第五話 反逆する男
二人の男
詳細は後日説明するとクラリスを帰らせてから、カイン・アルバートは彼自身の意志で
自身の寝台に寝かせて早速『同調』により己の回復力をリヒトへ移す。だがその肉体には何も変化は見られなかった。
焼け焦げた皮膚。それがめくれて見えた血の滲む肉は既に乾燥し、ドス黒く変色している。
到底生きている人間のものとは思えない。
実際、この状態が生きているかどうか彼に判断は出来ない。
呼吸は止まっているし、心拍もない。
この姿は先日見たエイジに酷似している。
死んでいる――どう考えてもその可能性は非常に高い。
だが今、己の中にリヒトと名乗った男の意識は毛ほどもない。この意識は紛れもなくカイン・アルバート自身のものだし、また他の者の気配もまったくない。
『同調』によって回復力は移せる。だが死んでしまえば、それを蘇らせる手段はどこにもない。
己の複数ある命を誰かに使えない事を、きっとリヒトは理解していた。
だからあの夜色の男との戦いでロラが死にかけていた時、まだ息があったのを確認して安堵していたのだ。
「くそッ!」
カインは苛立ったように握りこぶしで自分の腿を叩いた。
リヒトの事の多くは知らない。知っているのはこの肉体に宿ってから考えていた事、理解した事以外にはない。
彼には常にどす黒い感情が見え隠れしていた。
とても善人だった、とは言い切れない。
だがどんな形であれ、彼は己を認めてくれていたし、仲間を、なによりエミリーを命がけで助けようとしてくれていた。
そんな彼をこのまま見殺す事などできない。
もし悪魔が、この肉体からリヒトが離れた事による事を『死』と定義し、ペナルティとして与えた命を奪ったのだとすれば、彼は今地獄に居るのかもしれない。もしそうなっているなら成すすべはないが……。
だがそうであるなら、今この己がここに存在している理由がわからない。
悪魔は彼の魂で、この肉体を駆らせる事に意味を見出していた。
そうでなければ単純にカインを生き返らせなかった理由がない。
『同調』の能力が発動していないのならば彼に変化がないのは頷けるが、それがしっかり機能しているのは感覚でわかる。
リヒトが消えたことによる変化はそのほかに、あれほど感じていた自身の魔力が喪失されている事以外にはない。
力が弱まったのではなく、完全に存在していない。
感知できていたからこそ理解できる事だ。これは恐らく、生まれた時からのものだ。
ならば――。
考えた所で、はっとする。
「エミリー……っ」
彼女の事を忘れたなど、生まれて初めての事だった。
エミリーはタイタン・ヴェナドで寝かされている。だがその正面にはアエスタの死体と、仲間たちが居るはずだ。
クラリスが確認した後であるならば、他の法執行官やそれを始めとした警察が来ていてもおかしくはない。
ヘタに今回の事にかかわっていると判断されれば面倒な話になる。
そう頭の中で思考が巡る中、身体は既に目的地へ向かって動き出していた。
❖❖❖
最初に気づいたのは、落ちている感覚に囚われている事だった。
感覚だけだというのは、風も吹いていないし体も無重力のようによじれば容易く動くからだ。
腕がある。足がある。指は動く。目の映るその全ては暗黒だったが、恐らく視力も奪われてはいないだろう。
臓腑が浮き上がるような不快感極まりない感覚。それ以外になんの刺激もない世界。
失敗したのか?
リヒトは考える。
やったこともない思い付きの博打だった。銃弾に魂を溶かした魔力を乗せて深淵の性質を作る。
いや、成功した筈だ。
でなければこの意識が存在する理由がない。
消滅する筈だ。この魂ごと。
あるいはその実、本当はここは既に深淵であり、消滅する事すら出来ずに落ち続けるのか。
その可能性は否定できない。
だが
そもそも現実的に考えれば、魔力だの、地獄だの、深淵だの、悪魔だの、非現実的すぎるものばかりだ。リヒトとして死んで地獄に落ちた時から、不思議とそれを素直に受け入れていたが……現実世界以外では、精神的な強さが軸となるということだけは、確かに理解した。
そして今度の現実、カイン・アルバートに憑りついた世界でも魔力という概念からその精神力も重要になってきた。
これには何かの意味があるのかもしれない。
精神力、魂、自我――強く関連付けられている気がする。
己が何度もの人生を過ごすことになった事。
悪魔に魅入られた事。
自分の存在が特別とは思わないが、だがただ短い生涯を過ごす為にそんな無意味な事があるだろうか。
何かの為にここに居る。
そしてそれはきっと、あの世界での事……なのかもしれない。
「ラチがあかねえな」
考えても答えは出ない。その答えがあるのかさえわからないし、いざそれを示されたところで確認する術もない。
結局は自己満足だ。
「……にしても」
かなり長い間、こうして頭ばかりを使っている。体を動かしてもなんの結果も伴わないし、誰の声も、光もない。
そう思った頃に、ようやく声がした。
「リチャード……いや、今はリヒトと名乗っていたな」
声は下の方から聞こえてくる。
重く低い、歪んだ声色は到底人のものとは思えなかったが、もはや彼にとって聞きなれた者のものだった。
身体は勝手に落ちていく。だからやがて、そいつの姿を目視することが出来たし――その数秒後に、身体は激しい衝撃と共に何かに叩きつけられていた。
下には地面があった。そして同時にその表面を水のような何かが溜まっていて、リヒトが無防備に落ちた途端に音を立ててそれが飛沫を上げる。
酷い腐臭と、錆びた鉄の臭いがした。リヒトは本能的にこの場所にある液体が腐った血液だと理解して、慌てて立ち上がる。
そんな様子を、正面に立ち腕を組む男は眺めていた。
側頭部に湾曲した角を生やし、瞳を黒く染めた紫色の肌の男。
腕を組んでいる筈なのに、さらに両腕を腰にやっている姿。腕が四本あるのか――そう思いながら、暗黒の中ではっきりとその姿だけが浮いて見える奇妙な違和感を覚えた。
「悪魔……カルマって言ったな、お前」
「ああ。まさか貴様がここまで辿り着くことになるとは思わなかったが」
「だが本体じゃない。お前がわざわざ俺の所に来る筈がない」
「予想外、といったものか。つくづく貴様は私を楽しませ、苛つかせてくれる」
「手前は偉そうに呼び出すだけだ。ならなんだ、あの焼死体を操ってたのがお前で、悪魔の片割れってわけか?」
「だがそれも人間の可能性というわけか。よもや、カイン・アルバートまでその魂を残しているとは思わなかったが」
会話は決してかみ合わなかったが、互いにそれを気にしている様子はなかった。
リヒトは隙を見せずに身構える。それと全く同じくして、悪魔も腕を解いて指を折り拳を作っていた。
「てめえを殺せば俺を取り戻せる。それでいいんだな」
「貴様の考えは正しい。ただ一つ誤算があるとするなら、それが不可能だという一点のみ」
例え本体から離れた欠片だとして、それが貴様に殺される程の弱体な筈がない。
悪魔はそう続けて――姿を消した。
地面を強く叩いて飛び上がる。水面が弾けて飛んだ飛沫だけが、そこに残っていた。
身に着けている物は衣服以外は存在しない。残念ながら拳銃はないのだ。
だが、今は必要なさそうだ。
本能的に判断する。
そうした直後に頭上から殺気を覚えて、咄嗟に背後へと飛びのく。
刹那後、入れ替わるように彼が居た場所へ一閃の斬撃と錯覚するほど鋭い拳撃が落ちてきた。
ここが深淵だとするならば――考えながら、手の中に魔力を集中させる。全身に滾る力が波打ちながら、右手へと集まり始めていくのが体感できた。
リヒトはさらに地面を蹴り飛ばし距離をとる。間合いをはかりながら力の集中を最大限に至るまで時間を稼ぐつもりだったが――思っていたより、身体が重く、動きが鈍い。
否、正確に表現するなら身体能力が常人並みに戻っている。
故にそうした行動に容易く悪魔は追い付いてきていた。
引き絞った右腕が、弾丸のように速く、鋭く、顔面を穿つ。
「くっ――」
攻撃は視えている。
反射的に全身を脱力して顔面の正中を狙った攻撃は、右半分へと反れていた。
それでも拳の重さ、強さ、衝撃に体が負ける。踏ん張ろうとして、血液に浸った地面に足が滑った。
地面に叩きつけられる寸前で身を翻しながら受け身をとる。そのまま転がりながら、リヒトはすぐに立ち直った。
同時に下方から迫る鉄拳。
顎下へ衝撃。骨を砕き、衝撃が脳へ浸透する。
意識が明滅する。
吐き気と激痛に呼び起こされながら認識した現状は、まだ悪魔の攻撃が終了した直後だった。
「ぐ、が……」
仕方ねえ。そう呟くつもりだったが言葉を紡ぐ余力はなかった。
半端に手の中に集まった魔力。にわかに空中へ浮かび上がるその最中に、腕を振り払いながらそれを解き放った。
不安定な球状の魔力の塊が悪魔へ迫る。だが彼はそれを容易く避けて見せた。
動きが遅く、力の気配も弱い。そう判断したのか、その球は漂うように悪魔の脇を通り抜けた。
刹那。
リヒトの掌握から解放された魔力が爆発的に膨れ上がる。
それと同時に巻き起こる爆撃。その中心で勢いを増し続ける黒い火焔が、油断していた悪魔を当然のように飲み込んでいく。
空間に衝撃が伝播する。
波のように揺れた衝撃が、地表を潤す血液を余すことなく弾き飛ばしていた。
爆音がすべての音を奪い去り、衝撃がそれによって肌を打つ感覚のみを与えていた。
リヒトとてそれに巻き込まれ、無傷とは言えない。
空中で衝撃によって弾かれた彼はそのまま地面を幾度か転がった後、ようやく体の動きが止まったのを確認して立ち上がる。
全身が激痛に苛まれる。
顎が砕けたせいで、口が半開きのまま締まらず不愉快だ。
だが――未だその勢いを強め続ける爆炎の中で、棒立ちになっているシルエットを睨むにあたって、にわかな達成感を覚えていた。
だが実際こうして成功させてみて、それが幸運だったのを知る。
自分に秘められている魔力はあまりにも莫大なようだった。
ロラが使っていた稲妻や爆炎の術。あれを外に発散させることなく一点に集中させた爆弾を作れば、慮外の敵であっても致命傷は避けられない筈。そうずっと考えていた。
そして事実、そうであった。
黒い炎の中で蠢く影が、ゆっくりと近づいてくる。だがそれが身悶え動くたびに、片腕が崩れ落ち、やがて立たせている足を崩壊させて前のめりに倒れていた。
リヒトは短く息を吐きながら、そいつへと歩み寄る。
残った腕で這うように距離を詰めようとしている悪魔は、見上げる様に、リヒトを睨んでいた。
炎から逃れようとした肉体は、既に芯まで燃えているようだ。表面は炭化し、燻ぶったように煙を上げている。
悪魔は声を発しない。
恐らく既に、それが出来ないのだろう。
「じゃあな」
捨て台詞もなく、リヒトはそいつの頭部を踏み砕いた。
瞬間。
にわかに体が浮かび上がる。そう理解した時には既に、今まで落ちてきた空へと逆行するように飛び上がっていた。
大した間も置かずに頭上に光が見える。
それがその強さを増していくごとに、彼の意識は薄れていった。
やがてその光に全身が包まれた時、完全にすべての感覚が消失した。
❖❖❖
総身を覆う殻が砕ける。
そんな感覚だった。
すっかり炭化していた表皮が崩れ落ち、下へ落ちる。むき出しになったその下の皮膚は完全に再生していて、無傷のままそこに存在していた。
目を開く。
身体を起こす。
そうして、全身の焼けただれていた部分が剥落した。
リヒトは生まれたままの姿で、周囲を見渡す。
どうやら室内のようだ。そう把握しながら、見覚えのある風景にすぐに理解が及ぶ。
そこはカイン・アルバートの自室だった。
だが家の中に人の気配は感じられない。
あれからどれほどの時間が経過したのかはわからない。また、カインが無事であるかどうかさえ、わからない。
だが今己は、リヒトとしてこの世界で生きている。
それだけは確かなようだった。
リヒトは次いで自分の両手を見る。皮膚の状態からして、まだ年齢は若そうだ。
リチャードとして死んだのは四十台前半だった。だが中年とは言えないハリのある肌だ。その気になれば水さえ弾けるだろう。
「さみいな」
呟く声は少し低い。だがしわがれてはいないし、アルコールで焼けた喉をしているわけでもない。
考えながら、リヒトは当然のようにカインのクローゼットを漁って衣類を着用する。
簡単なシャツに、黒のズボンを履く。ガンベルトを拝借して、薄汚れた茶色いブーツに足を通した。
とりあえずカインを探そう。死んでいればそこまでだが、エミリーまで家に居ないのは何か理由があるはずだ。
リヒトはシャツの袖を捲りながら外へ出る。
日差しはまだ厳しく、夏はまだ訪れたばかりであることを彼に理解させていた。
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