05 神様幸福論 3
「死こそ、最大の幸福……?」
聞き間違いではないか。そう信じたく、復唱する。
だが目の前の、そう口にした少女は大きく頷く。当たり前だ。と言わんばかりに。
悠真は否定を求めるようにアズエルを見た。
だが、彼は否定しない。
『‴お忘れでしたか?ラティエルの幸福論。彼女の言った通りですよ‴』
それどころか彼は小さく息をついて肯定した。
何故?疑問が頭をよぎる。
ラティエルはいつも慈愛深く他人に接していた。彼女は言っていた。生きとし生けるものすべてを我が子のように愛していると。
そんな彼女が何故、死を幸せだとか殺すだとか言える?あの言葉は嘘だったのか?
「我が子。……そう、愛すべき我が子だからこそ死という幸福に導くんです」
幾度目か、悠真の心を読み取るようにラティエルが言った。悠真は目の前の少女を再び目に映す。少女は悲しげに俯いている。
「飢餓、干ばつ、疫病、様々な厄災。この世界は苦しいでしょう?生きていて辛いでしょう?そのくせ神は何もしない」
彼女は慈愛深く微笑む。今この状況で、なぜそんな表情が浮かべることが出来るのか分からない。
「ボクはこの世界も無能な《神》も大嫌いですが、ここに住む方々は心から愛しています。どんな罪人であろうと――」
「ま、て、ラティエル、君は……」
「だから、死という最大の平等な幸福に導いて差し上げるんです。ボクは天使ですから、それがボクの役目でしょう?」
彼女は当たり前に、堂々と胸を張っていた。
「待て!違うだろう!君の言っていることは間違ってる!」
気づけば、悠真はラティエルの小さな肩をつかんでいた。
や はり、何を聞こうが彼女の言うこと全てが理解できない。その思想も何もかも全て。
「君は、《天使》じゃない」
だからその言葉は、きっとつい出てしまったのだ。
「――君はこの世界の神様だろう!」
気が狂っているとしか思えない事ばかり口にし、自分の存在を忘れ。
そればかりか自分の事を天使だと言い張る、この世界の神様を正すべく。
後ろで『‴あーあ‴』と呆れるアズエルの声がする。
目の前のラティエルの顔がきょとんとした表情になり、見る見るうちに不機嫌に染まっていった。
彼女は《神》の事を無能呼ばわりした。相当嫌っているのは確かだ。
――彼女自身がその神様だと言うのに。
そんな彼女を、悠真は《神》だと呼んだ。自身の事を忘れている彼女にとって、それは耐えがたい苦痛になるだろう。
しかし、もう訂正はできない。もう隠すことは出来ない。
「ボクは神ではありませんよ」
「ちがう。君はこの世界の神様だ。君が忘れているだけだ」
「違います!ボクは神なんかじゃない!!」
ラティエルの声が悠真を否定するように大きく響く。
そんな彼女に言い聞かせるように悠真は手に力を籠める。
「ルティフェール。それがこの世界と、この世界の神様の名前だろう!」
「名前が何です!ボクには関係ない!」
悠真の腕の中でラティエルが暴れ始めた。駄々をこねる子供のように、何度も頭を振る。
違う。違う。違う。違う!何度も叫び続ける。
「ルティフェールは君の本名だ!」
「――っ!」
「君がこの世界の神様なんだ!その神様が、死は幸福だなんて……」
「違う!!ボクはこの世界を創っただけだ!神じゃない!」
ラティエルが今までより一層大きく悠真を拒絶した。
その小さな手は悠真の手を跳ね除け、距離をとるように後退る。小さな肩が怒りで震えているのが見て取れた。
――いや、それよりも今、彼女はなんと言った?
「――この世界は元々あいつの物だ。ボクはそこに空と大地と海、息子を一人創っただけ。後は勝手に増えてきた……。だから神じゃない……」
ぶつぶつと、まるで自分に言い聞かせるように俯いたままラティエルがつぶやく。悠真に必死に抵抗していたからなのか、いつもは綺麗に整えられている髪が乱れている。
「天使とは神が造った天の使いでしょう?ならボクも天使ですよ……」
彼女が問いただすように、ゆらりと顔を上げこちらを見る。
きっと、彼女の右目は悠真を映していない。
だが、ラティエルと反対に悠真は息を呑むことになる。彼は初めて見ることになったのだから。
髪から除く何時もは隠れている彼女の左顔を。
白く濁り、ボロリと今にも転がり落ちてくるのではないかと思う程飛び出した瞳。
異常なまでに溶け爛れ、どす黒く変色した皮膚。
人形のように整った右顔に対して、それはあまりに歪で醜く、
あまりに痛々しくて、酷く悲しくて、苦しそうな、憎悪にまみれた左顔を――。
ラティエルはその顔を隠すように俯く。
小さな肩が自信を落ち着かせるように、何度も大きく息をしている。
何やらぶつぶつ呟いているが、悠真には聞き取れない。
ただ、その口元に確かな微笑み。
暫くして、彼女は顔を上げた。
「ボクはただの創造主ですよ。神なんかじゃありません。」
その顔は、いつも通り、優しく慈愛に満ちていた。
――嗚呼、一つ理解する。
彼女は……異常なのだ。
異常なまでに狂っていて、異常なほどに矛盾している。
「そういえばお父様。さっき言っていましたね」
突然、ラティエルがクスリと笑う。
「さきほど、ボクは何もしてないと」
あまりに突然の事で、悠真は何のことだか分からない。
そんなことを言っただろうか。
思い返す。ああ、確かに言った。
あれは、この国について彼女に追求した時だ。
――この国を滅ぼさなくてもよかったのではないか。
――指輪を取り返すだけでよかったのではないか。
――なのに、どうして君は『何もしなかった』
そんな言葉だった気がする。悠真からすれば、彼女を批判するため口に出した言葉だ。それがどうしたのだろうか。今、何故そんな事が出てくるのだろうか。
しかし、彼女はまるで悠真が目に見えていないといわんばかりにクスクス笑う。
「ボクもずっと思っていたんですよ。ボクはいつも誰も導けていないなって」
思考が停止する。まて、彼女は一体何を言っている?
「昨日はお兄様、今日はお父様。二人とも皆さんを幸せに導いて、でもボクだけ何もしていなくて……。ボクこのままじゃ何もできない子ですよね?」
ラティエルは困った表情を浮かべる。
彼女の「幸せに導く」その意味はたった一つ。
「なら、ボクも導かなきゃ」
ラティエルは楽しげに笑うと、その翼を大きく広げた。
「ラティエル!待った…!」
慌てて伸ばした手は宙を切る。あっという間の事だった。
どれだけ身長があろうと、空に舞い上がられてしまえば、どうすることもできない。
「お父様、お兄様。ボク用事が出来たので失礼いたします」
もう悠真が届かない空の上で、ラティエルが優雅にお辞儀をするのが見えた。
いつの間にか取り出した真っ白い杖を両手に、彼女は背を向け、こちらを顧みることなく、小さな翼をはためかせ飛び去って行く。
何処へ行くつもりなのか。それより、何をするつもりなのか。
嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。
『‴隣、ですよ‴』
後ろでアズエルがどこか小馬鹿にしたように発した。
隣?隣とは隣国の事か?この国の隣国、思い当たるのは緑溢れる国。
この国に来る途中で見えた国だ。
悠真は必死にあの時、何があったか思い出す。
草原の広がる国。
干ばつに苦しめられている国。
倒れた母馬と傍で座り込む仔馬。
生気のない一人の男
あの時、男を見た時、ラティエルはどんな顔をしていた?
あの時、彼女は酷く悲しそうで酷く名残惜しそうな顔をしていた。
嗚呼、
そうだ、
「名残惜しそう」な表情を浮かべていたのだ。
あの時、彼女は何を思ったのだろうか。
彼らを救いたいと思ったのだろうか。
――死こそ最大の幸福。
彼女の救いは、一つしかないと言うのに。
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