第18話 フォーリング・ダウン・ツ・ヘヴン

 紫兎は貞彦に名指しで告白した。


 そいつは誰なんだと、観客たちは色めきだした。突然の告白に、全体のボルテージは上昇している。


 告白相手を探し出す野次馬。声には出さず、物事の成り行きを見守る傍観者。きゃーきゃーと騒ぐ観客。反応は様々だが、ドラマチックな展開に、心を奪われているようだった。


 貞彦は動悸で死んでしまいそうだった。


 ドキドキする。嬉しいに決まっていた。苦しみしかないと言っていた紫兎が、楽しさを見つけられたと、そう言ったのだ。


 そして、自分のことを好きだと言ってくれた。


 自分のやっていたことが、報われたような気もしていた。


 しかし、貞彦が感じているのは、それだけじゃない。


 紫兎によって高められた、恋の願望のエネルギー。アホみたいな言い方をすれば、恋をしたいモードに陥っていると言える。


 そんな空気が、会場全体を包み込んでいた。


 この場で何が望まれているのか、貞彦にはわかっていた。


 ステージ上からの告白。ドラマチックで非日常な展開。誰もが夢見る、憧れのシチュエーション。


 そして、夢見るバンド少女は、王子様と結ばれてハッピーエンド。


 誰もが思い描くであろう、最高の結末だ。


「貞彦先輩……」


 素直は呟いた。何故か不安気に。


 貞彦は迷っていた。


 自分がどうするべきなのかを。


 紫兎のことが嫌いかと言われれば、そんなことはない。


 好きかと言われれば、そうだとは答えられる。


 恋をしているかと聞かれれば――わからなくなっていた。


 魔法にかかっているのだと、貞彦はそう結論付けた。


 橋の下のコンサート。購入したカットソー。フードを目深に被る仕草。月と映った魅力的な表情。


 湊紫兎のことで、思考が占められる。


 会場全体の空気を感じ、貞彦は思う。


 誰もが期待している結末に、答えなければいけないんじゃないだろうか。


 紫兎の告白を断ってしまうことで、最高に盛り上がっているこの場を、白けさせてしまってもいいんだろうか。


 貞彦は個人ではなく、集団の一員として、自分を位置付けていた。


 個人の力なんて弱々しい。だからこそ集団に従う。より強い力に、従うしかないように感じる。


 けれども、きっとそれは違うような気もする。


 自分でもわかっていた。


 貞彦は、尚も迷う。


「男らしくないぞー」


「早く出て来いよー」


 焦れた観客から急かす声が飛ぶ。


 なかなか出てこない告白相手に、しびれを切らしているようだった。


 この空気を裏切ることはできないと、紫兎への芽生えた気持ちに身を委ねようとした。


 その瞬間。


「貞彦さん」


 気が付けば、澄香はすぐ真横にいた。


 澄香は貞彦に近づき、耳打ちを始めた。


「迷ってもいいのです。貞彦さんが決め兼ねている気持ちを、否定するつもりはありません。どのような結末を選んでも、貞彦さんを最大限尊重いたします」


 吐息が耳を刺激し、くすぐったさを感じる。


 わずかに思考がかき乱される。


「ですが、私の感じたヒントを差し上げます。紫兎さんが本当に望んでいることと、貞彦さんの答えは一致するはずなのです」


 澄香の言っていることが、やはりよくわからなかった。


 本当に望んでいること。


 貞彦の答えと、紫兎が望んでいること。


 見えそうで見えない願いの正体を、あと少しで掴めそうな気がしていた。


「紫兎さんは嘘つきです。でも、本当のことも言います。嘘つきを見極めるためには言葉ではなく、行動を見るのです」


 澄香の囁きに、貞彦の思考は更に蠢く。


 紫兎は確かにちぐはぐだ。嫌いだと言いながら、一緒に遊びに行った。わかっていないと言いながらも、貞彦の選んだカットソーを購入した。わかってくれなくてけっこうと言いながら、わかってくれて嬉しいと笑顔を見せた。


 あまのじゃくで、支離滅裂だ。


 でも、その真意は。


「紫兎さんは運命のように決められた展開を嫌います。誰よりも人は自由であるべきだと、信じているのでしょう。そんな紫兎さんが、恋の歌を歌った後に、貞彦さんに告白をした。その意味はなんでしょうか?」


 澄香はそう言って、貞彦から離れた。


 離れる瞬間、柔らかな感触を残して。


 ただ単に、間違って触れただけなのかもしれない。


 澄香の真意はわからない。


 けれど、貞彦は確かに感じた。


 耳たぶにキスをされたんだと、残された熱が語っていた。


 どうすれば正しいのか、それは貞彦にもわからない。


 不確定な未来を望むという、人の構造。


 やりたいことは見つかった。


 正解かどうかなんて、相変わらずわからない。


 けれどたった一つだけ、正解めいた答えを見つけた。


 貞彦は思う。


 わからないからきっと、生きることは楽しいのだ。


「紫兎!」


 貞彦は叫んだ。


 周囲が貞彦に注目する。ようやく現れた王子様に、期待が最高潮に高まっていた。


 どうして欲しいのかはわかっていた。それでもまだ迷いはある。


 紫兎は貞彦を見つめた。


 挑戦的で、悪魔染みた笑み。


「ごめん! 俺は紫兎の想いには応えられない!」


 貞彦の返事に、周囲はどよめく。


 望まれた結末は、あっさりと崩れ落ちた。


 非難めいた視線を感じる。ふざけんなとヤジが飛ぶ。


 怒りやら失望やらがうずまく。期待を裏切った貞彦に対して、身勝手な感情が降り注ぐ。


 そんな最中、紫兎は笑った。


「あはは。あーっはっはっは」


 戸惑いに満たされる。もしかしたら、彼女がおかしくなってしまったのではないかと、心配の声も聞こえる。


 けれど、紫兎は心底楽しそうだった。


 嬉しくて嬉しくて、たまらないような表情をしていた。


「彼を責めないでやって欲しい。だって私は、こんなにも楽しいんだから」


 紫兎の発言に、耳を疑う者がいた。何を言っているんだと、理解不能に呆けた表情をしていた。


「人生は苦しい。苦しくてむなしくて、その事実から人は逃れようとする。だからみんな、楽しみを探す。音楽だったり、恋愛だったり、成功だったり。どれだけ積み重ねたりしても、最後には死んでしまうというのに」


 紫兎は語る。怨嗟ではなく、悲観ではなく、ただ真実を重ねるように。


「どれだけのものも、死には全て奪われる。わかるよね。だから苦しくてむなしい。忘れるために、みんな型にハマった楽しみで誤魔化している。私の歌に心を委ねて、そんな事実を見えないように覆い隠してしまう」


 紫兎は続ける。


 誰もが口を挟めなかった。


「私はそんな奴らが嫌いなんだ。快楽で、悦楽で、何もかも見えないようにして、自分で人生を楽しんでますよと言っている奴らだ。自分で何も考えようとはせず、何かに操られて自主性を放棄している奴らのことだ」


 怒りの声が、ところどころから噴出する。バカにされているのだと感じているようだ。


 紫兎は浴びせられた憤怒に対し、シャワーでも浴びているような顔をしていた。


「地獄にいるというのに、ここは天国だとうそぶく気持ちを、私は理解ができなかった。自分で心を満たすことのできない、愚か者ばかりだと思った。けどね」


 紫兎は一度言葉を区切る。


 腰に巻いていたパーカーをほどき、勢いよく羽織った。


 風に揺れるうさ耳パーカー


 孤高でひねくれている、湊紫兎そのものだった。


「今なら、少しだけわかる。私が今告白したら、絶対に成功すると思った。恋の熱に浮かされて、感情を焼き切れると思った。でも、そうはならなかった。私の思い通りにならなかったんだなって。それがとても嬉しい」


 紫兎はギターを鳴らす。張り詰めた攻撃的な音。


 地獄を引き裂くような、刺激的で官能的な響き。


「普通に失恋して、普通に傷ついている。私はね、ものすごく何かに当たり散らしてしまいたい。この痛みを誤魔化すために、目一杯歌ってしまいたいんだ。そんな私のわがままに、みんなも付き合ってくれるよね」


 ギターが鳴り響く。ベース音が響く。ドラムが刻まれる。キーボードが奏でる。


 ところどころから歓声が響く。


 熱を再び取り戻す。会場の空気はヒートアップしていく。


 紫兎は笑った。


 泣いているようで、怒っているようで。


 それでもなんだか嬉しそうで、複雑な笑みをしていた。


 けれど、なぜだろうか。


 貞彦は、その表情が一番魅力的に見えた。


「苦しみを覆い隠す、偽りの楽園にご招待しよう。天国へ――墜ちていけ!」


 怒号染みた歓声。


 振り乱されるペンライト。


 吹き抜ける熱気。


 観客は一体となって、溢れ出る情熱に身をやつす。


 苦しみもむなしさも、この瞬間だけは忘れていた。


 憂いもなく、ただ音楽に心酔する。


 見えない糸に操られたように、機械的で自動的なその姿。


 誰もが同じことをして、同じ感情でいられる場所が天国なのかもしれない。


 個人が個人でなくなるような、快楽に満たされた居場所が天国なのであれば、そんなものはきっと、地獄と変わらないのかもしれない。


 そうわかっていても、今だけは楽しい。


 天国に堕ちる快感に、人は抗えないのかもしれない。


 紫兎は歌う。


 天使のような優しい声で。


 祝福の鐘を、降り注ぐように鳴らしている。


 楽しみなんて偽りだと、そう言い放ちながら。


 楽しそうに。


 とても楽しそうに歌った。

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