第2話 あなたの正義はなんですか

 澄香は、はしゃいでいる素直を引き留め、教師のように教鞭をとりはじめた。


 貞彦の悩みはかき消された。


「正義というお話がありましたので、少しだけそのお話をしましょうか」


 澄香はミニホワイトボードを取り出し、正義に関する理論を書きだした。


 いつそんな物を買ったんだよと、貞彦はツッコみたかった。


「『正義の教室』という小説の中で、正義を語るには結局のところ三つだけしか指標がないと語られています」


「三つの指標? 弱い者いじめはいけないとか、不正はいけないとか、そういったことなのか?」


「貞彦さんの言っていることはその通りですね。一つの行為について正しいか間違っているかについて、決める軸となるものです。貞彦さんが言っているのは、直観主義による指標ですね」


「直観主義? スリーセブンだと宝くじが当たりそうとか?」


「直観主義というのは、宗教の正義と言われています。馴染みが浅いかもしれませんが、絶対にいいことや悪いことはある、という立場です。『これからの正義の話をしよう』については、美徳といった語られ方をしていますね」


「美徳か。道徳とか倫理とかも、そういった言葉に近い気もするな」


「そうですね。他の指標としては、功利主義と自由主義というものがあります。功利主義というのは、最大多数の最大幸福を目指すというもの。人類全ての幸福量が最大になるようなことが一番良いということです」


「それってとてもいいことだね! 澄香先輩もその功利主義の考えが近そうな気がする」


「私は功利主義者というわけではないですね。一見いいことに思える功利主義も、問題点があります。なんだかわかりますか?」


 問いかけられて、貞彦と素直は考えた。


 先に答えを出したのは、貞彦だった。


「最大多数の最大幸福ってことは、これをすることで不幸になる人もいるってことだよな?」


 澄香は嬉しそうに手を合わせた。


「そうですね。全体の幸福を最大にすることが目的なんです。幸福を数値で表すのですから。誰かの幸福が10で、他の誰かが100であれば、合計は110ですね。50と50の幸せの人たちより、前者の方がいいわけです。なんだか違う気がしませんか?」


「なるほどー」


 素直は納得したようだった。


「根幹から揺るがす指摘は多々ありますが、割愛します。自由主義というものは、何よりも自由が優先されるというものです。種類はありますが、簡単な説明のみにいたします」


 澄香は自由主義という言葉を、ホワイトボードに書き足した。


「人の最大限の尊厳は自由だという立場です。幸福よりも、自由が優先します。どう生きるのも自由。何をすることも自由。基本的に、他者の自由を侵害しないということは前提にありますが」


「なんだか功利主義には自由がなかったような気がするね。確かに自由がなくなっちゃったら嫌だなあ」


「その通りです。ですが、自由主義にも当然問題点はあります。さあなんでしょうか?」


 再び貞彦と素直は考えた。


 今度は素直が先に答えをだした。


「自由にするってことは、能力や力の強い人ばかりが得をしちゃうんじゃないかな?」


 澄香は楽しそうにうんうんと頷いていた。


「素直さんの答えもいいですね。この物語において、その問題点は過激な表現をされています。行き過ぎた自由が横行すれば『バカは死ねばいい』と、そういうことになります」


 自由に競争をするのだとしたら、勝つのは当然強い者たちだろう。


 弱者を切り捨てないことも自由なら、容赦なく切り捨てることも自由である。


 なぜなら、自由主義においては、幸福よりも自由が優先されるのだから。


「そして最後に直観主義です。みんななんとなく『この行為は間違っている』と共通の正義的行為を知っている。ゴミは拾わなきゃいけないとか、人を殺してはいけないとか」


「うんうん。そうだよね」


「宗教的というと誤解はありそうですが、そんな誰もが知っている正義という概念には、きっと本体のようなものがあるはずだと。真の正義、真の美徳。そういった絶対的なものである倫理とか美徳といったものを信じることが直観主義です」


 浮気をしてはいけない。


 人に迷惑をかけてはいけない。


 してはいけないこと。こうした方がいいこと。


 そういったなんとなしに理解している正義こそが、直観主義なのだと澄香は言った。


「私の言いたいことはわかりましたね。直観主義の問題点とは、なーんだ?」


「軽っ!」


 澄香はいきなり、子供番組のお姉さんみたいに言い出した。


 ふざけた口調ではあったが、問いの内容は難しかった。


 絶対的な正義というもの。こうした方がいいと思うもの。


 そういったものに、問題なんてあるんだろうか。


「これは難しいな」


「うーん。絶対的な正義があるんだとしたら問題なんてないと思うんだけど」


「ふふふ。それでは、ヒントを出しましょう。絶対的というものは、時や個人にも左右されない。圧倒的に変わらなくて誰が出しても同じ答えとなるような真理です。でも、それを判断するのは人間なんです」


「あっ!」


 澄香のヒントに、素直は声を上げた。


 納得がいったように、晴れやかな表情をしている。


「人は間違うことだってあるよね。絶対的な正義があったとしても判断をするのは一人一人だからちょっと身勝手な答えになったりするよね」


 澄香は素直の頭を撫でた。


「正解です。より正確に言うなら、人は有限であり、真理は絶対的な物なので無限です。有限で無限は描けない。絶対的で無限な真理があるとしても、人である限りそんなものを証明はできないんです」


 澄香は三つの主義について、一個ずつ指でなぞっていった。


 そして、試すような笑顔を二人に向けた。


「貞彦さん、素直さん。お二人はどのような正義を掲げますか?」

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