亡失の男

 昨日、明日アエスタからの訪問があるとスミスから話が合った。どうやらそういった書面が届いたらしい。

 ついに作戦決行か、と思いながらカインはその日の朝を迎えた。

 目が覚めた時から、目の中に映る幻影は何かと忙しなかった。いわゆるがする、という奴なのだろう。

 自分自身より、この幻影カインの予感の方がずっと正しいような気がして、彼はクラリスとの約束を破ってエミリーと共に自宅で待つことにした。

 作戦――それは単純なもので、アエスタと組合で対峙し、彼がボロを出したところでクラリスが登場してそれを徹底的に叩く。血を流さない賢く簡単なやり方だ。

 だがそれで通用する相手ではないような気がする。

 それで済むような相手が、わざわざ己を狙うか? それが一番の疑問だった。

 クラリスは腕が立ちそうだし、自分も自身の力に自信がある。だから最悪の可能性を考えても、それに難があるとは思わなかった。

 だがそれ以上に、自分へ以外の被害が心配だった。

 アエスタはどうやらカインの家族との付き合いが長そうだ。であるならば、カイン以外の存在を知っていてもなんら不思議ではない。

 そしてそれを交渉材料にしようと考えたとしても。

 クラリスは、そこに手を出せば逆に一気に叩きのめせると息巻いていたが――何かあってからでは遅い。

 何かあるのは交渉が決裂した時だ、ともクラリスは言っていた。

 それに関しては同意だ。だがどうあれ、後手に回る事はリスクでしかない。

「……いや」

 仮に奴らがここを攻めてきたとして、己は本当にエミリーの前で力を使い撃退できるのか?

 であるなら、エミリーと共に組合へ行って保護してもらうのが先決なのではないか?

 ああそうだ、きっとそれがいい。何よりも優先するのはエミリーだ。

 過信しすぎていた。己はともかくとして、スミスや、他の仲間たちはカイン・アルバートを信頼している。またカインも彼らを信頼している。

 それはまだ反故になっていない。

 人を頼るべきだ。

 幻影カインに耳を傾けすぎた。なんの為にここに己が居るのだ。

「エミリー、ちょっと出掛け――」

 ちょうど太陽が南へ近づいた頃。

 外からした銃声と共に、玄関の扉に小さな穴が空いた。

「カイン・アルバート、出てこい」

 知らない男の声がした。

 続いて銃声。扉に二つ目の覗き穴が出来上がる。

 リビングで席についていたエミリーがひどく怯えた顔でカインを見ていた。

 それを見て――既に頭の中は、怒りで赤く染まりあがり始めていた。

「スミス・ドレイドとの交渉はご破算だ。お前と直接話がしたい」

 最も愚かなのは己で間違いはないだろう。

 だがその次に愚かなのは、安い挑発を試みた彼らだ。

「エミリー、ここに居ろ。音を立てるなよ」

 青筋を立て、怒りに満ちた表情のカインを、エミリーは生まれて初めて見た。

 返答を待たずに席を立ち、玄関へ向かっていくカインの背が、どんどん遠くに消えていくような錯覚を覚える。

 手を伸ばすことも、声をかける事も出来ずに体は固まったまま、ただその行為を止めたい想いだけが強く心中で渦巻いていた。


 扉を開けて出たカインを迎えたのは、十数人の黒服の男たちだった。その玄関口を囲むように扇状に展開した男たちの外側には、さらに馬に乗った連中が数人見える。

 玄関を撃ったのは、どうやらその正面に居る帽子を被り髭をふんだんに蓄えた中年の男らしかった。

「お前がカイン・アルバートか」

「なんだよ、呼び出しておいて三下しか居ねえのか。舐められたもんだ」

 吐き捨てた台詞に、男は軽い笑みを浮かべながら拳銃を構える。照準されたのはカインの額だった。

「言葉には気を付けた方がいいぜ、オレの機嫌を損ねりゃテメエは死ぬからな」

「俺を殺せばお前の頭も飛ぶだろ、能無し。雁首揃えなけりゃガキ一人も呼んでこれねえ格下が」

「てっ――」

「俺を呼ぶ前にアエスタをここに連れてこい。そもそもの道理が通ってねえのはてめえらだろうが」

 男は血管を額に浮かべる。怒りをあらわにした彼らは示し合わせるでもなく、誰もが銃を抜いてカインへとそれを向けていた。

「まあいい、お前らの顔を立ててやってもいい。連れてけよ、地獄でもどこにでも」

 平然とした顔でそう言い放つと、顔を赤くした髭の男が即座に接近する。

 直後に拳銃の台尻で強くカインの頬を殴り飛ばした。皮膚が裂け、少しだけ血が飛び散る。

 男はそれを見て嗜虐的な笑みを浮かべたが、対してカインは冷めた目で彼を見返していた。

「これで満足か? だから三下なんだよ」

「オレを、舐めるんじゃねえ!」

 叫ぶように言い放ち、振り絞った拳をカインの腹部へと叩き込む。それを契機とするように男たちがカインへと詰め寄り、殴り、蹴り、罵詈雑言をまき散らす。

 数分ばかりでそれが終えると、地に伏せるカインの首に縄が括られる。即座にそれが締まり、馬に引かれて体が勝手に進んでいった。

 男たちはそれをあざけ笑いながらついてくる。

 一人残らず――ああ、それでいい。

 カインは体中の痛みなど感じないように、心中でほくそ笑んだ。

 奴らがエミリーの事なんかすっかり忘れて自分に集中してくれれば、それでいい。今はそれが最善だ。

 男たちはスミスの話しかしていなかった。

 クラリスは姿を現していないということだ。

 ならば不審に思った彼女はこの光景を見ている筈だ。

 聡明な彼女ならエミリーを庇ったことを理解する筈だ。

 もしそうしたなら、クラリスはエミリーを保護する以外の手段はとらない筈だ。

 信頼しすぎている。それはわかっている。

 だが今はそれを祈るしかなかった。


                ❖❖❖


 ボロ雑巾のようにしばらくの間引きずられていると、体中がすっかり砂まみれになった頃にようやく動きが止まった。

 銃声と共に縄が途中で切れて、慣性のままにカインは少しの距離を転がった。

 口の中に入った砂を唾と共に吐き捨てながらカインは立ち上がる。

 周囲は相変わらず黒服に囲まれていたが、少し違うのはそこがタイタン・ヴェナドの目の前であり――扉は開いていて、そこへの道だけが開かれているということだった。

 衣服の砂ぼこりを払っていると、開け放たれた出入り口から一人の男がやってきた。

 前回と変わらない正装にちょび髭面。アエスタは笑みを湛えたまま、やがて彼の目の前まで歩み寄ってきた。

「カインくん、君の肝の太さには感心したよ。人にお金を借りておいて、返す腹積もりすらないとはね」

「あんたに金を借りた覚えがないからな。返す理由なんてねえだろ」

「威勢が良いのは結構だが、身の程は弁えた方がいいね。ほら、見てごらんよ」

 言いながら、アエスタは腕を上げて人差し指を伸ばす。それはこれまでカインが引きずられてきた方向であり、

「……ッ!」

 道を開けた黒服たちの先に、馬が居た。そこには縄で縛られ、猿ぐつわを噛まされたエミリーが乗せられていた。

「君に言わせれば我々は呆けらしいが、仕事はきっちりとこなす優秀な連中だよ。君なりに頭を捻って体を張ったようだが、そこに意味はない」

 気絶しているのか、身体は脱力して垂れていた。

 それが唯一の救いだったのかもしれない。

 急速に怒りで頭の中が沸騰する。

 同時に失望する。

 クラリスは何をしているのか。己が作戦を反故にしたから、見捨てたのかもしれない。

 そもそもそこまで信頼できるほどの関係ではなかったのだろう。

 一方的な想いだったのだろう。

 彼女は賢い。自分が無勢であると理解すれば、さらに良いタイミングが来るまで身を潜めるだろう。彼女自身の存在が切り札のようなものだ。簡単にその姿を見せるわけにはいかない。

 ああ、そう理屈で理解できる。

 だが納得はいかない。

 愚かだろう。

 愚昧だろう。

 呆けだろう。

 それが俺だ。

 藍色の瞳が一層深くなる。

 怒りに身を任せようとした瞬間、不意に、アエスタの背後にある暗がりから人影が現れた。

「か、カイン……すま、ねえ」

 頭から血を流し、頬を伝って地面に垂れる。よろよろと歩くスミス・ドレイドは、出入り口から出てすぐの日差しの中で、膝をついた。

「スミス、なんだそりゃ」

 呟くように言葉が零れる。それを見て、アエスタはまるで虫でも見つけたような冷めた目つきで、拳銃を抜いていた。

「町を、出ろ。おれたちに構うな、逃――」

 言葉を遮るように、銃声が響く。弾丸は鋭く、スミスの腹部を撃ち抜いていた。

 言葉は途切れ、同時にスミスの巨体が地面に倒れた。

 少しして溢れた血液が彼を沈めていくように、広がった。

「君の選択肢はひとつだ、カイン君」

 ああ、もういい。

 悪ぃな、スミス。

 ロラ。ケニー。エミリー。そして――カイン。

 俺は飽き性のろくでなしだからよ、もうこの人生は飽きちまった。

 だけど――今までずっと、考えていたことがある。

 あの時。

「我々と共に来てくれる事だ。もっとも穏便についてきてくれることが一番話が早いのだが」

 初めてこの世界に来た時。悪魔カルマが俺を襲わせたあの焼死体。

 あいつは俺なんじゃねえのかって、ずっと考えてた。

 あれが俺なら、俺はなんだ?

 この体はカインだ。

 前世はチャールズだったが、その前の人生でも、その前も、ずっと今の俺だ。

 きっと俺はずっと誰かの人生を生きてきたんだ。

 だったら俺は誰なんだ?

 初めの俺がそうなのか?

「カイン君、聞いているのかね?」

 考えれば考えるほど、今、これまで生きてきたすべての中で”生”を実感できた。

 皮肉な話だ。今まさに死に向かっている最中だというのに。

「おれ、は」

 少なくとも一つ、真実があるとするならば。


《まだ引き返すことが出来る。その選択をする前に、思いとどまることが出来る。わかっているか?》


 聞き覚えのある声が、頭の中に響き渡る。

 ああ、知ってる。

 そう心中で独り言ちる。

 だが、もういい。


 一つの真実。


 それは俺は俺で、カインはカインだ。

 今この世界にそれぞれが同時に存在しているならば。

 きっとこの目の裏側に居る幻影がただの妄想でないのならば。


「返してやるよ、カイン。お前の望み通り」


《愚者はやはり愚者――愚かなり》


「……? 今、なんと――」

 アエスタの言葉は結局、届くことはなかった。

 そして二度と紡がれる事もない。

 言いかけた口はそのままの形で止まっていた。その時にはすでに、カインは引き抜いた拳銃でアエスタの額を撃ち抜いていたからだ。

 脳みそをかき乱して後頭部が破裂するように開く。脳漿と鮮血が後方にぶち撒かれて、アエスタはそのまま仰向けに倒れていった。

 それを契機とするように、四方八方から黒服たちの銃撃が開始した。

 だがそれをかき消す程の爆発音のような何かが、遠くの方で、した。

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