第3話 恐怖から逃げないこと

 相手に恋愛をさせるのは無理があるということで、香田の目標は『猫之音がいても気にしないようになる』となった。


 案の定「そんなのは無理だ!」と駄々をこねていたが、香田自身が望んでいたことだったので、最終的には納得した。


 とはいえ、目標が定まったのは良いのだが、そのためにどうすればいいのかについては、さっぱりわからなかった。


「澄香先輩。わたし今回の依頼に関してはこなせる自信がないよ……」


 素直は弱気な声で言った。


 香田に関しては、あの素直が怯えるくらいに恐怖を抱いていた。


 猫之音に関しても、貞彦を攻撃したことで、素直は相当嫌悪感を抱いているようだった。


 よくは思っていない相手に対し、支援をしていくというのは、素直の心情を考えると辛いことなのだろう。


「私は誰に対しても諦めるつもりはありません。ですが、前にもお伝えしたように、皆さんが幸せになれるように努めたいと思います。どうしても嫌だということであれば、強制はいたしませんよ」


 澄香はそう言って、素直の頭を撫でた。


 てっきり猫のようにゴロゴロとじゃれつくかと思っていたが、素直は物を噛み切れないような表情をしていた。


「素直はいつもがんばってくれているし、別に今回の件を諦めたって、軽蔑したりなんかしないぞ」


 貞彦は、心底素直のことを思って声をかけたつもりだった。


 素直の表情が晴れ、迷いが消えることを願っていた。


 けれども、素直はますます複雑な表情になった。


「澄香先輩も貞彦先輩も優しい。言っていることもよくわかるんだ。だけどなんだか納得がしきれていないよ」


「素直さんは、一体何に対して納得がしきれていないのですか?」


 澄香は笑顔で尋ねた。


 心なしか、嬉しそうに見える。


 素直は顔を上げた。


 まるで、野獣が咆哮するかの様だった。


「わたしは、わたし自身に納得がいかないよ。嫌なことがあったらすぐ逃げるなんて矢砂素直のやり方じゃないって思う!」


 良いことでも、嫌なことでも、真正面からぶつかっていく。


 嫌なことを嫌だって言うために、いつだって素直は立ち上がる。


「正直あの二人はあまり好きにはなれないけど目を逸らしたくはないよ」


 言い放つ素直を見つめ、澄香は慈しむように目を細めた。


「素直さんらしくて、とても良いと思います」


 澄香は一区切りをつけるように、一度目を閉じた。


「素直さんと貞彦さんは『熊の場所』という小説をご存じですか?」


 貞彦は、その小説については知らなかった。


 それは素直も同じらしく、首を横に振っていた。


「舞城王太郎という作家の短編小説です。文章をあまり区切らない大胆で疾走感の溢れるスタイルで、癖がとても強いのが特徴です。ですが、伝えたい内容はとてもシンプルなものなんですよ」


 澄香は、熊が人を襲うかのように、両手を広げた。


「がおー。どうですか? 怖いですか?」


 満面の笑みでやられても、全く怖くなかった。


「澄香先輩……正直な話、全然怖くない」


「わたしもそう思う」


「そうですか。それは残念です」


 澄香はそう言ったものの、全然残念そうじゃなかった。


「主人公の父親は、ユタの原林をオーストラリア人と歩いている時に、熊と遭遇しました。襲ってきた熊から全力で逃げていたのですが、オーストラリア人の方が足が速かったのです。自分が捕まる代わりに、彼が助かるのもいいかと考えていました」


 貞彦は実際に熊に襲われる様を想像した。


 きっと恐怖でパニックになるだろうし、足がもつれてうまく逃げることはできないかもしれない。


 それに、もし澄香や素直と一緒にいる時に襲われたら、自分はどうするのだろうか。


 自分が犠牲になって二人が助かればいいと、思えるのだろうか。


「あわや捕まるかと思ってしまった寸前、前を走っていたオーストラリア人が転んでしまい、熊に捕まってしまったことで、父親は逃げおおせることができました」


 運が良いのか悪いのか、他の誰かが犠牲になることで、一人の男は助かることになった。


 相手に対して思いやりを抱いた瞬間に自分が助かった。


 いつ何時でも相手のことを思って行動する人が報われる。


 そういった話なのだろうかと、貞彦は推測した。


「話はそこでは終わらないのです。オーストラリア人の車に乗り込み、怖くて林から逃げ出した時に、拭い去れない恐怖がまとわりついていたのです」


 命を失うかもしれない経験をしたのだから、それも無理のない話だと、貞彦は思った。


「それから彼は、車に置いてあった銃を手に取り、熊と対峙することに決めたのです」


「おおー」


 思わぬ展開に、素直は歓声を上げた。


 けれど、貞彦は疑問を抱いていた。


 恐れていた熊に、どうして彼は立ち向かうことにしたのだろうか。


「彼は車の中で考えていました。この体験をしたことで、きっともう森や林などには、怖くて一人で入れなくなるだろう。そう思った時、自分の人生の中に行けなくなる場所ができるなんて嫌だと、彼はそう考えたから熊に立ち向かうことしたのです」


 ありとあらゆる恐怖には、立ち向かうことも、逃げることもできる。


 どちらを選んだとしても非難される覚えはないし、生き方の自由として処理されることだろう。


 それでも、彼は立ち向かった。


 恐怖の象徴、熊の場所に。


「彼は猟銃で熊を打ち、遮二無二にスコップを振り回し、なんとか熊を撃退し、オーストラリア人を救うことができました」


「すごいな」


 貞彦は素直な気持ちで感想を漏らした。


 けれど、澄香は不敵に笑っていた。


「けれど、彼にとってはオーストラリア人の命を救ったことなんて、ただの結果だったのです。自らの恐怖を拭い去る。ただそれだけが目的だったのです」


 澄香はウィンクした。


「その話を聞いた主人公は、一つの真理を悟ります。『恐怖から逃れるためには、できるだけ早く、熊の場所に帰らなければならない』」


 恐怖だけでなく、あらゆることにも当てはまるような気がしていた。


 怠惰で、優しさで、不満で、理由はどうあれ、抱いた感情や状態を放置してしまいがちになってしまうものだ。


 何かを解消するためには早い方がいい。そう感じた。


「貞彦さんと素直さんは『熊の場所』に行きたいと思いますか?」


 猫之音には膝蹴りを喰らわされたし、香田にはよくわからないけれど恐怖を感じさせられた。


 別に復讐をしたり、なんらかの言葉をぶつけたりしたいわけではなかった。


 けれど、もしこのまま何事もなかったかのように過ごしていたとしても、ふとした時に彼らのことが頭をよぎるかもしれない。


 あの時蹴られたとか、あいつやべえな、とか。


 それでもし避けてしまうようになることで、あの公園には行けなくなるかもしれないし、どこかですれ違っても、知らない人のように無視をしてしまうようになるかもしれない。


 そうなった時のことを、貞彦は想像した。


 そんなことは、まっぴらごめんだった。


「俺は香田の奴をなんとかしたいと思う。それに、猫之音に対してわだかまりを感じ続けて避けちまうことは、なんか嫌だな」


「わたしも嫌だ! 『熊の場所』だろうがなんだろうが立ち向かっていくのがわたしなんだから!」


 二人の宣言を聞いて、やっぱり澄香は楽しそうだった。


「ふふふ。私が見込んだ通りですね。これからについてですが、私は猫之音さんのこともよく知っていく必要があると考えています」


「香田が猫之音がいても気にしなくなるためには、まずは香田のことを知らなければいけないんじゃないか?」


 貞彦は疑問に思ったことを言った。


「貞彦さんの言う通りです。そのことも行いますが、個人的に猫之音さんに興味があるのです。それに、私たちの視点で彼女を理解することで、傾向と対策が見えてくるかもしれません」


 澄香は飄々ひょうひょうと言った。


 相手のことを良く知るためには、相手に興味を持つことが大事だと、以前澄香が言っていたことを思い出した。


 猫之音について知ることで、香田の抱えている恐怖を軽減できるかもしれない。


 全くの無駄ではなさそうだと、貞彦は思った。


「でも猫之音先輩を知るために何をするの?」


 素直が聞くと、澄香はいたずらっぽい笑みを浮かべた。


 貞彦は何度目かわからない、嫌な予感を感じた。


 澄香がこういった笑い方をする時は、大抵一波乱が起きる。


 今までの体験から、大変なことになるかもしれないと貞彦は感じていた。


「とある場所に行こうと思います。まあ彼女は、熊よりもとても癖は強いかもしれませんが」

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