第3話 ラスボス、白須美澄香
善晴の襲撃から二日経ち、貞彦は部室に顔を出した。
珍しいことに、澄香の姿は見当たらない。カバンが置いてあるため、一度は相談支援部室に訪れていたようだった。
やることもないため、貞彦はソファーで文庫本を読んでいた。
ほどなくして素直が現れた。
「あれ? 貞彦先輩一人だけなのかな?」
「ああ。澄香先輩はどっかにいったみたいだ」
「そうなんだ」
素直はカバンを置いて、自然なしぐさで貞彦の隣に座った。
素直の右腕が貞彦に触れる。距離は開けずに密着している。
思えば、素直は初めから遠慮がなかった。ほぼほぼ初対面の間柄の時から「心がせまい」と罵倒の言葉を口にしていた。素直さ故に、残酷さも見え隠れしていた。
それでも、わずかに距離はあったように思う。
最近は自然と、触れ合うことが多くなっていた。
手を握ることに抵抗がなくなり、気が付けば肌に触れることも多々あった。
関係が良くなっていることは喜ばしくも思う。野良猫に懐かれたようなものだとも思っていた。
けれど、そう言ってしまうには、感情が揺れ動きすぎているようにも思う。
「貞彦先輩ー暇だよー」
「貞彦先輩は暇という名前ではありません」
「小学校の先生みたいなことを言いだしたね。澄香先輩もいないしもっとかまってよ」
「読んでいる本が、今いいところなんだよ」
「どんな場面なの?」
「バナナで滑って、タイムスリップした場面だ」
「わたしはバナナ以下なの!?」
素直はショックを受けているようだった。
冗談だとはわかっているが、素直が悲しそうな顔をしていると、いたたまれなくなる。ため息が出てくる。
貞彦は文庫本を閉じて、かばんの中にしまった。
素直は身を乗り出してわくわくした表情をしていた。尻尾があれば、ブンブンと振り回していそうな、喜びにあふれた口元。
子供っぽく、感情を全力で表現している素直。けれども、時折見せる切なげな表情は、心臓に悪いほどに大人っぽくも見える。だからこそ、厄介だとも思う。
「何して遊ぶの?」
「俺は特に希望はないから、素直が決めてくれ」
「それじゃあね。イチゴパフェを奢るごっことか?」
「ごっことか言ってるけど、金は誰が払うんだ?」
「貞彦先輩に決まってるよ。大丈夫だよ。ごっこ遊びだから」
「ごっこ遊びでも金は減るじゃん! というかごっこじゃないじゃん!」
「えー貞彦先輩は心が狭いよ」
「そのセリフも久しぶりに聞いたな。だが心が狭いんじゃないんだ。金がないんだ」
「貞彦先輩の甲斐性なしー」
「結局のところ俺は傷つかずにはいられないんだな!」
「あはははー」
素直は声を上げて笑う。不幸や憂いなんて吹き飛ばしそうな、眩しい笑顔に心が掴まれたようになる。
誰が一番好きなのか。
お泊り会の際に聞かれた時、はっきりとした答えは出せなかった。
貞彦は逃げたつもりはない。できる限り誠実に、真実を語った自覚はある。
そしてその答えが、中途半端であるということも自覚している。
「ん?」
変な空気を感じ取ったのか、素直は不思議そうにハテナを浮かべているようだった。
「貞彦先輩。なんだか赤い気がする」
「俺をイメージカラーで言うなら、多分青色だぞ」
「なんか変なごまかし方をしてるね。熱でもあるのかな?」
「なっ、おい」
素直は体を伸ばし、貞彦に近づいた。
額に熱が加わる。
間近で、素直と目が合う。
ぱちくりと瞬きをしている。
額を合わせて、素直は貞彦の熱を測っていた。
揺れる瞳に、水晶のような輝きを見る。今まで見えなかった感情を見つけてしまいそうだ。
貞彦には、素直しか見えなかった。
「うーん。熱はなさそうかな?」
そう言って、素直は貞彦から離れた。
暴れる生物を抑えるかのように、貞彦は胸の辺りに手をやった。
「な、なんでおでこで測るんだよ。別に手でも良かったんじゃないか?」
貞彦が聞くと、素直ははにかんだ。
「それもそうだよね。でもなんでかな。なんとなく、そうしたいなって」
素直は真っすぐ貞彦を見つめていた。
いつもと変わらないように見えて、後ろで組んでいる両手は動いている。
貞彦と素直以外、この場には誰もいない。
思えば、部室内で素直と二人っきりになることは、久しぶりだった。
他者の目がない解放感に、大胆な気持ちも湧いてくる。
素直の頬が朱に染まるように見えているのは、早くなって夕焼けのせいなんだろうか。
「素直だって、なんか赤いぞ。熱でもあるんじゃないのか?」
仕返しのつもりで、貞彦は聞いた。
貞彦の意図に反して、素直は怯むことはなかった。
「それじゃあ貞彦先輩が確かめてよ」
素直はおでこを少しだけ突き出した。
どきっとする。
まるで、キスでも迫られているような錯覚を覚えてしまう。
「ねえ。早くしてくれないかな」
怒れる口調ではなく、エサをねだる子犬のようだった。
躊躇する。
先ほど生み出された熱は、まだ鎮まりきっていない。
どうしようかと悩んでいると、素直は再び口を開いた。
「誰にだってして欲しいわけじゃないんだよ。お願い」
貞彦は素直に近づく。貞彦の視界の中で、素直がどんどん大きくなる。
おでこ同士で繋がる。気が付けば、素直の肩に手を置いていた。
もしこのまま、少し顔をずらしてしまえば。
そんなことを考えてしまう。
「やっぱり熱があるのかも。なんだか熱くて胸のあたりがもやっとする」
「それは、重症かもな」
「そうだね。どうすればいいのかな?」
素直は尋ねる。
「わからんけど」
「今は誰もいないね」
「澄香先輩も時期に戻ってくるさ」
「じゃあこうしているのも今だけだね」
「嫌じゃないのか?」
素直は微笑んだ。
子供っぽい笑顔ではなく、大人っぽい微笑み。
「嫌じゃないよ。貞彦先輩なら――いいよ」
心動かされる言葉に、思考が溶かされそうになった。
思考よりも本能が勝りそうになった、その瞬間。
「は、は、破廉恥なああああああああ」
部室の扉が開き、善晴が入ってきた。
慌てて顔を離すが、素直の肩を握ったままだった。
何故か後ろには、澄香が神妙な面持ちで立っていた。
突然の来訪に驚いていると、澄香は貞彦と素直の前に立ち臨んだ。
「貞彦さん、素直さん。お楽しみの所、申し訳ありません」
「いや、そういうわけじゃないから!」
貞彦のツッコミを、澄香は無視した。
「吉沢さんから依頼がありました。その結果、大変なことになりまして」
大変なことと言う割には、澄香の表情はにこやかな物に変化していた。
しかし、いつもの穏やかな笑みとは違っている。
軽々しく例えるとしたら、悪役令嬢のような、悪意の含まれる笑顔。
「私は今回、お二人の敵になります」
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