第4話 彼女は天使なんかじゃない
天野が、紫兎のことをもったいないと言ったセリフに貞彦は引っ掛かりを覚えていた。
才能があるからという理由で、その行為を強要してしまうことは、個人の自由を侵害するように感じた。
心のもやもやを晴らすため、貞彦は澄香に相談をした。
「貞彦さんはまだ、湊さんの歌を聴いたことはないんですよね。実際に聴いてみると、何かわかるかもしれません」
「でもさ、紫兎の奴は俺に歌を聴かれることを嫌がっていただろ。なんか単純に、俺のことが嫌いなんじゃないかと思うし」
「はい。そうでしょうね」
「わかってても心は裂ける!」
「冗談です」
澄香は楽しそうに言った。
なんだか前よりも、貞彦の前でふざけることが多くなった気がする。
澄香と峰子との関係を思えば、それはきっと仲良くなっているということ、なのかもしれない。
「彼女の言うことを理解するならば、歌うことが嫌いではないと思います」
「確かに、紫兎の奴はそう言っていたけれど」
「誰かに指図されて歌うことが嫌い。それならば、歌っているところにたまたま遭遇することは構わないんじゃないでしょうか」
澄香に教えてもらったのは、国道を横切る橋の下だった。
普段の帰り道では通ることがない場所なので、新鮮だった。
橋の下まで夕日が落ちて、緋色が反射して川を照らしている。
貞彦と素直は、植林の陰に隠れながら橋の下に近づいた。
反射光が強くて先が見えづらい。
しかし、人影は見ることができた。
曲線を描きながら立っているうさ耳パーカー。
「あれが紫兎先輩?」
「ああ。特徴的なパーカーだから、多分そうだろ」
紫兎はギターを抱えている。時折羽ばたくような仕草で弦に触れる。音の感触を確かめているのかもしれない。
歌声を確認しようと思ったが、橋の上を通る車両が多く、雑音が強く響いている。
「車の音がうるさくてよく聞こえないね」
「もしかして、紫兎の奴、人に歌を聴かれないために、こんなところで歌っているんじゃないだろうか」
「それはあるかも」
素直が同意する。
距離はおよそ一〇メートル以上はある。これ以上近づくと見つかってしまう可能性があるため、なかなか近づけないことに歯噛みした。
「なんだか俺と素直って、こんな役回りばっかりな気がする」
「そうだね。でも潜入捜査ってけっこう楽しいよ」
「それならいいんだけどさ」
一〇分ほど眺めていても、特に大きな変化はない。ギターをかき鳴らしながら首を振っているので、おそらく歌っていることはわかる。
眺めていても、紫兎の歌声は聴こえない。
貞彦は諦めて帰ろうかと思い、立ち上がった。
その直後。
「あぶない!」
素直の声に誘われて紫兎に視線を向ける。
バランスを崩したのか、体がくの字に曲がっていた。そのまま姿勢を保てなければ、目の前の川に転落してしまう。
「くそっ」
貞彦は駆けだした。
バレるのも構わない。今は紫兎のことを助けるのが先決だと思った。
「紫兎!」
紫兎のお腹周りに手を回し、支える。手の甲に重みを感じたが、気にしている場合ではなかった。
紫兎の体はしっかりと止まる。なんとか落ちずに済んだみたいだった。
「良かった。危ないところだったぶっ」
貞彦は紫兎からビンタされた。
「なにすんだよ!」
「乙女の柔肌に触れておいて、なにすんだとは横暴だね。貞彦」
「それは悪かったけど、助けるためには仕方がなかったんだよ」
「痴漢の言い訳は見苦しいね。趣味の悪い子猫ちゃんも出ておいでよ」
素直も植林の影から出てきた。
「初めまして紫兎先輩。わたしは矢砂素直。よろしくね」
「私は湊紫兎。よろしくはしない」
紫兎はそっけなく言い放ち、ギターをかき鳴らす。
「それにしても、こうもあっさり引っかかるなんてね」
「ん? さっきのはバランスを崩したわけじゃないのか?」
「覗き見のいやな視線を感じたからね。落ちるフリをして様子を伺おうとしたんだ」
「紫兎、お前も大概趣味が悪いな」
「似た者同士だね。全然嬉しくないけど」
紫兎は夕日に目を向けた。
半分以上沈みかけて、本格的に夜が訪れる。
「ねー紫兎先輩。わたし先輩の歌が聞きたいなー」
素直はストレートに言い放った。
「どうして私が他人のために歌わなければいけないのかな」
「別にわたしたちのためじゃなくていいよ。ただ単に聴いてみたいだけ」
「私が歌ったところで、世界が救われるわけでもなければ、苦しみがなくなるわけでもない。ついでに貞彦に彼女ができるわけでもない」
「最後の一言は、はたして本当に必要なんだろうか?」
「それでも構わないよ。紫兎先輩はやりたいようにやればいいし。わたしもして欲しいことはして欲しいって言う。それでダメだったらそれはそれだよ」
真っすぐな瞳で素直は言い放つ。
紫兎はふっと目を閉じた。
「どうやら私は、素直ちゃんみたいなタイプには弱いみたい」
紫兎は諦めたようにため息を吐き出し、ギターを抱え直す。
紫兎は足でリズムを刻む。目を閉じたまま体を揺らす。自分が歌いだす、最適なタイミングを待っているように感じる。
夕日が完全に沈みこむ。明るさは昏さに取って代わられる。
「夜は安息であると同時に、静けさが心をかき乱す」
紫兎は独り言のように言う。
「何もないことは苦痛で、その静けさには耐えられない。自分の心と向き合うしかないから。ああなんで生きているんだろうと、心底うんざりする」
紫兎は語る。
暗くじとりとした口調で。
「明るさを求める矮小さを、私は軽蔑する。まやかしを求めて、群がる自分勝手さにイライラする。世界は苦しみに満ちているから、少しでもいい気分になろうと、架空の幸せに手を伸ばす」
呪詛のような言葉。
感情のこもらない、詠唱の様に淡々と紡がれる。
それでも、紫兎は口元に笑みを浮かべていた。
「天国なんて、いらない」
紫兎は声を響かせる。
芯の通った歌声は、ただやみくもに暴れ出した。
はっきりとした歌詞はない、叫びのように吐き出される。
『ら』だか『あ』だか、曖昧な発音で紫兎は歌う。
ただ感情を乗せているだけ。
ただ闇雲に、嘆いているだけ。
たったそれだけのことなのに、貞彦は心が震えるように感じた。
天使の歌声なんかじゃない。
型に当てはめるなら、まるで悪魔の怨嗟のようだ。
それでもなぜか、目が離せない。耳を塞げない。感情は止まらない。
貞彦は夢中になって聴いていた。内に秘めた静かな熱狂に心を奪われた。
もっと聴いていたいと思った時、唐突に音が止んだ。
「これで満足かい? お二人さん」
紫兎はおもしろくなさそうに言った。
貞彦は何も言葉が出てこなかった。
素直の方を見る。表情は普段と変わらない。
けれど、一筋の涙が零れていた。
「貞彦。素直ちゃんだけでなく、君も泣いているじゃないか」
「えっ」
紫兎に言われて、貞彦は自分の頬に触れた。人差し指が濡れて、ようやく自分が泣いていることに気づいた。
賞賛の言葉でも送るべきだろうかと思ったが、紫兎はもうすでにギターを背負って帰路につこうとしていた。
「待ってくれ」
紫兎は動きを止めた。
道端のゴミに向けるような、うんざりとした視線。
「やっぱり、貞彦もダメだったか」
「ダメだったって、なんのことだよ」
「君たちはきっと、私に共感した。なんらかの思いを感じ取って、感情が揺さぶられたんだね」
「そうかもしれないけど、なにがいけないんだ?」
「私に共感したってことは、そこら中に群がる大衆と変わらないってことだよ。じゃあね」
紫兎は手を振って去って行く。
一度として振り返ることはなかった。
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