第167話 飛翔


 一行がすっかり見えなくなるまで、ルビーはずっと、森の奥を眺めていた。


「……ハーミス……クレア、エル……」


 彼女の赤い巨躯は、悲しみを前に、すっかり丸くなっているようだった。それは、後ろに立ち並ぶワイバーン達の目から見ても明らかで、別れをどうやっても割り切れず、惜しんでいるようにしか見えなかった。

 だが、いつまでもこのままではいられないと思ったのか、ぐっと唇をかみしめて、ルビーは振り返った。その顔には、貼り付けたような笑顔が浮かんでいた。


「……だ、ダメだよね、こんな顔してちゃ! 皆、これからはルビーが長になって、頑張って導いていくからね、よろしくね!」


 ルビーの言葉を聞き、ワイバーン達の間にも喜びの唸り声が響き渡る。これから自分達を導いてくれる、赤い竜がここにいるのだ。嬉しくないはずがない。

 彼女もまた、自分を頼ってくれているのだと知って、悪い気はしなかった。どうやって彼らの進む道を作っていくかは不明瞭だが、教えてもらった事柄を活かしてゆけば良い。


「でも、まだルビーも、ワイバーンの皆も外の世界にそんなに詳しくないから、一緒に色んなことを知っていけたらいいな! まずはルビーが、ハーミス達から教えてもらったことを……」


 そう、ハーミス達に。

 クレアや、エルに教えてもらった。世界のことを、人間のことを。暗い洞窟の外の世界がどうなっているか、どんな魔物達が、どんな生活をしているのか。喜びの種類と、悲しみの分かち合い。何よりも信じられる、大事なもの。

 全部、全部、仲間達に教えてもらった。だから今、今度は自分がワイバーン達に教えなければならないと思っているのに、彼女の思考は止まってしまった。


「……あ、あれ?」


 笑っているのに。皆の前で、笑顔でいようと決めたのに。

 大粒の涙が溢れて、流れ出して、赤い鱗を伝って止まらなかった。


「なんでかな、ごめんね。急に、おかしいな、涙が止まんなくって……」


 いけないと、涙など流していては長として務まらないと思えば思うほど、心の内側からハーミス達の笑顔が浮かんできて、ルビーの微笑みが消えてゆく。哀愁が、寂しさが、彼女の全てを埋め尽くしていく。

 こんなのはおかしい。別れを告げて、覚悟だって決めていたのに、こんな姿を見せてはいけないのだ。なのにまだ、涙が溢れ続ける理由が、ルビーには分からない。


「ルビー、頑張るって決めたのに……さよならって、ちゃんと言ったのに……っ!」


 はらはらと泣き続けるドラゴンを前にして、ワイバーンにもまた、変化が起きた。

 彼らはずっと、ドラゴンをただ従うべき存在だと思っていた。トパーズのように思慮深くなくても、冷静でなくても、彼女は伝承にあるドラゴンなのだから、命令を受けていればそれでいいのだと。

 だが、現実はどうだ。自分達は、間違いなくルビーの涙の原因となっている。彼女が気づかなくても、彼女がきっと本当に求めているものの、枷になってしまう。

 ワイバーンの間に、騒めきが広がってゆく。

 悪い騒めきではない。本当に自分達はこれでいいのか、従うべき主の悲しみを見て尚、何も考えず追従するだけでいいのかと。

 それでもルビーがどうにか涙を止め、しっかりと尾さとしての役目をもう一度果たそうとして笑いかけようとした時、彼らの心は決まった。


『――ごめんなさい、赤い竜さん。僕達、やっと分かったよ』


「えっ?」


 ルビーが目を丸くするそのすぐ先で、ワイバーン達は突然、翼をはためかせた。

 そしてなんと、ゆっくりと宙に浮き始めたのだ。勿論、そんな指示はしていないルビーは困惑し、手をばたつかせながら、ワイバーン達に言った。


「ど、どこに行くの、皆!? ルビー、まだ何にも……」


 驚くドラゴン達を見下ろすように空を舞うワイバーンは、彼らと竜にしか通じない声で話す。ようやく気付いた、本当に大事なことを。


『僕達は命に従う飛竜、その本質は変わらない。だから貴女に居てほしかった。僕達を導き、正しい方向に進ませてくれる道標が欲しかった』


 ワイバーンの本質である以上、誰にもそれを責められなかった。従順であることこそが生きがいでもあったし、そのおかげで今まで行き垂れてきたと言っても過言ではないし、トパーズにしても、習性からは逃れられなかった。

 だが、ルビーはどうか。自分達の身勝手で仲間から引き剥がし、あまつさえ無理すらさせてしまったのだ。そこまでして彼女を引き留めたなら、この行いは敬意とは呼べない。


『けど、貴女を悲しませているのに、僕達は今の今まで気づけなかった。長がもしここにいたら、ドラゴンへの不敬だと怒鳴られるよ』


 話しながら、ワイバーン達はどんどん、どんどん高く飛んで行く。

 彼らのみ据える世界は、一つの道ではない。湖の上で様々な方向を見ている彼らは、もう、ルビーよりもずっと強い決意を固めているようでもあった。


『だから――僕達に命令して欲しい。四方へ飛び、この大陸中で戦っている、虐げられている魔物や亜人達を救う戦いに赴けと。聖伐隊と戦い、彼らの言う『門』の犠牲になる同胞達を少しでも減らせと。今こそ羽ばたき、戦えと!』


 一匹の雄叫びに、十数匹の仲間の声が続いた。


『『戦えと!』』


 モルモリ湖の上空に、飛竜の合唱が鳴り響いた。

 果たして彼らは、枷にならない道を選んだ。自分達がルビーの下を離れて、ハーミス達のように戦って、トパーズを亡くしたときのような悲しみや過ちを広めないようにする。これこそが、ワイバーン達の選んだ、最後の命令だ。

 彼らなりの配慮と優しさだったが、ルビーはまだ、迷っているようだった。


「……ルビーは、トパーズの代わりに、長にならなきゃ……」


 誰かの代わりというのであれば、ワイバーンには不要であった。


『もう、長の役目は果たした。ワイバーンは長の命に従い、この湖を離れていくよ。色んな空を飛んで、色んな魔物達に会ってくる。貴女はもう、ここに留まる必要はないんだ』


「じゃあ、ルビーはどうすればいいの? どこに行けば、何をすればいいの?」


『長としての使命は終えた。貴女が何をすべきかじゃない――何をしたいかに、従って欲しいんだ。もう、気づいているはずだろう?』


「ルビーの、したい、こと……」


 ただ一つ、ただ唯一。

 ルビーのやりたいことをやる。それが、長の使命。

 一匹、二匹と、ワイバーンが飛んで行く。四方八方に散り、務めを果たしに行く。そして最後に残ったワイバーンが、空を仰ぎ、陽を体に受け、吼えた。


『従わなければ生きていけない僕達とは違う、貴女は偉大なるドラゴン、伝承の赤い竜だ。自分を信じて進むんだ――僕達は、枷はもう、飛んでいくのだから!』


 湖面を揺らし、緑色の翼を翻し、ワイバーンは飛び立った。

 影が森の木々を超え、遠く、遠く、音と共に消えてゆく。

 残されたルビーの為すべきことは、もう決まっていた。青い空に近づくように、彼女もまた、深紅の体を浮かせる。飛竜よりずっと大きな翼をはためかせる。


「……ありがとう、皆……」


 迷いはない。

 配下のいない長、ルビーは、あるべき場所に戻るべく、飛翔した。

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