二人の男 3

 目の前に出されたスープは湯気を立てていた。

 透き通るほどの透明感。ゴロゴロと大きめに切られた野菜に、湯でられた豚肉が沈んでいる。湯気に乗って鼻腔に届く香りは芳醇で、やや塩の香りが強い。それがまた、腹の虫を騒がせていた。

 湯気の晴れた先に、頬杖をついた女が居る。

 長い銀髪を後頭部の高い位置で一つにまとめたその毛先は、肩口を通ってテーブルの上で渦巻いていた。

 大きく開かれた琥珀の猫目。通った鼻筋に、高い鼻。薄い唇は桃色で健康的だ。

 その頭髪に染まるような白い肌。しなやかな輪郭は、その整った各パーツを上手に配置している。

 クラリス・ドナー=レイ。それが彼女の名だった。

 ここは彼女が利用している宿泊施設の一室で、扉ひとつ隔てた先にある寝室ではエミリーが穏やかに眠っている。

 窓の外に目をやると、既に暗い。だがランプで眩く照らされている室内からでは、その星空を眺める事は敵わなかった。

 カイン・アルバートはまたスープに視線を移して腹を鳴らしていると、クラリスは頬を少しだけ上げて微笑んだ。

「さあ、食事を摂りたければ話しなさい」

 そんな台詞とこの状況さえなければ、ささやかな幸せを味わう風にも見えただろう――両腕を椅子の背もたれに回され縛り付けられたままのカインは、疲れた顔で言葉を返した。

「全部話したはずだよ……」

 エミリーをタイタン・ヴェナドまで救出に行った時、既にそこには法執行官や警察が集まっていた。話を聞きつけたらしいエルやロラも居て、その時にはもうスミスは病院へと運ばれている途中だったという。

 事件はアエスタの犯行ということで片がついた。アエスタも殺害されていたのは仲間割れだと簡単に処理された。

 エルは納得していない様子だったが――カインはそれを気に留める余裕などなくエミリーを探していた。

 寝かしたはずの机には彼女の姿はなく、代わりに酒瓶が置かれていた。

 それはクラリスと作戦を立てた際の合流地点への暗号のようなものだった。酒瓶があれば酒場へ、薬莢が落ちていれば鉄砲店へ、果物が置いてあれば市場へ。そんなふうに、場所によって抽象的なイメージのある物品を一つ置くという決まりだった。

 だから彼女が最初この町に来た時に寄っていた酒場へ足を運び、詳しい話はここでと招かれたのが今居る部屋だ。

 もうそれから二日ばかり経っている。

 エミリーが起きている間は縄も解かれているが、自由の身とは言えず寝室に閉じ込められている。彼女曰く、療養中だそうだ。エミリーもなぜかそれを納得しているし、クラリスを信頼している。

 彼女の眼には、二人は特別な間柄に見えているようだ。

 勘弁してほしいものだ。

「だからその証拠を見せてほしい、と言っているんだ。どちらにせよ貴様がアエスタを殺した。その事実は間違いない」

「証拠、って言ってもなぁ……」

 話せる事はすべて話した。

 自分が一度死んだ事。

 リヒトが宿り、力を得た事。

 それから今までで起こった出来事。

 そして先日の事。

 だが彼女はそれを信じようともしない。『複製』の能力で超常的な力を目の当たりにしたのに、手品だと言ってきかなかった。

 どちらにせよ、アエスタについては調べればすぐにゲスな事は出てくるだろう。巻き込まれていた事、そしてスミスを攻撃した事、それを鑑みれば彼を殺害した事について咎められる理由はない。

 実際、自分さえ殺されかけていたのだ。

「貴様が言っていた焼死体はな、存在していなかった」

「いなかった……?」

 うんざりしたように彼女は言ったが、カインは不意な台詞に耳を疑った。

「ああ。今日の昼にエミリーと行ってきた。必要な荷物をとりがてらな。ついでに貴様の寝室を覗いたが、散らかっているくらいで焼死体だのという物騒な物は影もなかったぞ」

「そんな――生き返ったのか⁉」

 驚きで身が悶える。

 喜びで体が跳ねる。

 思わず立ち上がろうとして、椅子の重量によってバランスを崩したカインはそのまま倒れこみそうになった。

 浮かび上がった椅子が大きな音を立ててまた元の形に据えられる。その座面に、尻餅をつくようにカインは座った。

「貴様の話は訳が分からない」

 頭を抱えるクラリスだったが、その目はにわかに輝いていた。

 そもそもの話、彼女がカインを拘束している理由の大部分は好奇心だった。一部には作戦を実行せず単独でアエスタを殺害した事によって、妙な謀略があるのではないかという疑惑だが、彼女自身、彼にそれがないのはなんとなくわかっているようだった。

「あ、あいつならきっと僕を探しているはずだ。なら結局見つからなくて、だけど慌てる必要はないと家に帰ってきていると思う。探してきてくれないか――」


「――という訳なんだ」

 疑い半分、興味半分でクラリスは言われたとおりにカイン宅へ向かった。

 そして誰も居ない筈の家に灯りがついているのを確認して、侵入した。そこに居たのは見知らぬ青年で、カインの名を出すと抵抗もなく素直に彼女へ追従した。

 クラリスと共に帰ってきたのはわずか半刻足らずで。

 カインの説明に耳を傾けていたリヒトは、ようやく拝めたその顔を見ながら、だがまたわけのわからない事に巻き込まれている彼へと少しうんざりしたように肩を竦めていた。

「どういうわけだ、くそガキ」

 リヒトは苛立った感情を隠しもせずに暴力的に言葉を投げる。

 腰に手をやり、扉の近くの壁を背に腕を組んで彼と、クラリスとを眺めていた。

 身長はカインより頭一つほど高い。短く刈ってある髪はブラウンで、前髪は後ろへ撫でつけられている。

 まだ若そうな顔つきは二十代前半のようだが、その抜き身のナイフのような鋭い目つきと、眠っている時でさえ変わらなそうな眉間の皺は老獪さを感じさせる。

 顔つきは全体的に整っているが、美しいというよりはやはり精悍さのほうが強い。

 カインは事のあらましを説明しながらその容姿と、今までの生活で感じていた彼とのギャップに少し動揺していた。

 動揺している所でそんな、いつも聞いていたような口ぶりだったものだから、カインは不思議と妙な安堵感に包まれることが出来た。

「どういうって、説明したじゃないか。たった今」

「ああわかってる。だが納得出来ねえな、てめえはどんだけクラリスを信頼してんだ?」

 不意に名前を呼ばれて、クラリスは目を見開いた。

 彼女はリヒトへ名乗ってはいなかった。だがまるで以前から知っていたように自然に出てきたことに驚いて、リヒトへの警戒が、不思議と興味へと変わっていくのを感じていた。

「人を信じようとしてたのはキミじゃないか」

「ああわかってる。だがな、あの状況で動転するのは見透かされたわけだろ。付け込まれて、今こうなってんじゃねえのかよ」

 言いながら、リヒトは歩み寄ってくる。

 クラリスは少し楽しそうな顔で二人のやり取りを眺めていた。やがて彼がカインのスープをかっさらうのを見て、そっとスプーンを差し出した。

 リヒトは彼女を一瞥してからそれを受け取り、スープを掻きこむように食べる。

 カインは構わず続けていた。

「どっちにしろエミリーが居なかったんだ。成すすべがない」

「ああわかってる。だがな」

「わかってないだろ! つもりだ、キミは。いつもそうだ」

「まあ待て、落ち着け。俺は言い争うつもりでお前を探してたんじゃねえ」

「なんだよ、じゃあ」

 問われて、リヒトは言葉を止める。

 半分ほど皿に残っているスープを一気に平らげたあと、それをテーブルに置いた。

 ようやく人心地。こいつの家にはまともなメシがなかったな、なんて考えながらカインを見据えた。

「確認だ」

「……僕の無事を、ってわけじゃないよな」

「ああ」

 真面目な話だ。そう表情で語るリヒトに、カインは固唾を飲み込む。

 ややあってから、リヒトは言葉を紡ぐ。

「もう俺は必要ねえだろ?」

「……そう、言うと思ってた」

「はっ、伊達に一心同体だったってわけじゃねえんだな」

「うん」

「で、どうなんだよ」

「必要ない……って話は漠然としすぎてるけど、今後の生活の上で、キミの力は確かに要らない。今の僕には君の身体能力と、不思議な能力ちからが残ってる」

「そうかい。これで一安心――」

「けど」

 答えを知り、片がついたとリヒトは踵を返そうとする。だがそれを遮って、カインは言った。

「まだわからない。この前みたいなガイマが出てくれば、僕一人では太刀打ちできない」

 言われて、リヒトは首を傾げた。

「逃げろよ。戦う必要はねえだろ? お前はいつからガイマの狩猟組合に入ったんだ?」

「それに、僕はキミに助けられて、まだその恩を返せてない」

「要らねえよ。押し付けんな」

「キミだって、無一文で、行くアテがないだろ?」

「ガキじゃねえんだ。金の稼ぎ方くらいは知ってる」

「あと――」

「だああ!! うっせーなくそっ! 男に泣き言言われたって嬉しくねえんだよ!」

 続く言葉を上塗りするように大声を出したリヒトは、さらに声をかき消すように強く床を踏み抜いた。

 びく、と怯えたようにカインの肩が弾む。対してクラリスは、顔を伏せて笑いを押し殺していた。

「めんどくせえが、まだここに居てやる。夜逃げでもして泣かれても困るんだよ、仮にも一時的には、てめえは俺だったんだ。情けねえ事すんじゃねえ」

「ふふっ、あははははっ」

 耐えきれなくなったのか、クラリスが顔を上げて天井を仰ぐ。大きく開け放たれた口から出たのは、そんな笑い声だった。

 やがて腹を抱えて、暫く笑い続けて、それを二人は唖然として見ていた。

「ふはっ、ふふふ……ごめんなさい。だけど」

 目尻に浮かぶ涙を指で拭いながら、クラリスは二人をそれぞれ見て、言った。

「随分仲良しなのね」

「腐れ縁だ、こんなもん」

 腕を組んでリヒトはそっぽを向く。

 クラリスは笑い終え、見たことのないような自然な優しい笑みを浮かべてカインを見ていた。

「とりあえず、納得はするわ。あなたを解放する……今まで悪かったわね」

「ああ、いや……わかってくれれば、いいんだ」

 先ほどまでの堅く厳しい口調を忘れたクラリスに、思わずカインは胸を高鳴らせる。

 照れたように目をそらすと、クラリスは席を立って彼の後ろに回り込む。そうしてナイフで縄を切断し、ようやくその両腕を自由にさせた。

「エミリーは明日送ってくから、今日はもう帰っていいわよ。それと、アエスタの件……私はまだ、ケリがついたと思ってない。あなたの事じゃなくて、まだその背後に何か居るような気がするの」

 柔らかな声色が少し引き締まる。

 カインはそれに頷き、同調した。

 それに関しては同意見だった。アエスタがなぜ今更カインに目を付けたのか。そしてあの時殺害せず、言われるがままについて行っていたらどこに向かい、何をさせられていたのか。

「何かわかったら伝えるから、その時は協力して頂戴。あなたもいいかしら?」

「構わない。タダじゃなければな」

「良いわ。想定以上の働きをしてくれれば、ね」

 食えねえ奴だ。リヒトはそう舌を打つ。

 断ればまたカインを盾に何かをするだろう。

 つまり選択肢はないに等しい。無視をするなら彼女ではなく、カインを切り捨てなければならない。

「最近、この国の様子がおかしくなってきてる。政治じゃなく、それよりももっと単純な何か、嫌な風が吹き始めてる気がする」

 敢えて言うなら、とクラリスは続けた。

「あなたがここに居るのも、何か理由があるのかもしれないわね」

「……」

 振られた言葉に、リヒトは答えなかった。

 この世界に、本来在るはずのない命がある。それを特別視したい心情は容易く推し量れる。

 だがこれまでの人生で、そんな事は一度たりとてなかった。

 故に今回が例外。そう捉えるつもりも、当然ない。

 唯一異なるのがカインの身にこの魂が宿り、悪魔が関係しているということだけだが、それに関しては今考えても無駄だろう。

 何にしても手札が少なすぎる。

 リヒトは結局言葉もなく出口へと向かい、扉を開ける。そうして足を止め座ったままのカインを睨むように一瞥して、そのまま出ていった。

 視線で促されたカインはようやくそこから立ち上がると、クラリスへの挨拶もそこそこに駆け足でリヒトの背を追っていった。

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