リヒトという男
焼死体は空中で加速した。
背部から何かを噴出して勢いを増したのだ。
予想していた落下速度を遥かに凌駕して肉薄する。
油断していたわけではなかったが反応が間に合わなかった――足先が鋭く顔面を襲う。
顔を蹴り飛ばされたカインは滑空するように吹っ飛んだ。低空飛行する鳥のような気分の後に、急速に重力が肉体に負荷をかけて地面吸い込まれる。
一度弾み、二度叩きつけられ、そうして三度目にようやく転がった。
視界に映る景色が異常なスパンで空と大地とを行き来して、ようやく止まったその先に見たのは肉片だった。
目の前に腕が転がっているのを見る。己の腕だ。
まだ右腕は傷口を塞いだばかりで、完治していない。迷わずそれを掴んで寄せて、粘土細工のように傷跡へと腕を押し付ける。
それは玩具のように張り付いて、やがて間もなく元々切断などされていなかったように感覚を取り戻した。
這いつくばるカインへと、すぐに焼死体は迫ってきた。
振り下ろされる拳を寸でで地面を弾くように起き上がって回避。そのまま地面を穿った鉄拳は、カインの足元まで及ぶ大きな窪みを作り出していた。
轟音。
後に衝撃。
爆撃のような衝撃波が煙のように膨れ上がる。その界面に触れたカインは、たまらずその勢いに負けるように押しのけられた。
吹っ飛ばされてたまるか。全体重を地面に押し付けて踏ん張り耐える。だが深い轍を作りながら、その身体は後ろへと押しのけられていた。
辛うじてそれを凌いで目を見開いた時、またそいつは馬鹿正直に正面から向かってきた。
拳を当たる寸前で回避する。
相対するようにその腹部へとカウンターを叩き込む。背部から衝撃が抜けるほどの強打。
だがそいつは怯むことなく更に食らいつき、勢いに任せた膝蹴りをカインにぶち込んだ。
密着する事によって焼死体はカインを両腕で掴む事を思いつき、拘束したまま何度も膝を水月へと容赦なく連打する。
「くっ――がぁっ!」
離せと肘で側頭部を打つ。だがそいつはまるで既に捕食を目的とした獣のように、カインを決して離すことなく野性的に攻撃を続けていた。
続く衝撃。
激痛が思考を歪める。
折れた骨がさらに粉々に砕ける。
それが臓腑を引き裂いて、あふれ出た鮮血が逆流して口腔から吐き出た。
「ざっ、けんなッ!」
手の中に力を籠める。それは己の意志のままに収束する魔力。それが渦巻きながら手中へ集まり始める。
鈍い熱。
淡い輝き。
だがそれを認識した焼死体は、即座に拘束を解く。
突然自由になった身体でカインはすぐさま身を翻そうとするが、それより
手の中の魔力は容易く霧散し、拳ごと地面に叩きつけられたカインは受け身をとることも許されなかった。
衝撃が逃げ場を失い頭蓋の中で乱反射する。意地と執念で意識を取り戻すが、そうした度に気絶する。ほんの一瞬の間にそれを十数回と繰り返し、最後には激痛が打ち勝った。
気絶していたのはほんの数秒だった。
すぐに目を覚ましたカインは、片膝をついて頭部を完全に粉砕する為に振り下ろした拳が鼻先に触れた時だった。
死の気配が背筋を撫でた。
怖気が走る。肌が粟立つ。
だがそうするより先に、身体を転がすように回避する。
拳はだが既に頬に触れていた。
圧力が強くなる。
皮膚が引き裂ける。
鮮血が迸る。
やがてそれが骨に至るその瞬間、不意にその動きが停止した。
否、それは正確ではない。
焼死体は攻撃を止めるつもりなどなかった。だが突如として死角から放たれた肘撃によって、抵抗の間もなく突き飛ばされたのだ。
なんだ、何が起こった。そう口を開いたつもりだが、言葉にならなかった。
血の泡を吹きながら激痛を堪え、なんとか起き上がる。
そこには腰に手をやった、シルバーブロンドが特徴的な女が立っていた。
全身からバチバチと電撃を迸らせ、長髪の表面をにわかに浮きだたせている。
「貴様、作戦を実行しないどころか何をしているんだ! 何が起こっている⁉」
言われながら、横目で地面に倒れる焼死体を見る。
そいつは必死に立ち上がろうとしているが、力を込めた途端に関節から力が抜ける様に倒れ、思うように起き上がれない様だった。
「はぁ、はっ……ふぅ」
高鳴る鼓動を押さえつけ、乱れる呼吸を整える。
血まみれで、傷だらけの顔のまま、カインはようやくクラリスへと視線を戻した。
「助かった。マジで死ぬかと思った」
「質問に答えろ!」
クラリスは必死の形相で怒鳴り散らす。
ただでさえ強気な顔つきだ。その怒りの具象化ともいうべき表情には恐ろしいものがあったが、まともに対応している余裕や時間などない。
「ったくよ、やりきれねえよな。殺すつもりなら、さっさと
「まったく、後で詳しく話せ。良いな」
「あいよ」
「で、私はどうすればいい」
焼死体はようやく、なんとか立ち上がりかけている。それを見ながらクラリスは身構え、カインはホルスターへ伸ばした手を小脇に戻して腰に手をやった。
「なんで来た? なぜ逃げない?」
「あの惨状を見て吐き気がするほど迷ったさ! 中にエミリーが居たから貴様も関わっていると確信した、そしたらこっちの方でこの騒ぎだ。見て見ぬふりをしろというのが無理というものだ」
「正義感か」
「バカだと言いたいのか?」
「いや……命の恩人だ。死ぬなよ」
「
言いながら、クラリスは口角を上げてにやりと笑った。
途端にクラリスの総身が、先ほどとは比にならぬほどの電撃に覆われ始めた。バチバチと彼女の周りで弾けて空気を焼く極小規模の稲妻がその勢いと量を増やしていたのだ。
ロラの稲妻の召喚を彷彿とさせるが、どうやらそれとは性質も使い道も違うようだ。
焼死体が地を蹴る。本来ただの人間の目にはそいつの姿は瞬間的に消えたように見えるはずだが――クラリスは容易く対応し、そいつ以上の速さでその懐に潜り込んでいた。
同時に肘撃が水月へ炸裂。
瞬間、雷光が瞬き肉体を貫く。
だが焼死体は稲妻に焼かれながらも、勢いが衰えかける寸前の刹那で拳を振り払う。速度が故に刃のように鋭い薙ぎ払いは彼女の鼻先を掠め、薄い皮膚と、数本の毛髪を切り裂いていた。
飛びのいてカインの隣へと戻ってきたクラリスは、少し驚いたように目を見開いて雷撃によって痺れている焼死体を見ながら口を開いた。
「本気だったのに。あいつはなんなんだ。ガイマより強い事になるぞ」
「あれは俺だ」
「はぁ⁉」
苛立ったような声でカインへ顔を向けるが、真剣な顔を見て、冗談などを口にしている訳ではなさそうだと彼女は理解する。
だが言っている事までは理解できない。
促す前に、カインは言葉を続けた。
「カインは死んだ。どうやら――妄想でなければ――魂の欠片は残ってるようだがな。死んだ肉体に俺が憑りついている」
「貴様は、何者だ」
「リチャード……いや」
リチャードはただの前世だ。今の俺はそれよりずっと前から生きている。最初の自分、そいつが恐らく今の己を作ったと考えて間違いはない。
ならばそれは確か……。
「リヒト。地獄から来た男だ」
呟くように言った言葉に、焼死体の肉体が大きく弾む。そいつは頭を抱えるような素振りを見せながら跪いた。
クラリスが相手をしてくれたおかげで、だいぶ傷が治癒した。体力も気力も十分に回復したようだ。
「さて、賭けに出るか」
クラリスのお陰でわかった事がある。
奴はどうやら無敵というわけではないようだ。痛みを感じているのかわからないが、ああやって外部からの刺激に強制的に肉体が反応させられる事に対して抵抗手段はない。
ならば手段はともかく、殺せるということだ。
死ぬのならばアイツは同様に生き物として扱っても良い。
そして奴は『リヒト』の名に強く反応している。楽観的に考えれば、この肉体のように己の意識、あるいは魂が欠片ほどでも残っている可能性がある。
今この肉体ではリヒトが強く出張っているからカインの意識はまったくないが――。
そして魔力。こいつは使いようによれば現象を増幅させて発生させられるという。
今はろくに使いこなせていない。だがその力をさらに『同調』で己の使いやすい性質に変えてやれば。
漆黒の弾丸に乗せて魂を移し替える。
それが深淵の性質を孕むのならば。
奴の力の心髄が深淵ならば。
「クラリス、そしてカイン。あとは任せた」
カイン――否、リヒトは左手で拳銃を引き抜いて構え、照準する。
意識する。
鉛弾に全身全霊を込めて魔力を集中する。
風がリヒトを中心に吹き出す。間もなくそれは荒れだし、突風が彼を芯に据えて渦巻きだした。
それが強くなればなるほど、リヒトの内から湧き出ていた魔力が徐々に少なくなっていく。それは総量の問題ではなく、生み出す力自体の話だった。
共に、リヒトの意識も薄れていく。
同時に口が、意志に反して開き、言葉を紡いだ。
「勝手だよ、あなたって人は」
身体を動かしていない。なのに指が、撃鉄を上げた。
腕が震え、ずれていた照準が右手を添える事によって直されて精度が上がった。
そうしてそれをようやく、自分がしていないという事に気が付いた。
既にカイン・アルバートの魂がこの肉体の主導権を握っている。
妄想や幻想ではない。
確かに彼の魂は、ここに宿っていた。
「勝手に乗っ取って、勝手に任せて」
だが、お陰でこうして言葉を紡げる。
痛みを感じられる。
感情を動かせる。
生きている。
だから、いいだろう。ああ構わない。
あなたの為なら。
「任せろ」
カイン・アルバートの思考がリヒトへと流れ込んできたのは、それが最後だった。
莫大な魔力と共に、リヒトの魂が弾丸に籠る。
それを確信した瞬間。
その力に反応した焼死体は既にカインへと動き出していた。
それを見てクラリスが機微に対応しようと体に力を込める。
だがその全てより速く、カインは引金を引いていた。
銃口に火花が弾ける。
音速を超える速度で放たれた鉛弾は、その表面に黒よりも黒い漆黒を纏っていた。
焼死体はそれを認識する暇さえなかった。
だからそいつがそれをようやく理解したのは、漆黒の弾丸が脳髄の奥深くに至った時であり――その時には既に、その肉体を駆る者の意識は、存在していなかった。
故に理解できる筈もなく。
焼死体はまさに焼死体であるように、額を撃ち抜かれたまま仰向けに倒れていた。
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