第15話 香田流スリーピング・ビューティー

「猫之音、勝手な願いだとはわかってる。たまには寝たっていいから、一緒に起きて現実に帰ろう」


「……やだ」


 香田が猫之音を説得にかかってから、もう三十分は経過していた。


 繰り返しているのは同じ言葉ばかりで、何も進展していなかった。


「ねえ澄香先輩」


「なんですか素直さん?」


「軽く衝撃を与えたらびっくりして起きるんじゃないかな?」


 素直はバイオレンスなことを言った。


 予想外に長く続いているため、しびれを切らしているようだ。


「それはあくまで最後の手段です」


 その選択肢はあるんかいと、貞彦は思った。


「でもその前に、やれることはやりましょうか」


 澄香は押し問答を繰り返す二人に近づいた。


「猫之音さん」


 澄香が声をかけると、猫之音は緩慢な動きで振り向いた。


「……白須美先輩……だっけ?」


「はい。そうです。ご一緒に眺めていた空は、とても綺麗なものでしたね」


 警戒心を解くように、マシュマロのごときふんわりとした笑顔を見せた。


「猫之音さんのお気持ちはわかりますが、単刀直入に聞かせてください。猫之音さんは、どうしたら目覚めてくれますか?」


 本人の意思をあくまでも尊重する、澄香らしい聞き方だった。


「……私はただ……寝ているのが楽しいだけ……現実はつまらないし」


 猫之音は夢の中ですら、うつらうつらとしている。


「現実がつまらない、というのは早計かもしれませんよ。楽しいことばかりではないことは確かです。しかし……」


 澄香は言葉を区切り、両手を胸に当てていた。


 今までの思い出を味わうように、じんわりと気持ちを滲ませているようだった。


「さりげない日常の中に潜む楽しさ。つまらない日常があるからこそ、楽しさはより一層輝きを増すのです」


 学校に行く。授業を受ける。飯を食べる。一日が過ぎる。


 簡素で平坦な日々の中にも、輝くものがある。


 貞彦が考えていたことと、澄香も同様のことを思っていることがわかり、少しだけ嬉しくなった。


「……貞彦くんも、そんなことを言っていた気がする……」


「夢の中の楽しさを否定するつもりはありません。ただ、現実の楽しさも知らないということは、ただ単にもったいないなあと思うのです」


 猫之音の表情が固まった。


 分かりづらいが、どうやら猫之音なりに心が揺れているらしい。


「……光樹くんは、私に目覚めて欲しいんだよね?」


「もちろんだ」


「……じゃあ、キスして?」


「ぶ――――」


 香田は思いっきり噴き出した。


「な、なんでそうなるの?」


「……夢の中で色々な体験はした……けど、普通に恋は、したことがないから……」


 貞彦は夢の内容が記憶に上っていた。


 猫之音と恋人同士の設定となって、キスをせがまれたこと。


 一人で眠りながら過ごしてきた猫之音も、年頃の乙女だ。


 決して、普通への憧れがないわけではなかった。


 きっと想像の中では、うまく恋はできなかったんだろうと想像ができる。


 だからこそ、こだわっているのかもしれない。


「……ねえ、してくれないの?」


 甘えるように猫之音はねだる。


 香田は変なポーズで固まっていた。


 無理もない。つい最近まで怖くて怖くて仕方のない相手に、キスをせがまれるなんてこと、人生ではなかっただろうから。


「……どうせなら、ロマンチックがいいよね……」


 猫之音が手をかざすと、暗闇の景色が一変した。


 心安らぐ潮騒。さらさらとした砂の感触。月明かりに照らされて、海はキラキラと反射している。


 夜の海岸の光景へと、周囲は変貌していた。


「……ちょっとだけ、ドキドキ。もしもキスされちゃったら……びっくりして起きちゃうかもよ……?」


 ロマンチックなシチュエーションが整う。貞彦たちを覗けば、周囲には誰もいない。恋人たちが愛を語り合うにはうってつけの場所となっていた。


 それでも、香田はやっぱり動けないでいた。


「香田先輩! 男を見せなよ!」


「香田さん。ファイトです!」


「香田……がんばれ!」


 三者三様の応援が飛んだ。


 香田はどうするべきか迷っていた。


 なんでこんなことになったんだろうと、己の運命を呪っていた。


「香田さん。猫之音さんと手をつないだり、一緒にどこかへ出かけたり、美味しい物を食べたりする様を想像してみてください」


 かつて言われたことを、再び想像してみた。


 ミックスフライ定食を頬張った時、きっと晴れやかな顔に変わることだろう。手をつないで出かけることができたら、もしかしたら恥ずかしそうにはにかんでくれるかもしれない。


 あの時は想像できなかった猫之音の笑顔を、今でははっきりと想像することができた。


 そんなこれからが、来てほしいと思ってしまった。


 香田は動き出した。


 震えで近づくのもやっとだったが、未知の怖さがあることは猫之音も一緒だった。


 ぎこちなく、二人の唇は近づき、やがて距離がゼロになる。


「……今回は誰も騒がないんだな」


 貞彦は一人呟いた。


 二人は唇を離し、紅潮した顔で向き合っていた。


 ここで目を覚まし、あわやハッピーエンドかと思いきや。


「……けっこうドキドキした……けど、目が覚めちゃうほどではなかったかな……」


 猫之音は寂し気に言った。


 期待したほどの感情の昂りは得られなかったようだった。


「……そろそろ、みんなは夢から覚めそうだね……時間切れ。バイバイ……」


 貞彦たちの体が、段々透明へと近づいていく。


 夢から覚めて、現実に帰還する合図だと悟った。


 ここまで来たのに、だめだったか……。


 貞彦は無力感に打ちひしがれていた。


「あー消えちゃうよー。猫之音先輩が眠ったまんまになっちゃう……こうなったら……」


 素直は覚悟を決めて走りだす構えを取った。


「いや、さすがにやめとけ」


「貞彦先輩離してー」


 強硬手段に出る前に素直を捕まえた。


「もうこれしか手段がないと思うんだよ」


「無理やり起こしても意味ねえだろ」


「いえ……まだ他の手段が残っています」


 澄香まで猫之音に何かするのかと戦々恐々となったが、予想に反して、香田に声をかけた。


「香田さん。眠り姫の目を覚ます方法をキスに拘る必要はないのです。香田さんには、香田さんの方法があるはずです」


 香田はハッとしていた。


 何かに思い当たったようだが、貞彦には香田の心境がわからなかった。


 香田は頭を抱えていた。


 何かしらのアイデアはあるようだが、実行に移すか思い悩んでいるようだった。


 猫之音は何も言わずに、香田を眺めていた。


 何らかの期待と失望。


 猫之音の真意はわからないが、孤独で楽し気な夢見る少女の寂しさを垣間見たように感じた。


 香田の表情が変わる。


 香田は覚悟を決めるように両頬を三回叩いた。


 そして、貞彦の方へ向き直った。


「なあ久田くん」


「なんだ?」


「俺たち……友達だよな?」


「え、ああ、うん」


 かなり微妙なラインだとは思ったが、否定できる雰囲気ではなかった。


 香田の額には汗が滲んでおり、握りしめた拳は恐怖によるものか震えていた。


 目じりには涙が溜まり、顔色はとても悪かった。


 それでも、香田は引かなかった。


「骨は――拾ってくれ!」


「……何を、する気?」


 猫之音が尋ねた時には、香田は猫之音の間合いに入っていた。


「あっ」


「……え?」


 一瞬上を見て猫之音の視線を誘導する。まんまと罠にハマった猫之音。下半身には意識が向かずに、無防備な状態だった。


 あっ。


 貞彦は、香田が何をしようとしているのかわかってしまった。


「猫之音……ごめんなさい」


 香田は猫之音のスカートを思いっきりめくった。


 猫之音は反応できず、下着が衆目に晒される。


 残念ながらというか、スカートがめくれた瞬間、恐るべき反射神経で素直が貞彦の目をふさいだ。


 そのため、貞彦には何も見えなかった。


 素直が目隠しを外した時、猫之音は驚愕で呆けていた。


 めくられたスカートが沈黙する。


 これはきっと、嵐の前の静けさだと貞彦は感じた。


「き」


 次の瞬間、世界は爆発した。


「きゃあああああああああああああああ」


 猫之音の悲鳴が轟き、土砂崩れのような勢いで、世界は崩壊した。


 剥がれ落ちるといった、生ぬるい様相ではなかった。


 容赦も慈悲もなく、世界はまるごと崩れ落ちていった。


 透明に限りなく近くなった香田は、震える声で猫之音に言い放った。


「恨むんなら俺を恨め猫之音! 現実で……俺を殺しに来い!」


 真っ先に香田が世界から消えていった。


 貞彦だけでなく、全員の姿が見えなくなっていく。


 目覚めの時はすぐそこだった。


「笑顔が見たいとか言っていた奴がやることか!」


 貞彦が全力でツッコむと同時に、夢は消えてなくなった。

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