Scrambled philosopher

閑話 真夏寸前の陽炎

 無事に相談支援部へと戻ることが出来てから、数日が経過していた。


 学期末テストも終わり、夏休みを待つばかりとなった生徒たち。


 教室では、楽しみが渦巻いたような熱気が生まれていた。


 特に大きな予定のない貞彦にとっては、あまり関係のないことだと思っていた。


 相談支援部室では、澄香が一人で本を読んでいた。


 素直は、友達たちと夏休みの予定を組むことで忙しいようだ。


 相談支援部に戻った後、澄香との間に気まずさはほとんど感じなかった。


 それはきっと、素直がそのことを気にしないように、明るく振る舞ってくれていたからだと貞彦は考えた。


 けれど、今日は素直もこの場にはいない。


 澄香と二人きりになるのは、デートに行ったあの日以来だった。


「貞彦さん」


 澄香に呼ばれて、貞彦は振り向いた。


 澄香は読んでいた文庫本を閉じて、貞彦の方を見つめていた。


 改めて、貞彦は緊張を感じていた。


 あの日のことは、まるでタブーのように、話題として上がっていない。


 なんとなしの曖昧さがある関係は、今でも続いているように思える。


「澄香先輩。何か用なのか?」


「いえ……特に用というわけでは」


 澄香は口ごもり、顔を伏せた。


 貞彦は、自分の返答はいじわるだったかもしれないと、後悔していた。


 貞彦の物言いはまるで、用がないと話をしてはいけないとでも、言っているようじゃないか。


「そうか」


 ここで引いてしまう自分を、本当によわっちいと思う。


 澄香のことを知りたいと言っておきながら、このざまである。


 貞彦は自分の席に戻ろうとして、足を止めた。


 以前の自分であれば、ここで何事もないように席に戻り、何事もなかったように好きなことをして過ごす。


 それでいいはずだった。


 けれど、様々な人たちの想いに触れて、貞彦の心情は変わりつつある。


 幼馴染と付き合うべきだという偏った想いも。


 後輩たちにやる気を出して欲しいという身勝手な想いも。


 眠り姫の目を覚ましたいというわがままな想いも。


 友達を作ったり仲直りをしたりという目まぐるしい想いも。


 誰かと繋がることで、その人をより深く知ることができた。


 ままならないようで、好きなように生きている楽しさを知った。


 何が正しかったというわけではない。


 刻まれた物語は、それぞれの人物の決意から生まれたように思う。


 一歩踏み出した先に、何らかの未来が待っている。


 自分が踏み出す瞬間は、今この瞬間だ。


「澄香先輩」


「なんでしょうか?」


 どこか弱々しい口調で、澄香は返事をした。


「少し話をしたいから、お茶でもしないか?」


 澄香は花開くように微笑む。


「はい」






「貞彦さん。幸福とはこの瞬間にしかないと、私が言ったことを覚えていますか?」


 お茶を飲んで一息ついたタイミングで、澄香は言った。


 貞彦は喉が詰まりそうになった。


 一番触れてはいけない核心に迫ったように感じたからだ。


「忘れるわけがないよ。全部とは言わないけど、納得が出来た部分もあるし」


 誰かと通じ合い、重なる瞬間。


 その時は訪れなかったけれど、人生で最大の幸福の瞬間は、あの場面だったと言うことができる。


「私はその言葉が好きなのですが、幸福については様々な見解があります。例えば、フランツ・カフカという作家も、幸福について言及しています」


 貞彦のお茶を飲む手が止まった。


 以前のように儚げで、重苦しい話になるだろうと予感したからだ。


 さあ、なんでもかかってこいと、貞彦は覚悟を決めた。


「幸福になるための、完璧な方法がひとつある。それは――」


 貞彦は息を飲む。


 どんな言葉が来てもひるまないように、心を引き締めた。


「自己のなかにある確固たるものを信じ、しかもそれを磨くために努力をしないことである」


 貞彦は机に頭をぶつけた。


「なんじゃそりゃ! 後ろ向きすぎるわ!」


「あははははは」


 澄香は腹を抱えて笑いだした。


 貞彦の赤くなった額を見て、さらに笑いの勢いは増していた。


 貞彦は落とし穴に落とされたような気分だった。


 てっきり真剣な話だと思っていたから、その落差にはついていけなかった。


「貞彦さんは本当に、おもしろくて素敵ですね」


「褒めてるのか? いや褒めてないだろ!」


「ものすごく褒めてますよ。百点です」


「それはさすがに言いすぎじゃないか?」


「そうでしょうか? 二百点満点なのですが」


「じゃあ実質五〇点じゃん!」


「あははははは」


 澄香は全力で笑っていた。


 憂いに満ちた表情をしていたと思えば、人のことを弄り倒し始めた。


 澄香はなんの目的を持ってそんな話をしたのかと、貞彦は考えた。


 ふと、貞彦は懐かしさを感じた。


 懐かしさの正体について、貞彦は気付く。


 いつもは絵画のように、どこか作り物めいたお上品な笑顔を浮かべている。


 そんな澄香が、無邪気に声を上げて笑っている姿を見るのは、とても久しぶりだったのだ。


「とても面白かったです。貞彦さんのツッコミは、なんだか癖になりますね」


「お役に立てて光栄ですよ」


「拗ねているような態度も、可愛いですね」


 貞彦は恥ずかしくて視線を逸らした。


 けれど、先ほどまで感じていた気まずさのようなものは、簡単に吹き飛んでしまっていた。


「人生には様々な捉え方があるように思いますが、全ての瞬間にたった一つの信念を貫ける人など、ほとんどいないように感じます」


「まあ確かに、その日の気分とかによって、行動や言動も変わるだろうな」


「ええ。だからこそ人生は面白く、救いがあるようにも思えるのです」


 人生に意味がないと言った、澄香の様子とはまるで違っていた。


 儚くも刹那的な面影は消え去り、陽気でいたずらっ子じみた顔を覗かせている。


 澄香という人間のブレが見えて、貞彦はさらに混乱した。


「それは、どういうことなんだ?」


「その時その時で、最も自分に都合の良い言葉や、良い結果を得られるであろう信念を選べるということだと、私は考えています」


「なるほどな」


「その時を取り逃した私は、今の私とはまた違っている。今の私が考えていることは、なんだと思いますか?」


 澄香に見つめられる。


 期待に満ちた眼差しに、貞彦も自然と楽しい気持ちになる。


「なんだか、楽しそうに見えるよ」


「はい。正解です」


 澄香の笑顔につられて、貞彦も笑顔を見せる。


 憂いも、すれ違いも、重みも、今の澄香からは感じない。


 その代わり、澄香へと通ずる扉が、一度閉じられてしまったようにも思える。


 夏の到来を前にして、澄香に巣食う深淵は、陽炎のごとく消えていった。


 けれど、今はこれでいいのかもしれない。


 この瞬間の楽しさに目を向けることが、大事なことだと貞彦は思った。


「もうすぐ、夏休みですね」


「澄香先輩も、やっぱり楽しみなのか?」


「もちろんです。今年は生徒会が主催するイベントが行われるみたいですし」


「そういえばそうだった。確か奥霧が提案していたんだったな。峰子先輩が過労死しないか心配だ」


 みんなが楽しめるイベントというものを、生徒会室で話し合ったことを懐かしく思う。


 あの時は実現可能なんだろうかと心配だったが、実際に開催にまでこぎつけた峰子の手腕には恐れ入る。


「もし大変そうなら、私たちもお手伝いをしようと思うのですが、どうでしょうか?」


「喜んで」


 貞彦が答えると、澄香は満足そうに頷いた。


「夏休みが終わっても、体育祭に文化祭と、まだまだ楽しみは続きますね」


 澄香は今、未来を見ているように思える。


 現在だけでなく、訪れるであろう未来を。


 貞彦も思う。


 澄香や素直と、一緒に楽しめるこの先のことを。


 ただ、さらにその先のことについては、暗闇に覆われたように想像が出来なかった。


 今はまだ、考えたくはなかったからだ。


 だって、その先に待っているのは――。


 貞彦の逃避をするように、無理やりに口を開いた。


「体育祭って、澄香先輩は大丈夫なのか?」


「貞彦さん。もしかして私のことを、運動が不得意だと思っていませんか?」


「いやさ、この前猫之音を追いかけている時も、真っ先にバテてたし」


 澄香は相変わらず笑顔だった。


 しかし、なぜだろう。


 澄香の笑顔を見続けていた貞彦は、言葉にすることができない微妙な雰囲気の変化を感じ取った。


「見くびらないでください。私が本気を出せば、一〇〇メートルを八秒台で走れますよ」


「事実なら世界記録だよ!」


 澄香は得意気に親指を立てた。


「はい。自転車を使えば楽勝です」


「それなら俺もできるわ!」


 言った後、二人で笑い合う。


 笑いが部屋に染み込んで、和やかな雰囲気になった。


 澄香はわずかに上体を貞彦に寄せる。


 貞彦もわずかに近づく。


 手を伸ばせば触れてしまう。ボール一個分ほどの開けた空間。


 けれど、無限のように隔たっている。


 この距離が、今の精一杯。


「これからが楽しみですね。貞彦さん」

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