葉よりも、そうする方がきっと伝わる。
言葉を介するから、きっと誤解も生まれる。
子供のように回され腕はしっかりと結ばれている。感情と共に沸き上がる熱が伝わる。髪を撫でる感触が安寧を連れてくる。
正義がなんなのかについて、貞彦はよく理解できない。
けれど、素直を悲しませるような結末にだけはしたくない。
心からそう思っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます