第16話 この世が夢や幻だとしても

 目を覚ました猫之音は、姉のナコを引き連れて香田をボコボコにした。


 香田の被害状況の割合は、十割ナコによるものであった。


「いやー。ネコちゃんが起きているところを久々に見られたよ。ありがとね」


「いえいえ。渡会さんや香田さんのお力ですよ」


 褒められた渡会さんは、人見知り全開でカーテンの中に隠れていた。


 そして、香田さんと言えば。


「そっかそっか。光樹のおかげでもあるのか。すごいじゃん」


「ああああああああああああなら卍固めをやめてえええええ」


 現在進行形でナコに絞め技をかけられていた。


 目覚めてすぐ、夢の中の出来事をナコに報告したらしい。


 妹思いというかシスコン気味のナコは、凄まじい勢いで香田にお仕置きを繰り出し始めたのだった。


「それとこれとは別だよね。可愛い妹においたする奴には、こうだ!」


「ぎゃああああああああああ」


 あいつまた気絶するんじゃないかと、貞彦は少しだけ心配になった。


「……貞彦くん」


 ナコと香田を眺めていると、猫之音が話しかけてきた。


 瞳は開いているが、瞼が下がり気味で常に眠そうだ。


「……膝蹴りしちゃって、ごめんなさい」


「いいよ、別に。というか、その時の記憶があるんだな」


「……うん。全部覚えてる。貞彦くんのラブコメも、キスしてくれなかったことも……」


「それは一刻も早く忘れてくれないか!?」


 澄香と素直に聞かれているのではないかと、貞彦は不安でいっぱいだった。


 とはいえ、きちんと謝ってくれたことで、猫之音に対する恐怖はもう無くなっていたいた。


「なあ、猫之音」


「……なに?」


「結果的に無理やり起こしちまったけど、本当に良かったのか?」


 猫之音ネコは、夢の世界で楽しく生きることを望んでいた。


 けれど、身勝手とも言える思いで、無理やりのような形で起こしてしまったのだ。


 眠り姫にとって、眠り続けることが幸せの形だったとしたら、それを壊してしまったんじゃないかと、貞彦は心配だった。


「……起こした方が言うセリフじゃないと思う……」


「そうだよなあ」


「……それに、あの起こし方はない」


「まあ、それについては……俺もどうかとは思った」


 口を尖らせている猫之音だったが、ふっと表情を和らげた。


「……でも、起こしにてくれたのが光樹くんで、よかったなって思う」


「そうなのか?」


「……うん。小学生の時、いつもは女の子の友達が起こしに来てくれてたんだけど……一回だけ光樹くんが起こしてくれたことがあった」


 その話は、香田から聞いていたので知っていた。


「猫之音は、その時どう思ったんだ?」


「……今までにないことだったから、けっこう嬉しかった……今まで特になんでもないクラスメイトだったけど……それから気が付けば、光樹くんのことを目で追っていた気がする……」


 猫之音は嬉しそうに語った。


 香田にとって特別だった出来事が、猫之音にとっても特別な色合いを帯びていた。


 そのことを知れて、貞彦は嬉しくなった。


「……光樹くんに初めてスカートめくりをされた時は、びっくりして眠れなかった」


「猫之音が眠れなかったなんて、相当だな」


「……私もそう思う。だから多分、その分いっぱい寝るようになったのかも……」


 香田がスカートめくりをしてしまった日から、猫之音が眠りながら動くようになった。


 それを香田は自分が悪いことをしたからだと罪悪感に囚われていたが、猫之音に言わせれば、ただ単に寝不足が原因だったらしい。


「そういえば、なんで突然学校に来なくなったんだ?」


 貞彦は、感じていた疑問を解消しようと質問した。


 いきなり男どもに囲まれる経験をしたことで、現実に対する恐怖を強めてしまったんじゃないかと、貞彦は考えていた。


 けれど、筋の通っているようなストーリーも、正しいかどうかは別である。


 きちんと聞いてみて、確認しようと考えた。


「……ただ単に、いっぱい走り回って疲れちゃったから……」


「それだけか?」


「……たぶん、それだけ」


 貞彦は苦笑した。


 本当かどうかはわからない。表面に出ていない深層の想いは、もっと複雑かもしれない。


 ただ、猫之音がその件をあまり気にしていないというのであれば、それはとても良いことなのだろうと、貞彦は思った。


 ナコの絞め技は流れるように繰り出され、最終的にはアルゼンチン・バックブリーカーでフィニッシュを決めた。


 猫之音は、香田が痛めつけられているからか、姉がイキイキとしているからか、はしゃぐように手を上げてジャンプしていた。


「猫之音、現実は楽しいか?」


 猫之音は、猫のように朗らかな笑みを見せた。


 眠り姫は笑う。眠っていても起きていても、とても魅力的な笑みで。


「……まだ、わからない。でも、光樹くんが無理やり起こしたんだから、せきにんはとってもらう……光樹くんは、私を楽しませる義務がある。だから……ちょっと楽しみ」


 なんだか他人のラブコメばっかり見せられた気がするけれど、今回はまだ、恋愛にまで達していないように感じる。


 だからこそ面白いと思う。


 二人の物語は、きっとこれから始まるのだ。






 香田と猫之音の件を終えた相談支援部の面々は、余暇の時間を思い思いに過ごしていた。


 わけではなかった。


「澄香先輩。素直。どうしてソファーで密着しなきゃならないんだ?」


 相談支援部室のソファーには澄香、貞彦、素直の順で座っていた。


 三人掛けのものではあるが、端まで使わず、あえてスペースを狭く使っていて、肩と肩が密着していた。


 いつもの距離感はどうしたと、貞彦は思った。


「貞彦さんはつれないです」


 夢の中の澄香に言われたことと、同じようなことを言われた。


 夢の内容を見られていたのかと思い、貞彦の心臓は跳ね上がった。


「貞彦さんの夢の話では、私と素直さんのことは一切触れませんでしたね。私たちが出てこなかったのか、出てきたけど言わなかったのか、そのどちらかだと思います」


 真実を言い当てられて、貞彦は非常に居心地が悪くなった。


 素直はむっとした表情をしていた。


「どっちにしてもなんか嫌だなー。というわけで今日はみんなで一緒の夢を見るよ」


 三人でソファーに密着しているのは、そのためだったのかと貞彦は悟った。


「そんな都合よくいくわけが」


「貞彦さんは『胡蝶の夢』という言葉は知っていますか?」


 唐突に澄香は聞いた。


「いや、知らないけど」


「中国の荘子が、胡蝶になった夢を見ました。夢から覚めても、自分が胡蝶なのか、胡蝶が自分なのかわからなくなったそうです」


 夢の中で、ラブコメ染みた体験を貞彦はしていた。


 今ならば夢であるとはっきりと意識はできるけれど、あの時はその出来事が夢だなんて、思いもしなかった。


「今、私たちが見ている現実は、胡蝶が見ている夢なのかもしれない。夢と現実は区別がつかなくて、とても儚いものだということです」


 猫之音の夢を、夢だとして覚めさせたのが今回の出来事だ。


 けれど、夢から覚めたこの世界が、本当に現実だとは限らない。


 夢から覚めた先が、また夢の続きだった、というおかしなストーリーということも、充分にあり得てしまう。


 貞彦は、今の自分が現実にいるのだろうかと、不安になった。


「大丈夫だよ。貞彦先輩」


 素直は貞彦の手を握った。


「不安がることなんて、何もないですよ」


 澄香は一度貞彦の手を握ろうとしたが、離してしまった。


 けれど、おっかなびっくりとではあるが、貞彦の手を握った。


「夢だろうが現実だろうがわたしたちはここにいるよ」


 素直の一言が、とても頼もしく聞こえた。


 両手に感じるぬくもりは、安心感を連れてくる。


 なんだか、よく眠れそうだ。


 そう感じた。


「夢というテーマに沿って、最後はこんなお話はどうでしょう」


 澄香は一度咳払いをした。


「東京スカパラダイスオーケストラとASIAN KUNG -FU GENERATIONの共同楽曲に『Wake Up!』という曲があります」


「わたしは知らない」


「俺もだ」


 澄香は気にしていないようで、二人に向かって微笑んだ。


「トランペットの音がとても印象的な、パレードを想起させられる楽し気な曲なのです」


 澄香は、曲のサビ部分を鼻歌で歌った。


「しかし、その歌詞を私なりに解釈すると、当たり前なことを疑わず、自分で考える術を持たないことを嘆いているように感じます。だから、タイトルが『Wake Up!』なんです。目を覚ませと、メッセージを送っているのです」


 貞彦は考えた。


 自分で考え、出来る限り良く思うことをしてきたつもりだけど、本当にそうなのだろうかと。


 自分自身の選択を、きちんとできているのかと、改めて疑問に思った。


「真実から目を逸らし、嫌な声を聞き流す。そうやって生きることは、悪いことではありません」


「悪いことではなくてもわたしは嫌だなー」


「素直さんらしいですね。本当の現実を受け入れて、ありのままの世界が見えた時、美しくも残酷な世界が見えてくるかもしれません」


 貞彦は、猫之音ネコのことを思う。


 現実よりも夢を選んできたことは、逃げだったという風に言う奴もいるかもしれない。


 それが適切な表現かはわからないけど、猫之音は現実に戻ってきた。


 退屈でめんどうくさい。地に足がついて空も飛べない世界で、猫之音は何を見るのだろう。


 その時に、猫之音がどうなるかなんてわからない。


 退屈さに、辛さに絶望して、また夢の世界に行ってしまうかもしれない。


 そうなった時、それが悪いことだなんて言えない。


 けれど、今回猫之音が手に入れたのは、ただ一緒に生きることのできる現実だ。


 誰かと共有して生きられる可能性だ。そう思う。


 貞彦は、猫之音のこれからがどうなっていくのか、少し楽しみになった。


「目を開けない現実こそが地獄とでも言うように、歌詞のサビはこう締めくくられます」


 澄香は、悪魔が揶揄やゆを飛ばすような口調で言う。


「悪い夢見てるぜ」

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