第15話 とんでもないドMとひねくれた普通の少女
「で、貞彦はなんでこんなバカみたいなことをしたのかな? あっごめん。元からバカだったからだよね」
「今回ばかりは否定できない」
どさくさに紛れ、貞彦を連れ出したのは紫兎だった。
廊下を走り抜け、階段を昇った先は屋上だった。
芝生が敷き詰められ、円形の花壇が中央に置かれている。ベンチや日よけのパラソルもあり、座りながら本を読んでいる澄香の姿が脳裏に浮かんだ。
静かな夜だったため、階下での喧騒が微かに聞こえる。女子たちの怒りはまだまだ収まっていないようだった。
青春の熱に浮かされた、バカたちの暴走劇。
対して、屋上庭園で紫兎と月を眺めている現実。
一体どちらが、非日常的なのかは、貞彦にはわからなかった。
「随分と、青春ゴッコを楽しんでいたみたいだね。普通の高校生みたいなことをして、楽しかった?」
紫兎はまるで、貞彦の普通さを揶揄しているようだった。
「バーベキューをしたり、みんなで語り合ったりと、そんな普通の青春も悪くない。そう思ったよ」
「へえ」
紫兎は小馬鹿にするように口角を歪める。
そのような表情の理由を、うまく見つけることができない。
人生は苦しみだという紫兎にとって、今までの出来事は楽しくもなんともなかったのだろうか。
「紫兎はどう思ったんだ。バーベキューに参加したり、バンドの演奏を聞いたりしてさ」
「楽しくなかったわけじゃないよ。貞彦が肉を突っ込まれたり、ネコにからかわれたり、素直ちゃんや習志野にボコボコにされている姿は、けっこう笑えたね」
「全部俺のことじゃねえか!」
「くくっ。傑作だよ」
紫兎は悪魔のように笑う。
くぐもった声で、どこか邪悪めいている。
けれども、確かに笑っている。
「でも、もしかしたらだけど、貞彦といるから笑えているのかもしれないね。貞彦、ベンチに沿って座りなおして」
釈然としないが、紫兎に従い背もたれに左わき腹をつけて座る。
次の瞬間、背中に重みがのしかかる。
紫兎は貞彦と背中合わせの体勢になっていた。
「夜は静かだ。音も気配も少なくなって、自分自身しかいないことを、より強く意識する。一人きりだと、色んなことを考える。だって誰もいないから」
「今は二人だ」
「そう。一人じゃないことが、触れた先から伝わってくる」
紫兎の言葉は途切れた。
貞彦から、表情どころか体勢も見えない。何がしたいのか、どんな意図を持っているのか、図りかねている。
ただ、何か言いたいことがあるんだということだけは、わかっていた。
木々がこすれて音を奏でる。吹きすさぶ風がわずかに体を冷やす。真夏とはいえ、夜風は強かった。
満月に近い、わずかに欠けた月を眺める。どこか完ぺきではないもどかしさに、心が奪われているようにも感じる。
「貞彦。君はきちんと、自分の人生を生きているのかい?」
突然、紫兎は口を開く。
禅問答のような質問。
「意味がわからないけど、少なくとも俺は、自分のことを自分で決めていると思っているよ」
「本当にそうなのかな? 人はみんな、全てのことを自分で決めているような顔をしている。何かに操られていたり、影響を受けたりして、実は決めさせられているようなことに、なんにも気づいていない」
「そりゃ憧れているものに寄せたり、誰かの真似をしたりすることはあるかもしれないけれど、それも自分で決めていることじゃないか」
「どうだろうね。じゃあどうして、貞彦は私の歌を聴いて涙を流したのかな。自分で泣きたいと思って、泣きたいって決めていたのかな?」
「それは……気が付いたらそうなっていたとしか、言えない」
「そうだよね。みんなそう。自分には意思があると思っているけれど、そんなものは全て自動的なんだ。感情も、身体反応も、自分で決めたと思っている行動も。全部全部、自動的に溢れ出る。機械と私たちで何が違うって言うのかな」
「そりゃ、心があるかないかじゃないか」
「心、か」
紫兎はまた笑った。
歓喜のためじゃなくて、おかしみを感じたからでもない。
ただ、くだらないとでも言うように、笑う。
「私は、多分天才って言われるような人種なんだと思う」
「そうかもしれないな。少なくとも、歌に関してはそうだろう」
「私が明るい歌を歌うと、みんな陽気に踊りだす。私が悲しい歌を歌うと、悲しみに囚われて涙を流す。たかが一人の人間が発する音の波に反応して、心というものは勝手に感情を決定する」
「俺には、お前の気持ちはわからないな」
「わかるわけないよね。自分ではそんなつもりはなくても、人を操ってしまうような感覚に陥る、私の気持ちが」
淡々とした口調から、紫兎の感情が伝わってくるように感じた。
紫兎が歌えば、誰もがその歌に従ってしまう。
本人の意思だとか、生き方に関係なく。それだけの力を持っているのかもしれない。
そして、それがきっと、紫兎にとっての虚しさなんじゃないだろうか。
ただ歌うことだけで、命令を施された機械のように動いてしまう。そんな人の脆さみたいなところが、紫兎にとっては心底おもしろくないのかもしれない。
「もしも私が、ジサツを促すような歌を歌ったとしたら、きっと実行される。陰鬱で邪悪な感情を芽生えさせる歌を歌えば、きっとその通りになってしまう。人って簡単で儚いよね」
吐き捨てるような口調。
貞彦は、紫兎が言う苦しみの意味について、ようやく理解しようとしていた。
「紫兎。お前が言う苦しみっていうのは、思い通りにいかないことを嘆いているんじゃない」
「うん」
「思い通りになってしまう、運命めいたものに納得ができないんだな」
人はきっと、不確定な未来を望む。来夢に教えてもらったことだ。
紫兎の歌が人を操るとすれば、その時点で運命は決まってしまう。
紫兎にとっての未来とは、先のわかる道筋をひたすらなぞりつづけるだけのものなのかもしれない。
わかりきったことを、決まりきっていることを、ひたすらこなし続けるしかない。
想像することしかできないが、それはきっと辛いことのように思えてならない。
「ふうーん。これは予想外だったな。貞彦のくせに」
背中からぬくもりが消える。
気が付くと、紫兎は貞彦の目の前に立っていた。
「ただの凡人でしかない貞彦が、私のことを理解できるだなんてね」
「少しは見直したか?」
「少しだけむかついた」
「いやなんでだよ」
「私という人間が見破られたことで、なんとなく他とは違った特別感がなくなった気がする」
「お前は本当に贅沢な奴だな。特別でありたいのか、普通でいたいのか、ちぐはぐでわからないな」
「そんなのは私にだってわからない。けど、一つだけ意外だったことがあるんだ」
「何がだよ」
紫兎はぴょんとジャンプして、貞彦から離れる。うさ耳パーカーがぴょこんと揺れる。月を見てはしゃぐ兎のようだと、神秘的に見えた。
「わかってくれて、ちょっとだけ嬉しかったって気持ちが私にもあったことがだよ」
紫兎は微笑んだ。
憂いを帯びていたり、小悪魔的に邪悪なものとはてんで違う。
まっすぐな微笑み。
「前に一度言ってたじゃねえか。少しはわかって欲しい気持ちもあるって」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
紫兎は両手を後ろに回し、覗き込むように前かがみになる。
「ねえ貞彦。君は部活動の一環として、私に関わってきたんだよね」
「紫兎は、俺のしていることを知っているのか?」
「わかるに決まっているよ。君たちはバンドメンバーから依頼されたんでしょ。私にバンドへ加入して欲しいって」
「ああ。それが依頼だからな」
「依頼がなかったとしたら、貞彦は私と仲良くなろうとは思わなかったんじゃないかな?」
穏やかな声色だが、まるで責めているようにも感じる。
紫兎の言う言葉の意味はわかる。
貞彦は、依頼されたからこそ湊紫兎について関り、関係を深めてきたことは事実だ。
もし依頼がなかったら、きっと今まで通りに、ただ必要に応じて話をするだけのクラスメイトという関係でしかなかっただろう。
貞彦の意思ではなく、依頼という要素があったからこそ繋いできた関係。
それではまるで、この件がなくなったら、もう関係自体はなくなってしまうのではないかという未来を感じる。
そんなのはなんだか、寂しいことだと思ってしまう。
もしかしたら、紫兎はきっと。
「おそらく、それは事実だ。紫兎の言っていることは正しい」
「やっぱりそうなんだね。毎日来てくれたのも、普通のように遊んでくれたのも、今日の集まりに誘ってくれたのも、全部そのためなんだ」
生ぬるい空気が、冷え切ったように感じる。
紫兎との距離が、急に離れてしまったような錯覚を覚える。
貞彦は、紫兎の言うことを否定することはできない。どのような理由はあれども、きっかけは事実であるのだから。
紫兎はフードを目深にかぶる。顔が半分見えなくなって、心を閉ざされたように思える。
貞彦は立ち上がる。
言い訳をするつもりも、謝罪をするつもりもなかった。
ただ、言いたいことがあった。
「きっかけは依頼があったからだし、それがなければ、俺とお前はなんでもないクラスメイトで終わっていた。紫兎のことを知ろうとしたことも、仲良くなろうと思ったことも、自分の意思で始まったことじゃない。でもな」
貞彦は一歩近づく。
紫兎は逃げようとしなかった。
拳一個分ほどの距離で、二人は向き合う。紫兎はわずかに顔を上げる。フードの奥から瞳が覗く。月を宿しているようで、とても綺麗で。
「俺は紫兎と仲良くなれて、良かったと思う」
毎日毎日罵倒されて、持っていった差し入れまで奪われる。挙句の果てには散々弄られることを、貞彦は少し恨んでいる。
けれど、それ以上に、紫兎と憎まれ口を叩き合っている瞬間は、楽しいのだ。
「貞彦は多分、とんでもないドMなんだと思う」
「それは全力で否定する!」
「そうじゃないなら、度し難い変態だね」
「お前それは、自分自身も貶めてるからな。諸刃の剣だからな」
「いいよ」
「何がだ?」
「貞彦の誘いに、乗ってあげるって言ってるんだよ」
紫兎はフードを脱ぎ去った。
束ねていた髪が広がる。
笑いなれていないのか、笑顔はわずかにぎこちない。
それでも、普通に可愛らしい女の子の顔をしている。
「普通の青春っぽいことを楽しんでみようかな。まあ、今までのことが楽しくなかったと言ったら、嘘になるしね」
「それは良かったよ」
「貞彦が言うから、やってあげようと思う。でも、これはまだ終わりじゃない――覚悟しておいてね」
紫兎はいたずらっぽく笑った。
釣られるように笑顔になる。
紫兎の気難しい心を解きほどいて、無事にひねくれた天才少女は普通の楽しみを見つけることができた。
そう思っていた。
しかし貞彦は、わずかに蠢く違和感の正体には、気づけないでいた。
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