閑話 洞の底

 ――何が起こっている。

 この状況に於いて最も当惑したのは、悪魔であった。

 地面が陥没し、地中深くにまで及ぶ深い穴が空いた。見上げた先に空の蒼など見えない程の深さだ。

 とはいえ、たかがその程度の暗闇で悪魔の目が何も映さなくなるわけがない。

 だが事実として、彼は何も見えていなかった。

 深い闇が手狭な空間を支配している。

 それは、つまり。

 悪鬼のような顔が闇の中に浮かび上がった。

 その双眸に鈍く蒼い焔が灯っていた。

「――何も成さずに、終わる……二度と出来ねえな、そんな事は」

 重く、冷たい声色は独白に似ていた。

 その瞳には理性があり、声色は落ち着いていて、言葉には理知があった。

 リヒトは深淵に飲み込まれ、再び焼死体の姿のように自我を失い崩壊する。ほとんどそうなって当然だと、悪魔は思っていた。

 故に度肝を抜かれた。

「きっと二度と元には戻れねえ。この闇は、今まさに俺の魂までを喰らおうとしている」

 悪魔の予想は間違っていなかった。

 リヒト自身の自覚が、それを証明していたのだ。

 唯一の誤算があるとすれば――それまでの間隙が、悪魔が想定していたものより遥かに長い事であった。


 リヒトの頭の中は驚くほどに冴え冴えとしていた。

 ごちゃごちゃとしていた思考や、圧倒的な力量差による絶望感、全身に走る激痛や肉体の損失、それら全てが消え去っていた。

 あらゆる問題事が片付いた後の寝覚め。感覚的にはそれが最も近いと彼は思った。

 そしてそれを感じたすぐ先から、頭の中にもやがかかり始める。

 まだ寝ぼけているかのような、夢現の狭間にたゆたうような感覚。

 心の中にぽっかりと洞が開き始める。

 空虚にも似た孤独感。

 虚無のような無力感。

 何もかもが消えてなくなるのがわかる。

 これが深淵か。――あの焼死体のように闘争本能に支配され本能のままに動くとばかり思っていたが――どうやらこれは、そんな生ぬるいものではなさそうだ。

 だが、それでいい。

 目の前の悪魔が己を畏怖しているのが良くわかる。

 それに決して優越を感じないわけではないが、代償は己とて払っている。

「――今まさに俺の魂まで喰らおうとしている」

 気が付いた時には己は何かを口走っていた。

 悪魔はそれに対して何も答えない。

 ひどく警戒した様子で身構えているのだけが、よくわかった。

 それはすなわち、この己が悪魔を殺せるまでの力を得ている事の証左だった。

 これで、何もかもが終わる。

 七度に渡る短い人生の連続。

 今回に至っては一年足らずだ。

 だが次はない。

 この悪魔との付き合いは、思えば随分と長い。こうして転生する度に顔を合わせる程度の関係だったが、

「なあ」

 故にだからか、リヒトは無意識に口を開いていた。

「幾度ものくだらない人生を繰り返してきた。何も生み出さない、人に迷惑しかかけない人生だ。別にそれで終わっても良かった」

 だが、

「あんたはお遊びのつもりだったかもしれねえ。だがこの世界に誘われて、明確に俺の価値観は一転した。最も、最後の最後……こんな所に来てから、だったがな」

「貴様は逸材だった。我が、手を加えるまでもないほど」

 悪魔はそう手放しに賞賛してみせた。その言葉に裏がないのは、推し量るまでもなかった。

「今まで知らなかった充足感だ。自己犠牲のつもりはねえが、何かを守るために身を張る。気分の悪いもんじゃねえ」

「貴様に力を与えた。だが恐らく貴様は、それがなくとも、結局はここに至っていただろう。その誉れ高き魂は、低俗のまま煤けていたとしても――決してその強かさを失う事はない」

「感謝ってのは違うが、似た感情がある。あんたが居なけりゃあいつらには出会えなかったし、決して満たされず、消え去っていた」

「貴様が居たということで、我の中に好奇心が芽生えた。その結果はここに居たってしまったが」

「だがよ、てめえは」

「だが、貴様は」

 

「ここで終わるんだ」


 言葉は意図せず重なった。

 お喋りは終わりだとでもいうように――洞の中の闇が一層、濃くなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

地獄から来た男 ひさまた @his

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ