第12話 キスの味を知りたくない?

「やっぱり、毎日は楽しいね」


 隣に座る、猫之音ネコに話しかけられた。


 ベンチに腰を掛けながら、足をブランブランと揺らしている。


「楽しいっていうか、さすがに疲れてきたよ」


 貞彦は嘆息した。


 峰子との談笑を終えて帰ろうと思っていたら、ネコに捕まった。


 理由も不明瞭に学校を占拠したマフィアをなんとか制圧したと思えば、遊園地のジェットコースターではしゃいでいた。


 その後はバスケットボールの全国大会に参加し、無敗の帝王相手に間一髪の勝利を決め、日本を支配しようとする政治家の陰謀を食い止めた。


 忙しない、どころの騒ぎではなかった。


 脈絡やつながり、時の流れすらも曖昧であったのに、貞彦はもはや気にしてはいなかった。


 だって、それが世界の常識であるのだから、疑うまでもないのである。


「それじゃあ、次は何をしよっか。神と戦いを挑む? 不治の病の少女を救う? それとも、悪役の方なんていいかも」


 ネコは立ち上がり、ファイティングポーズを取る。クルクルと周り、楽しさを体で表現する。優雅に空も飛んで見せた。


「どれも魅力的な提案だけど、ちょっと休みたいかな」


「貞彦はなんかジジくさい。若いんだから、もっとガンガンとせーしゅんを楽しまなきゃ」


「ジジくさいはひどいな。別に俺だって青春とやらを楽しんではいるんだ。忙しい中にあるわずかな休息の時間も、楽しんだっていいじゃないか」


「ふーん。そういうもんなの? 色々あった方が楽しいんじゃないの?」


「メリハリは大事だぞ。日常っていうのは、いつも同じようにあるから日常って言うんだと思うんだ」


「それってどういう意味?」


「もし俺がウルトラマンにでもなって怪獣と戦うことになったら、それは突発的な非日常だと思う。けれど、毎日毎日それが繰り返されたら、非日常は当たり前に溶ける。日常になっちまうと思うんだ」


「それなら大丈夫。ここでは色々なことが起きるからね。毎日が非日常だよ」


「いや、毎日が非日常だと、それはもう日常だろ」


 ネコはおもしろくなさそうに口端を尖らせた。まるで自分自身が否定されたように感じたのかもしれない。


「別に悪いことだって言ってるんじゃないんだ。ただ、普通と言われるような日常があるから、非日常は光り輝く。コントラストとかギャップとか、そういうもんだと思うんだ」


「普通、か」


 ネコはしなやかにぴょんぴょんと飛び回り、本物の猫みたいに貞彦へと飛び掛かった。


 両手をクロスさせて防御に回るが、ネコは貞彦のふともも辺りに着地した。衝撃も痛みも、なぜか感じなかった。


 ネコの手が貞彦の体をなぞりながら腰に回される。力が入っていないようなのに、かなしばりのように動けない。


 無邪気な表情は影となり消え、切なさと愛しさの入り混じった上目遣いに囚われる。


「そういえば、普通の恋愛はまだしたことなかった」


「普通の恋愛ってなんだよ」


「キス、してみる?」


「なんで!?」


「別におかしくはないでしょ。私たち、恋人同士なんだから」


 ネコはなんでもないように言った。


 ネコに言われて、そういえばそうだったと貞彦は認識した。


 いつ頃かは覚えていない。きっかけすらもわからない。


 猫之音ネコとは恋人同士。


 ただそれだけは真実だと知っている。


「急に言われても、心の準備が」


「……私が恥ずかしくないと思ったら、大間違いだからね」


 ネコはもじもじと揺れている。瞳は吊り上がっているが、恥ずかしさを出さないための強がりのようにも思える。


 見つめ合っていると、どちらからともなく顔を逸らした。


 視線は合わずとも、じりじりと距離は近づく。ネコに触れる部分が広がる。そのたびに鼓動も激しくなる。


 すべらかな感触。にじり寄る唇。性的な欲求を感じる。


 相手を受け入れるように、閉じられる瞳。


「大丈夫。こんなのは勢いでぶちゅーってやっちゃえばいいんだよ。私も知らないけど」


「俺だって初めてだよ」


「そうなんだ。じゃあ想像しようよ」


 初恋は甘酸っぱいと聞くが、初キスの味も、やはり甘酸っぱいものなんだろうか。


「どんな味がいい? 甘くても辛くても、苦くてもいいよ」


 ネコは誘うように言った。


 理性や倫理なんて溶かしてしまうような、甘い囁き。


「それとも、イチゴパフェみたいな甘くてとろけるような、幸せの味?」


 初めてのキスを選べるなら、それはとびきり甘いものがいいなと貞彦は思う。


 感触が記憶となり、思い出に変わった時、思い出して笑顔になれるような甘美な物であればいい。


 貞彦はネコに顔を近づけた。


 あとほんの少し身じろぎするだけでも、触れてしまいそうに近い距離。


 キスのやり方はわからないが、何度か実際に見ることはできている。どこで見たのかは思い出せないけれど。


 貞彦は瞳を閉じた。そうすることが作法のように思えたから。


 乗り気になった貞彦の気配を感じ、ネコは気持ちの昂りから口を開く。


「まるで――夢のようだね」


 夢?


 キスをしようと言う気持ちが弾け飛んだ。


 曖昧となっていた思い出が、貞彦の脳裏で形を現す。


 美香子と太田のキスシーン。幸せを願い、涙を流す黒田。


 甲賀に覆いかぶさるカルナ。感謝と親愛を込めたディープなキスシーン。


 まりあと奥霧が抱き合う姿。祝福と憎悪に満たされたしっちゃかめっちゃかの空間。


 素直が笑う。澄香が笑う。話し合い、ぶつかり合い、関係性が深くなる。


 素直に抱き着かれる。


 澄香に触れられる。


 香田が、猫之音を空中で抱きとめる。


 猫之音は幸せそうに眠る。儚げに眠る。世界を信じるように、取り残されたように。


 でも、猫之音ネコは目の前で目を閉じている。未知の快楽に期待を寄せ、いまかいまかと待ち受けている。


 どっちが、現実なのだろう?


「貞彦?」


 いつまでもキスが来ないことで、ネコは貞彦を呼んだ。


「違う」


 貞彦は全てを思い出した。


 全てを思い出して、猫之音を拒絶した。


「何が違うの?」


「俺と猫之音は、恋人同士なんかじゃない」


 貞彦が言うと、周囲の景色に亀裂が走り、パズルのような形状で剥がれ落ちていった。


 音もなくぼろぼろと零れ落ちる。


 雑踏も街頭も消え、世界の形が不鮮明になる。


 夢の世界が、崩壊していく。


「ざーんねん。ちょっとだけ、ドキドキしたんだけどなあ」


 猫之音は宙を舞っていた。残念そうに眉を曲げて、夢の崩壊を嘆くように見ていた。


「よかったね貞彦。みんなとまた会えると思うよ」


 話は終わりだとばかりに、猫之音は身をひるがえして貞彦の元を去ろうとしていた。


「猫之音! お前はどうしてずっと寝ているんだ?」


 貞彦は猫之音の背中を追った。


 地面に足をつけている限り、絶対に追いつけないことはわかっていた。


 それでも、聞かずにはいられなかった。


 猫之音は、一度だけ振り返った。


「教えてあーげない」


 猫之音の髪が金色に光る。


 黄金に近いバレッタリボンが、猫之音の軌跡だけを残す。


 崩壊する世界の中、猫之音は遥か彼方に消えた。


 ついに足元が崩れ去った時、貞彦は暗闇の中に吸い込まれていった。

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