エピローグ 夢で見つけた光

「……今日、両親も姉もいないから」


 猫之音にそう誘われて、香田は緊張で死んでしまいそうだった。


 都合よく考えれば、猫之音以外に誰もいない中で家にお呼ばれするということは、完全にそういうことだろうと期待できる。


 しかし、香田には負い目があった。


 猫之音が望んでいないにも関わらず、無理やり目覚めさせるようなことをしてしまった。


 しかも、手段としては最悪の部類となる方法でだ。


 それ相応の報いはナコから受けたけれど、恐ろしいことに猫之音からの直接的な報復はなかった。


 これで終わりだと、調子のいいことは考えていない。


 なんせ、小学生の時は記憶を失くすまでボコボコにされたのだ。


 このまま終わるなんて甘いことを、香田は考えていなかった。


 家に呼ばれたということは「……直接私が手を下すから、覚悟しておいてね」という意味だと、半ば確信していた。


「……どうぞ、上がって」


「お、お邪魔します」


 玄関先にトラップでも仕掛けられていると考えていたが、特に何もなく猫之音家に入ることができた。


 てっきり報復の第一弾が待ち受けていると思い込んでいたので、拍子抜けした。


 猫之音は台所に籠ってしまい、香田はリビングに取り残された。


 きっと、俺をやるつもりで、武器になる包丁でも研いでいるのだろうと、香田は怯えていた。


 痛いのは嫌だから、せめて一思いに一撃で済ませて欲しい。


 死刑の執行を待つ気持ちでいたのだが、猫之音が運んできたのは普通の夕食だった。


 白米、味噌汁、焼き魚に葉生姜が添えられている。千切りキャベツにトマトのサラダ。


 具材の大きさはわずかに不均一で、料理をするのは慣れていない様子がうかがえる。


 けれど、ごく一般的な夕食だった。


「……つまらないものですが」


「多分、使い方を間違ってると思うぞ」


 ついには毒さえも使うようになったのかと、香田は疑心暗鬼になった。


「……食べないの?」


「いや、食べる。いただきます」


 おそるおそる、味噌汁を口に運ぶ。


 食べづらいと思うのは、きっと猫之音が不安そうな瞳をしているからだろう。


 猫之音の手料理で死ぬなら、人生の最後としてはマシなのかもしれない。


 失礼なことを思いつつ、意を決して料理を口に運んだ。


 咀嚼する。味は薄めで、具材の煮え方はわずかに足りないように感じた。


 チラリと、猫之音を観察する。


 見えないように隠している両手が、指の隙間からわずかに見えてしまう。


 手の下に隠された絆創膏は、きっと努力の証。


「おいしいよ」


 香田がそう言うと、猫之音は安堵か溜息をついた。


「……本当?」


「ああ。猫之音はきっと、いいお嫁さんになれるな」


「……そう」


 そっけないように聞こえる返事だったが、視線はずっと香田から外さなかった。


 眠そうに見える瞳も、なんとなく嬉しそうに揺れている。


 料理に関しては、どうやら香田のことを思って作ってくれたらしい。


 さすがの香田も、そのことは理解することができた。


 とりあえず、毒殺の件は薄くなったと思い、香田は安心して食事を楽しんだ。






 二人で食事の後片付けをして、リビングでテレビを見て、何気ない会話を交わした。


 猫之音と話すことは久しぶりなので、会話は途切れ途切れだった。


 単発的な会話を交わして、次の話題が見つかるまでは黙り込む。


 そんな流れだった。


「……お風呂、先に入って」


 そう促されて断るわけにもいかず、香田は先に風呂をいただいた。


 猫之音家の風呂は、香田が足を目一杯伸ばせるくらいに広さがあった。


 猫之音にとって心地よいようにと、あえて広めに作ったのかもしれない。


「猫之音の奴、一体何を考えているんだか」


 香田は、猫之音が復讐のために自らに地の利がある自宅へ呼び寄せたものだと、信じ切っていた。


 しかし、今のところ猫之音からのあからさまな攻撃はない。


 これじゃあまるで、普通に家デートをしているようじゃないかと、香田はのぼせそうになる。


 ガラガラと、風呂の入口の扉が開く音。


 しまったと、香田は自分の浅はかさを呪った。


 風呂に入ってしまえば、当然衣服は脱いでしまう。


 身に着けるものは何もない、無防備な状態だ。


 武器となるものが何もない中で、襲撃されてしまうのだろう。


 香田は、ボコボコにのされる運命を受け入れるため、心の準備を始めた。


 きっと今にも扉が開いて、何か痛いもので殴られるんだと思い、身構えた。


 しかし、香田の覚悟に反して、猫之音は風呂場に侵入してくることはなかった。


「……バスタオルを忘れたから、置いておくね」


「ああ……ありがとう」


 ガラガラという音が響き、再び扉は閉まる。


 一人残された香田は、ひたすら納得がいかなかった。


「……猫之音の奴は、本当に何がしたいんだ?」


 その疑問に答えてくれる者は、誰もいなかった。






「……もうそろそろ、寝よ」


 寝込みというのは、襲われるには絶好の状況だ。


 ドキドキ寝床体験を思い、香田は動悸が治まらなかった。


 その他の症状として、頭痛、吐き気、神経痛にも見舞われていた。


 思春期にありがちなドキドキではなくて、完全にストレス性のものだった。


 ついに裁きの時が! と思い、香田は信じてもいない神に祈りを捧げた。


「……どうしたの?」


 一向に動こうとしない香田を気にして、猫之音は声をかけた。


「いや、俺はどこで寝ればいいのかなーって思ってさ」


 おそらくはリビング辺りを指定されると、香田は思っていた。


 慈悲があるのなら、床ではなく、せめてソファーを使わせて欲しい。


「……私の部屋」


 香田は、多分聞き間違いだろうと猫之音の言葉を処理した。


「ごめん聞き取れなかった。もう一回言って欲しい」


 猫之音は不思議そうに首をかしげていた。


「……私の部屋で、光樹くんは一緒に寝る。オッケイ?」


 オッケー。


 なんて言えるはずがないだろ。


 香田は心の中だけでツッコんだ。


「えっと、ほら、よく言う言葉だけど、男はオオカミなのよって言うか」


「……光樹くんはオオカミだったの?」


「いや、それは違うけど」


「……なら、大丈夫。心配ない」


 本当に心配なのは、猫之音じゃなくて自分の身だった。


 少なくとも、自分が猫之音を襲ってしまう心配はしていない。


 襲われるとしたら、むしろ自分の方だと思うから。


 性的な意味ではなく、暴力的な意味で。


「……いこ」


「はい」


 香田は観念して、猫之音の後ろをついていった。






 猫之音が隣にいる猫之音が隣にいる猫之音が隣にいる猫之音が隣にいる。


 念仏のように、思考が繰り返された。


 ダブルベッドのギリギリまで距離を取り、香田は寝転がっていた。


 視線はテレビの方に向けているので、猫之音の方は見えない。


 というより、直接見つめてしまうと、頭がおかしくなりそうだから必死に避けていた。


 テレビから流れる芸人のコントなんて、まるで頭に入らなかった。


 コントなんかより、今の自分の方がおもしろい状況になっとるわ。


 そう確信できる。


 背中からわずか50㎝足らず。それほどまでに距離が近い。


 すぐ側に猫之音がいる。二週間前の自分であれば、恐怖で失禁してしまったことだろう。


 相談支援部の人たちの助けがなければ、このような事態に耐えられなかったと思う。


 香田は相談支援部のみんなに、全力で感謝していた。


「……むー」


 猫之音は声を上げた。


 不満のニュアンスが込められているように、香田は感じた。


「……えいっ」


 突如テレビの電源が落ちて、照明が落とされた。


 なにごとかと混乱していると、左肩を握られて、反対方向を向かされた。


 猫之音の顔を真正面に捉える。


 眠そうながらも瞳は尖り、口元は非難に満ちていた。


 右手は無造作に投げ出され、ベッドに委ねていた。


 アニマルプリントの子供っぽいパジャマ。幼い頃から愛用していたようで、卑怯なことにとても似合っていると感じた。


「……テレビばかりに夢中になって」


 本当は夢中になんてなれなかったのだが、言い訳は思いつかない。


「ごめん」


 香田が謝ると、猫之音は表情を和らげた。


 やることもなく、どうすればいいのかわからない。


 ただ、見つめ合う時間が続く。


 暗闇に慣れてきたのか、ただでさえ大きな猫之音の黒目が、さらに大きく魅力を帯びる。


 不覚にも、見惚れてしまう。


 いや、昔から見惚れていたのだ。


 とびきり可愛くて、寝ている時は幸せそうで、起きている時もなんだか楽しそうな様子で。


 恐怖の対象となってからも、観察という名目で見つめていたのは、きっと自分の意思だったのだ。


 違う学校に行ったり、生活スタイルを変えたり、猫之音と接触しない方法なんて、今考えればいくらでもあったはずだ。


 それでも、わずかな繋がりを捨ててしまうことはできなかった。


 考えないようにしていたことに、今になって気づくことができた。


「……光樹くんは、どうして私に怯えていたの?」


 猫之音に聞かれて、香田は質問の意味がわからなかった。


 そんなことは、猫之音自身がよくわかっているだろうと、思っていたからだった。


「どうしてって、俺が悪いのはわかってるんだけど……あんなことがあったから、そりゃあ、ねえ」


 香田は言葉を濁した。


 あえて言葉に出すことを情けなく感じたからだ。


「……スカートめくりは光樹くんの自業自得だよ……でも、お姉ちゃんに懲らしめられたからって、私に怯えるのはよくわからないなって」


 お姉ちゃんに懲らしめられた?


 猫之音の言葉が反芻される。


 その意味を理解した時、香田は驚きに満たされた。


「え? 小学生の時に俺をボコボコにしたのって、猫之音じゃなくてナコさんだったの?」


「……そうだよ」


 寝ながら、猫之音は頷いた。


 記憶がなくなるまで香田を痛めつけた相手は、猫之音ネコではなく、姉のナコだった。


 確かに、妹のことを大切に思っているナコのことだから、ありえそうな話だと納得ができる。


 香田はこの時に初めて知った。


 猫之音ことを怖がっていたのは、全部自分の勘違いだったということを。


「でも、それならどうして、寝ている間は誰かを攻撃するようになったんだ?」


 勘違いだったとしても、わからない点はそこだった。


 今まで暴力なんて奮ったことのない猫之音が、どうして急に攻撃的になったのか。


 そのわけを知りたかった。


「……あれは、お姉ちゃんが仕込んだみたい。何かあったら危ないからって」


 自分に発端があるとはいえ、何から何までナコが関与していたようだった。


「……はは。そっか、ナコさんか」


 思わず笑いが出てしまう。


 勝手に思い違いをして、勝手に怖がって。


 観察して、考察して、挙句の果てに夢から目覚めさせてしまったけれど、猫之音のことを全然理解していなかったんだと、自嘲的に笑った。


「……むー」


 突然、猫之音はまた声を上げた。


 不満顔である。


「えっと、何がそんなにご不満?」


「……お姉ちゃんのことは、名前で呼ぶんだ……私は光樹くんって呼んでるのに」


 二人とも猫之音呼びではどっちがどっちかわからない。


 香田としては、そのくらいの軽い気持ちだった。


 恐怖や不安は、すっかりと消え去った。


 猫之音ネコの姿が、今になって鮮明に見えるようになった。


「……ネコ」


「……うん」


 ネコはくすぐったそうに笑った。


 それだけで、なんだか幸せな気分になる。


 しばらく見つめ合う。


 のしかかっていた気まずさが、急に軽くなった。


 穏やかで規則正しい呼吸。すっと通った綺麗な鼻筋。吸い込まれそうな可愛らしい猫目。


 いつまでも見ていられると思った。


「……なんだか不思議」


「不思議?」


「……眠ることが誰よりも好きなのに、なんだかもったいなく思うの。まだ――眠りたくない」


 眠ることが大好きな猫之音が、眠りたくないと言った。


 それほどまでに、今の瞬間を楽しく思ってくれている。


 愛おしくなって、自然と手を伸ばす。手のひらが合わさり、指が絡まる。


「……もっと、話そうよ」


「どんなお話がいい?」


「……話せなかった、今までのこと。今日のこと。あと、明日のことも……」


「うん。なんだって話そう」


「……それから、光樹くんのこと。私のこと……」


 空白の時間を埋めるには、どれだけの時間がかかるだろう。


 どれだけかかるとしても、それは考えても意味のない話かもしれない。


 これからがあるのだから。


 諦めずに見つけた夢の中の光は、今でもここで輝いている。


 この感情は、やっと恋と呼べるのかもしれない。


 そう意識した時、もっともっと語りたくて、ネコのことをもっともっと知りたいと思った。


「おう。ネコはきっと知らないであろう、神経質で不安症な、俺のことも話そう」


「……うん」


 今日の夜は、まだまだとても長くなる。


 それでも、思いを語り合うには全然足りないかもしれない。


「……もっと、私を見て」






 まだ夜が支配する最中、香田は一人、目を覚ました。


 目の前にはネコの寝顔があった。


 口の端は上がっていて、相変わらず幸せそうに眠っている。


 結局、どちらかが寝落ちするまで語りつくした。


 思い出話、好きなものや嫌いなもの。他愛のない話など。


 話をする中で、ネコは言っていた。


「……この気持ちが、恋なのかどうかは、まだわからない」


 それほど落胆したりはしなかった。


 なんせ何年も眠り続けていたのだから、気持ちの捉え方に難があるのも当然だと思う。


 もう一度寝ようとして、ふと不安に襲われる。


 ネコの寝姿が、あまりに静かすぎるのだ。


 夢の世界を体験したことで、世界の曖昧さを知った。


 夢と現実の違いなど、究極的には理解できないのかもしれない。


 ネコの件に関して、あまりにもうまくいきすぎていた。


 ネコの家にお呼ばれして、手料理を振る舞ってくれた上に、一緒のベッドで寝ている。


 こんなことが、果たして現実にありえるのだろうか?


 香田は不安になり、ネコの口元に耳を近づけた。


 わずかだが、呼吸音が聞こえる。生きている。


「良かった……」


 そう思った瞬間、すぐにでも裏切られてしまう可能性も、否定できなかった。


 自分の見ている現実が、本当は夢だったんだと突き落とされる。


 そんなバカなと笑い飛ばせる根拠が、一体どこにあると言うのだろうか?


 世界が堅牢であるなどと、どうやって証明すればいいのか。


 塵のような不安が積もっていく。


 香田は、また眠れなくなるのではないかと、不安を募らせていった。

























「なーんてな」


 香田はバレないようにネコの頬をなでた。


 しっとりとして、弾力性がある。跳ね返ってくる感触すらも、愛おしく感じる。


 この感覚が嘘だったとしても、夢だったとしても、それはそれで構わないように感じた。


 もし俺が夢に囚われてしまっても、きっと大丈夫だ。ネコがきっと、俺を夢から連れ戻してくれる気がする。夢の扱いは、自分なんかよりネコの方がよっぽどうまいだろうと香田は思う。


 それに、相談支援部のみんなも、きっと手を貸してくれるだろう。


 香田は安心感に満たされていた。


 これからもきっと、不安を感じやすい自分を抱えて、大いに動揺して過ごすことになるかもしれない。


 それも仕方がない。こういう性分なのだから。


 さきほどまで感じていた不安は、随分と小さくなっていた。


 これならきっと、よく眠れることだろう。


「おやすみ、ネコ」


 香田は瞳を閉じた。


 不安な思考は途切れる。


 幸福に包まれながら、意識はまどろみに溶けていく。


 願わくば、幸せな夢が見られますように。


 それでは――おやすみなさい。

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