第8話 ネコの疾走

 校舎裏に辿り着くと、すでに死屍累々の様相を呈していた。


 何人かの男子たちが地面に倒れ伏しており、顔には攻撃を受けた証が痛々しく浮かび上がっていた。


 誰にやられたのか、なんて考える間でもなかった。


 誰も動くものがいない異様な空間で、立ち尽くしているのはただ一人だけなのだから。


 後ろ姿しか見えない。風にたなびく黒髪が、今日に限っては怒りをたぎらせる黒炎を想起させた。


 ゆらゆらと揺れている足元は、おぼつかないかに見える。


 むしろ、貞彦にとっては酔拳のような足取りのように思えた。


 最近よく見るようになった赤いバレッタリボンは、血で染まったような深紅。


「猫之音! 大丈夫か!」


 香田が呼ぶ。


 誰よりも前を走り、いち早く現場に駆け付けようとしていたのは、意外なことに香田だった。


 必死の形相で、がむしゃらに走っていた。


 迷子の飼い猫を探すように、一心不乱に。


 猫之音は振り返った。


 表情は普段と変わらない。


 瞼は閉じられ、顔の筋肉は弛緩している。口元は緩くてわずかに開いている。いつもと変わらない、幸せそうな寝顔。


 しかし、目に見えない雰囲気めいたものは、不穏な空気を醸し出している。


「猫之音先輩が動き出したよ。危ない!」


 素直が叫ぶ。


 猫之音はうつらうつらとしながらも、貞彦たちに突進してきた。


 香田が狙われるかと思っていたが、向かってきた対象は貞彦だった。


 攻撃がなされそうな状況にも関わらず、貞彦は思考をまとめていた。


 おそらく『猫之音ネコを愛で隊』とかいうアホみたいな奴らに迫られて、そいつらを全員返り討ちにしたのだろう。


 本来ならば、危険の排除が行われた時点で事は終わるはずだった。


 しかし、どうやら猫之音はまだ止まらない。


 現状から、状況から、今まで得てきた猫之音に関する情報から、推測を進める。


 貞彦の中で、一つの答えが出た。


 おそらく、猫之音は怖がっているのだ。


 猫之音は常に寝ている。機械的に動いている。自動的に生きている。


 しかし、それはAIなどと同義ではない。


 バレッタリボンの色は毎日変わる。赤、青、黄、緑など色とりどりに。香田によると、猫之音の気分を表しているらしい。


 挨拶を始めた頃は、何も変わらなかった。けれど、挨拶を交わし続けるうちに、猫之音はわずかではあるが反応するようになった。


 自動的な学習の結果だろうが、何を学習したのだろうか。


 その変化をもたらしのは、きっと猫之音の感情ではないかと考えてもいいように思える。


 人はなかなか変わらない。


 けれど、変わらなくても、関りによって得られるものがある。


 いてもいなくてもいい相手だった香田は、関わることで猫之音から存在を認められた。


 彼女の閉じた世界の中で、いてもいい人物だと認識された気がするのだ。


 長々と巡った思考は、結論に達する。


 猫之音に意識があるのかは定かではない。


 けれども、おそらく感情はあるのだ。


 よくわからない男子たちに囲まれて、迫られて怖いと思わないわけがない。


 だから、猫之音は自分を守った。


 恐怖から逃れるために、猫之音は戦った。そしてまだ、怯えている。


 それだけの話だと貞彦は思った。


 現実から逃避するように思考に没頭していると、猫之音の膝が貞彦を捉えるまで、一歩分の距離しかない。


 澄香先輩……素直……ごめん。


 貞彦は勝手に走馬灯を思い浮かべた。


「させないよ!」


 勝手に死を覚悟した貞彦の前に、素直が横から飛び込んできた。


 猫之音は恐るべき反応速度で素直の横をすり抜け、そのまま校舎に向けて駆けだして行った。


「追いかけましょう」


 澄香が呼びかけ、全員で猫之音の背中を追った。





 貞彦たちは、息を弾ませながら猫之音を追いかけた。


 決まった目的地はないようで、その場の気分で駆け抜けているようだった。


「あぶなってうわああああ」


「ぎゃあああああ」


 可哀そうなことに、たまたまぶつかりかけた男子生徒たちが、すれ違いざまに猫之音から蹴りをもらっていた。


 恐怖の気持ちが暴走しているのかもしれない。


 まるで通り魔のような所業を繰り返していても、猫之音はまだまだ止まる気配を見せなかった。


「廊下を走るとは何事じゃあああああ!」


 ドタバタとした足音が聞こえたのだろう。


 風紀委員長、甲賀岩鉄が顔を出した。


「甲賀先輩! 猫之音を止めてください!」


 貞彦が叫ぶと、甲賀の表情は険しいものとなった。


「また貴様らか久田ああああ」


 前回の件はむしろあんたのせいだろうがと貞彦は思ったが、それどころじゃなかった。


「説教なら後で受けますから、早く!」


 甲賀は納得がいかなそうだが、先頭を切って走っている猫之音を止めようと前方に立ちふさがった。


「貴様が元凶か。成敗!」


 甲賀は、相手が女子だということも考慮しない勢いで突進をした。


「ぬ?」


 猫之音は華麗に体を回転させ、甲賀の突進を避けた。


 そして、対象を見失った甲賀の死角に入り込み、甲賀の膝を使って跳躍し、シャイニングウィザードを決めた。


「ぐがあ」


 甲賀は崩れ落ちた。


 か、肝心なところで役に立たねえ。


 貞彦は甲賀を心の中で罵った。


 猫之音は崩れ落ちる甲賀を踏み台にして、更に高く跳躍した。


 くそっ。また逃げられちまう。


 貞彦は焦っていた。走り続けて、体力の限界が近づいてきた。


「貞彦先輩しゃがんで!」


 何をする気だと疑問を持ったが、素直の言うことに従い、勢いを殺しつつ滑りながらしゃがみこんだ。


「ごめんね!」


「いで」


 貞彦の背中に痛みが走った。


 貞彦の背中を踏み台にして、素直が全力で跳躍した。


 今顔を上げてしまえば、素直の秘密の空間が見えてしまうと思い、貞彦は顔を上げない紳士的対応に努めた。


「猫之音先輩ごめん! チェスト――――!」


 素直は勢いをそのままに猫之音を跳ね飛ばした。


 お前はもうバトル漫画か何かの主人公になれよと、貞彦は思った。


 猫之音はバランスを崩し、頭から落下を始めた。


「しまった!?」


 振り返りながら素直が言った。


 猫之音は重力に従って地面へと近づく。貞彦は膝をついていて動けない。甲賀はまだダメージから回復していなかった。澄香は少し遅れており、猫之音が地面へと叩きつけられるまでに間に合いそうもない。


 危ない。ぶつかる。


 貞彦は焦りから汗が噴き出していた。


「猫之音!」


 弾丸のような勢いで、香田は貞彦の横を駆け抜けた。


「間に合え!」


 香田はおもいっきり両足を踏み出し、体のバネを使い両手を前に放り出した。


 自身を顧みない全力のヘッドスライディングを決めて、香田はなんとか猫之音の体を捕まえた。


 摩擦が発生している痛々しい音が響くが、想定していた激突音は響かない。


 香田は猫之音をしっかりと抱きとめながら、床に伏していた。


「猫之音先輩大丈夫?」


 仕方がなかったとはいえ、やりすぎたと思ったのか、素直は申し訳なさそうに眉が下がっていた。


「いてて……猫之音なら大丈夫だ。多分な」


 香田は横たわりながらも、無事をアピールするためにピースサインをしていた。


 香田は痛そうに表情は歪んでいるが、二人に大きな怪我はなさそうだった。


「良かった……」


 素直は安堵で表情をゆるませた。


「はあ……香田さん……はあはあ、やりましたね」


 いつの間にか澄香が到着していた。


 見た目通りにインドア派の澄香は、体力に優れているというわけではなさそうだった。


「なんとか、猫之音には怪我をさせずに済みましたよ……」


 香田はホッと息をついた。


 澄香は呼吸を整えつつ、満面の笑みを見せた。


「はあ……ふふふ。そうではなくて、猫之音さんに触れていますよね」


 澄香に言われて、香田は「あっ」と声を上げた。


「ほんとだ……猫之音に触っても大丈夫だ……俺、なんというか必死で、猫之音にひどい目にあって欲しくなくて」


 香田は驚きのあまり、呆けている様子だった。


「今の香田さんは、きっと恐怖を感じていないはずです。猫之音さんに認められたこともそうですし、何より猫之音さんは恐怖の対象なんかじゃない。ただ眠ることが好きなだけの女の子だと、知ることができたのではないのでしょうか?」


 猫之音は眠っている。


 香田の胸の中で、ふくふくと眠っている。


 世界の全てを信じ切っているような、幸せそうな寝顔。


「や、やったああああああ」


 香田は声を上げて歓喜した。


 唐突で強引な展開ではあったが、香田は無事に猫之音の呪いを克服したのだった。


 ちなみに、甲賀はまだのびていた。






 ここで終われば、まあまあ良い話で終わっていたのかもしれない。


 しかし、翌日に猫之音は学校を休んだ。


 その次の日も、そのまた次の日も、猫之音は学校にこなかった。

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