悪魔に抗う男たち
世界がにわかに、薄暗く姿を変えた。
そう誤認するほど、悪魔から放たれた瘴気の濃度は高い。
薄紫色に染まる周囲は少なくとも視認出来る範囲全てが包み込まれており、その色がすべて悪魔の魔力だというのならば――。
「カインッ!」
叫ぶより先だったのか、同時だったのかわからない。
だがリヒトが求めたその少年は既に己の脇に移動しており、知覚すると同時に彼の腕を掴み上げ、空を仰いでいた。
その次の瞬間に訪れたのは、胃の腑が浮かび上がる無重力感だった。同時に視界が薄紫から、薄い霧がかったような蒼へと変わる。
己が空中へ瞬間的に移動したと理解したのは、その感覚を覚えるのと同時だった。
腕を強く掴む少年は必死の形相で荒い呼吸を繰り返している。まるで川でおぼれかけたかのように汗で全身が濡れていて、酷く疲弊しているような姿だった。
そして――。
世界が爆ぜた。
そう認識したのは、あながち間違いではなかった。
彼らが見ている世界の殆どが、その瞬間猛烈な紅い火焔に覆われたのだ。
悪魔を中心として突如として膨れ上がった火の粉のような赤が、やがて白く染まったようだと理解した次の瞬間にはそれが爆発的に膨れ上がり、間もなく魔力が覆いつくしていた範囲全てが爆炎に飲まれていた。
際限のない爆発。余すことなく視界内の空間全てにそれが発生していた。
それと同時に、この世の全てを破壊せんとする破滅的な風が逃れる場さえも奪い去るように吹き上がる。
遥か上空、雲の中に隠れたリヒトらとてそれから逃れる術はない。
急速に接近する目に見えない壁。それが音を超える速度で接近し、吹き抜ける風と共に彼らの肉体のことごとくを打ちのめし、粉砕し、吹き飛ばしていく。
腕が折れ、足が砕かれ、頬が半分ほどどこかへ消えていった。
溢れ出る鮮血さえも全身を嬲る圧迫感に怯え体外へ流れ出ることをしなかった。
もはや何が起こり、今どこに居て、身体のどこが痛いのか、失われているのか、また自身がそもそも本当に生きているのか、という事さえもわからない。
やがて意識が曖昧に、抗う体がぬかるみに沈むような無慈悲さで薄れていく。
何度か意識を失った。
何度も意識を取り戻した。
それを幾十も繰り返し、どれほどの時間が経過したのかさえ定かではなかったが――やがて目の前に見えた、燃ゆる大地と、空気を舐めるように蠢く火焔の先が己の肉体に触れようとしている所で、リヒトはようやく現状を、
「……ッ」
少なくともこのままであれば地面に激突し、ミンチになる未来が確定している事だけは、理解した。
もはや時間は秒さえ残っていない。
気づけば猛烈な衝撃波は消えている。今ならまだ身動きができる。
最も、それが出来る暇など毛ほども残っていないのだが。
やはり寝物語など馬鹿げた事を考えたのは、きっと己がこれから目の当たりにする死への現実逃避だったのかもしれない。
途方もない幻想を夢見て、逃れようのない現実から目を反らしたかったのだろう。
やりたいこと、やり残したこと。そんなものはない――それが生まれないように何も掴まず、手放したからだ。
俺は何にも執着していない。別に死んでも構わないし、誰が己の身代わりになろうが興味がない。
そう思いたくて――人生を諦める、など己の弱さを隠す為に――自らの意志だと言い張っていたのかもしれない。
生きるための理由。
ここに来て、それが芽生えたような気がした。
生きるための活力がにわかに、全身にみなぎり始めたような気がした。
否、それは気のせいなどではない。
事実としてもう誰も居ない心の奥底で、誰かが叫んでいた。
――まだ死ぬわけにはいかない。
誰かわからない。自分自身かもしれないし、これまで生きてきた自分たちかもしれない。
だが、
「ああ、そうだ」
まだ死ぬわけにはいかない。
少なくともあの得意げな悪魔の鼻っ柱をへし折るまでは、死ぬのは御免だ。
ならばすべきことはあるはずだ。
時間がない。体が動かない。
それは何も良い結果に至らず失敗した時の言い訳だ。
出来なくても、今やれる事をしなけば……。
頭が思考する間に、身体は本能的にそれをしていた。
身体から溢れる魔力がまるで自然とそうすべきだったと言わんばかりに、概念的なその力が現象へと形を変える。
地上からの爆風が上空へと巻き起こる。
旋風は鋭く、矛先をリヒトへと向けていた。
巻き込まれる炎は渦を巻いて風に乗る。
リヒトはそれに瞬く間に飲み込まれるが――風は故に、落下速度を著しく減速させていた。
やがて間もなく風が止み、リヒトは地面へと到達する。
その衝撃は、階段から転げ落ちた程度の衝撃で強かに肩を打って激痛を覚えさせたが、命まで奪う事はしなかった。
大地はさながら滾る湯のような灼熱を湛えていて、触れた皮膚は余すことなく焼け焦げたが――生きている。
その事実だけは、覆しようがなかった。
たとえ横たわり、這いずろうとしている己をただの羽虫だと言わんばかりに、数歩先で立つ悪魔が己を見ていたとしても。
「よく生きていられたな。感心に値する」
「何度も……ッ、地獄から、帰ってきてんだ――この程度じゃ、地獄の釜風呂より温い」
くだらぬ痴れ事。吐き捨てる下卑はだが口から零れる事無く、悪魔の心中に留まった。
もはやこれまで。
短く息を吸い込む。ただの一息で人間ならば肺を焼き焦がすほどの灼熱の空気が、心地よく肺腑を満たす。
構えた両剣の切っ先が容易くリヒトの額に突き付けられ、柔らかくその皮膚へと突き刺さった。
だが見上げ、睨むその瞳が揺らぐことはない。
死なぬと思っているわけではないようだ。諦めている様子もない。悔しくないわけでもない。
だが抗えない。
故に、どうすればこの状況から逸することが出来るのか――そう考えているようだ。
その考えも、刹那後にこの手をわずかに押し込むだけで消え去るのだ。
考えている内に、右手側から凄まじい勢いで肉薄する気配を覚える。
直後、狡猾に悪魔の首筋へと光に似た速度で振り下ろされる一閃。
同時に突き出した右手が素早くその刀身を掴み、手の内で砕いていた。
その先には、まだその出来事を認識できていないカインが悪鬼が如き形相で飛びかかるように空中に留まっていた。
ゆっくりとその表情が驚きに変貌している間、身体は時間の経過と共になすすべもなく悪魔へと近づいていく。
やがて彼が再び視界内のどこかへ転移するよりも先に、その目に映る全ては悪魔の手の平のみになり――まるで吸い込まれるように、当然だとでもいうようにその顔面を、悪魔に握られ、その場に繋ぎ止められていた。
その状況で最も大きな変化を見せたのは、恐怖に飲み込まれかけているカイン――ではなく、それを見る事しかできなかったリヒトだった。
カインを死なせるわけにはいかない。
まだ活動を続けている心臓が激しく鼓動を繰り返す。
まだ繋がっている血管が強く脈打つ。
異常な程に感情が昂り、無自覚に全身から大量の魔力があふれ出してくる。
そしてその魔力がゆっくりと、『揺らぎ』を見せ始めていた。
その『揺らぎ』を悪魔が認識し、その真意を理解し、即座に握る両剣で鋭くリヒトの額を貫こうとした、その瞬間――。
剣先が額の骨を貫通させられずに動きを止めた。
掴まれているのではない。
阻まれているのではない。
純粋にその頭蓋の堅さによって、防がれていたのだ。
肉を裂き垣間見えた骨は白――ではない、漆黒。
己を睨む瞳の中の白が消え、その眼球が黒く染まっているのがわかる。
また気が付いた時には、リヒトから放たれていた魔力が、先ほど己が蔓延させた薄紫色のソレのように、深く、暗く、黒く色づき始めているのが見えた。
それは紛いもなき『深淵』の力。
到底人間が御しきれる代物ではない力。
触れれば容易く飲み込まれ崩壊させる力。
彼の中に息づいていたのはほんの僅かであったから、それを魔力で増幅し疑似的な深淵としていたから扱えていたもの。
だが今やそれは、完全に魔力を食らい贋作から真作へと成長を始めていた。
「チィッ」
厄介な。
悪魔は握っていたカインの頭をそのまま投石が如くリヒトに投げつけると、そのまま両手で両剣を握る。
大上段の構えから、肺の空気を激しく吐きながら放つ鋭い一閃。
剣先は間もなくリヒトの頭部へ叩き込まれると共に、その衝撃が容易く大地に深く鋭い亀裂を走らせ始めていた。
リヒトを中心に放射状に走る亀裂は間もなく姿を消す。
それは崩壊を意味していた。
大地は隕石が叩きつけられたかのように陥没し、その場に居るその全ての物を飲み込み、地上から消し去っていた。
❖❖❖
遥か遠くでこの異常事態――唐突な爆発が発生し、地平線まで続く焼けた大地とを見て呆然としていた女が、きわめて偶然的に出合わせた男女二人の顔を見て、肩をすくめた。
シルバーブロンドがにわかに逆立ち、全身からバチバチと稲妻を迸らせているクラリスは、眉間に皺を寄せて不安げな顔のロラと、訝し気な顔のアグルとを見ながら、続く沈黙を破る。
「なぜ貴様らがここに居る?」
問いに、まずロラが答えた。
「胸騒ぎがしたから。あなたは誰?」
「強烈なガイマの気配がした。それだけだ」
腕を組んで鼻を鳴らすアグルは、それだけ答えると構わずに先に進み始める。
クラリスはカインから聞いて二人の存在は知っていた。
そしてこの巡りあわせが、偶然ではあるがごく必然的なもののような予感がしていた。
その中心に居るのはカイン。そんな、気がする。
ゆっくりとクラリスも歩みを進め始める。
空気が熱せられ、その場に居るだけでも全身から汗がどっと噴き出る。
爆心地へ近づくにつれ、一歩ごとにその空気が皮膚を焼くような熱を持ち始めていた。
その後ろをゆっくりと、ロラがついてくる。
「なにが……起こってるのよ」
「それを確かめる。死にたくなければ帰るんだな」
冷たく吐くクラリスに、ロラはだが戸惑う事無く首を振った。
「きっと私も、ここに居なくちゃいけない気がする」
たとえ向かう先が死地だとしても。
それはこの場に居る三人が半ば確信していたことだった。
どう前向きに考えたとしても、あの爆発とこの現状を見て、その先に存在する死を否定することは出来ない。
だが三人は歩き続ける。
やがて到達するそこに、想像を絶するものが広がっていたとしても。
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