夜色の男
戦争孤児だったロラは、術の才能を見出されて軍の訓練場で幼少期からを過ごしていた。
軍を抜けたことに深い理由はなかった。強いて言うならば、代わり映えのない日々に飽きた事だろう。
言いなりになり、命を粗末にしている人たちに飽きたのだ。決してその一つ一つは軽くはないし、誰かの為に散っていったものだ。だが他にもっと良い方法はあった筈だし、考えていた筈だった。
それをしなかった上官たちのせいで、代わり映えのない日々が続いていた。それに嫌気がさしたのだろう。
軍上がり、しかも対指定有害魔獣部隊の出身ともなれば、仕事には困らなかった。
その中でタイタン・ヴェナドを選んだことに、これまた特に理由はなかった。
一つ考えてあげるとするならば、程ほどに自身の力を発揮しつつ、それ以上の事に困ることがなさそうだったからだ。
ケニーと出会ったのはそれからしばらくしてからの事で、最初の印象はどこにでも居るような生真面目な男というものだった。
仲間思いで、仕事熱心で、誰にでも優しく、狙撃もそれなりに上手い。
やがて彼からのアプローチもあって、パートナーになった。居心地もそう悪いものでもなかった。
人並みの生活――憧れていたのかもしれない。
ふとそんな彼の笑顔が脳裏を過って、
「あ……」
その双眸が、やがて現実を捉えた。
息が出来ない。胸がひどく痛む。
先ほどの黒い何かがすぐ近くに居て、何かをしているようだが、何をしているかはわからない。
なんで急に、昔の事を思い出したのだろうか、と思う。
考えるたびに、少しずつ考える気力が失われていく。やがて考えることも億劫になって、少しずつ体が寒くなっていくのも手伝ってか、意識が、視界が、薄れつつあった。
やがて、だらん、と力なく腕が、身体が垂れる。
その人影が腕を引き抜く。手の先が血の尾を引いて、支えを失ったロラが無防備に地面に叩きつけられた。
そいつはゆっくりと振り返る。
宵闇のような肌の色。人の形をとったそれはアグルへと目をむける。深淵の如き暗く深い瞳が彼を興味なさげに見て、鼻を鳴らした。
「お前たちが我々を殺戮して来たのを知っている」
――本能的な恐怖。
その原因を目の当たりにして、アグルはこの状況にして安堵していた。
自分の勘は間違っていなかった。それがなんであれ、こうして実体があるものならば、己でなかったとしても、誰かがこいつを倒せる筈だ。
「貴様は何者だ」
アグルがようやく口を開く。
拳を作り、身構える。
ソレはまったくの無防備で、だがまるで人間然とした態度で、肩をすくめてみせた。
「言っただろう。知っているのだろう。我々を狩っていたのだから」
「人間に害をなすモノだ。それ以上の理由はない」
「ならば我らとて同じこと。お前はそれなりの力を持っているのだから覚悟はしているはずだろう――狩りとは転じて、狩られる可能性も秘めていることを」
殺気が喉元を掠めた。
アグルは咄嗟に大きく後ろへと跳び退る。だが目の前の夜色の男は、一歩たりとて動いてはいなかった。
「恐れるなよ、人間」
男は一歩、前に出る。
「我々は日々進化する。お前たちと同じだ」
さらに一歩進む。
アグルはポケットをまさぐり、紙巻を咥えて火をつけた。
「その通過点にお前たちが居た。ただそれだけの事。哀れなのは、お前たちと我々が交差してしまったこと」
「随分と口が達者じゃないか」
「挑発のつもりか? 哀れなほど、弱弱しいぞ」
男はさらに足を踏み出す。その速度が徐々に早く、無制限な加速を得る。
同時にアグルの心臓が高鳴り、世界を赤く染める。時間の流れが緩慢になり、やがて止まる――筈が、
「ちぃ――ッ!」
飛来した拳を寸前で回避する。横にとびぬけた先で、先回りした男の膝が迎え撃った。
左腕で攻撃を受け止める。その衝撃で弾かれた身体を繋ぐように、男はアグルの胸倉を掴んで引き寄せた。
そうした行動にアグルは左の拳を合わせる。引き寄せられる勢いと共に、ガムシャラな拳撃が男の顔面に直撃した。
「――
効いている様子はまるでなく。
アグルの意識を超える速度で飛んできた拳が、鋭く、深く、腹部に食らいつく。
「かっ、はぁ……っ」
肺腑から空気が絞り出される。圧迫され、目玉が飛び出しそうになった。頭の中が熱くなり、破裂しそうだ。
そんな最中に、紙巻の効果が切れた。
緩慢な時間の流れがもとに戻る。それと共に、アグルの肉体は空高く飛んだ。
――高度が高くなるにつれて、地表の景色と共に意識も薄れていく。
そんな折に、不意にその浮遊感が失せたのを感じた。
「……何が起こってんだ、これ」
男の声がした。それは夜色の男の声ではなく、まだ若い男の声だった。
誰かに空中で受け止められている。アグルが認識できたのは、それが最後だった。
何か嫌な予感がする。
そんな予感はいつも的中していた。
カイン・アルバートが死んだ日の朝も、そんな嫌な気分から始まったのを思い出していた。
カインは馬を超える速度で地表を舐めるような速度で疾走する。風を超え、音を超え、光にさえ達するのではないかと思う速度は、彼が過ぎ去った後の周囲に暴風を吹かせた事から決して比喩ではない事がわかる。
ある時から肌を粟立たせるような気配がしていた。
それは目的地へと近づけば近づくほど強くなっていく。
エルがガイマに襲われた。ロラもいるらしい。それはつまり、最低でも二人はこの尋常ならざる強大な敵意の塊に飲み込まれている事になる。
早くしなければ間に合わない。
カインは考えながら速度を上げる。
最早面倒だからだとか、関係ないから、などという話ではない。
この世界で少しずつ、おかしな事が起き始めている。
その起点が自分でなければ、良いのだが。
悪魔のような気配を覚えた時、見覚えのある顔が空へと高く打ち上げられたのを見た。
地面を強く蹴り飛ばし、受け止めてから、ようやくカインはそれが反射的に行ったものだという事に気が付いた。
「……何が起こってんだ、これ」
呟く声に、返ってくる音はなかった。
軽々と雲近くからの高度から着地したカインは、ゆっくりとアグルを地面へ横たわらせる。
息はある。死んではいない。だが致命傷を負っている可能性が高い。
考えながら、顔を上げる。
その先に、夜色の体をした人型の何かが居た。
深い闇色の眼でカインを睨むと、少しだけ眉根をひそめ、困ったような顔をしているようだった。
「何者だ」
声色から、どうやら警戒しているようだ、というのが唯一読み取れた。
「こっちのセリフだ、バカ野郎」
男の先の地面で横たわっている赤髪の女を見つける。血だまりの中に沈んでいるのは、どうやらロラらしいというのが彼にはわかった。
「てめえ、殺しやがったな」
「お前たちとて同じことをしているだろう」
――ロラが死んだ。
男の否定のない言葉によって、頭の中で誰かが叫びだしたような感覚があった。
鼓動が早くなる。顔が熱くなる。湧き出る苛立ちが、どうしようもなく全身に力を漲らせる。
油を入れた壺を焚火の中に投げ込んだような爆発的な怒り。その強烈な衝動性は、本来ならば何も考えずに目の前の男に殴りかかっているはずだった。
それを抑え込んでいるのは、否、それが湧き上がってくるのは彼自身とは別の記憶から由来するものだった。
カイン・アルバートの衝動。意志に反して、それが頭の中を赤く染める。
よく考えろ。よく観察しろ。
その結果としての行動は、その男の脇を素通りしてロラへと歩み寄る事だった。
それを阻止する――のではなく、そのような侮りに近い行動への制裁なのだろう。
男は即座に神速にも似た速度でカインへと迫り、その胸元へ鋭い手刀を突き出した。
が。
手首が強い力に掴まれ、阻まれる。やがて間もなく骨が異音を上げ始め、男は回転を加えながら腕を引き抜いた。
それに対する抵抗はない。軋んだ手首に致命的な損傷がないのを確認しながら、己とまったく同じ瘴気を孕むカインの動向を、男は見ていた。
「落ち着けよ。相手はしてやる」
男を一瞥すらせず、そう言葉を放つ。
やがてカインは胸を貫かれたロラの前で跪いた。
呼吸はない。首筋に手を当てる――微弱ながら感じる拍動。
まだ生きている。辛うじて、ではあるが。
なら通用するはずだ。一度も使ったことがないが、つい先日自覚した新たな力を応用することで。
右手を迷うことなく穴の開いた胸へと添える。まだ暖かい血が手を汚し、そしてそれがまだ流れ続けている事に気づく。
カインは手への意識を強める。発現をしやすいように名付けた力は『
肘から先が熱を帯びる。それが水のように手の中へと流れていき、やがて手のひらから鈍い光が生まれた。
手が触れる腹部が僅かに弾むように動く。それを契機とするように、まるでそれは生き物のように肉が蠢き、大きく開いた穴を間もなく塞いでいった。
――同調。それは己の力や身体能力を道具や生き物に与えるものだ。武器に同調させ、己がまともに扱える程度に増強させることが主な目的として考えていたが、カイン自身の再生能力を対象に与える事も可能であることが証明された。
傷は塞がったが、呼吸はまだ止まったままだ。心臓は変わらず微弱な拍動を繰り返している。
カインは迷うことなくロラの口に己の口を重ねる。鼻を強くつまみ、息を吹き込む。それを何度か繰り返した後、ロラの心臓が一度大きく跳ねた。
ややあってからロラが激しくむせ込み、ぜえぜえと苦しそうに呼吸を再開する。
「……ふう」
荒れていた心中が少しずつ治まっていくのがわかる。
少しは落ち着け若造が。そう心の中に吐き捨て、立ち上がりながら大きく息を吐いた。
振り返った先に、男はまだカインを睨んだまま立っていた。
「んで、お前はなんなんだよ」
気配はいわゆるガイマそのものだが、外見や知能はその領域をはるかに超越している。
変異体だとしてもそいつはあまりにも何世代も飛び越しすぎている。それにガイマの類に人型の系譜は聞いたこともない。カイン自身の知識が浅いせいもあるかもしれないが。
最も、考えるよりも早いから単刀直入にそう訊いたのだが。
「貴様らの言葉で言えば、魔獣。貴様と同じだ」
「俺と同じ、ね。なんであれ、お前はガイマで間違いないってわけか。どういうわけでそんなナリで、利口になったかはわからないが」
「元来、貴様ら人間より古くから存在している。そうして貴様らのように我らを殺戮する存在もな」
男はアグルらと対峙していた時とは打って変わって、饒舌に語り始める。
「ここ数十年、貴様らの力は強くなりすぎた。あの女のように我らの真似事まで出来る様になってな」
「だから反撃に出たってわけか? 最近ガイマの動きがおかしいのもお前の差し金か」
「総意だ。我はその内の一人に過ぎない」
「ああそう」
それ以上の事に、特段興味はなかった。
「お前がこれからどうするつもりか知った事じゃない。だが敵意を持つなら俺は何度でも言うが」
カインは男を睨みながら続けた。
「俺は俺達に危害を加えなければどうこうするつもりはない。そこで寝転がってる男はあんたらを狩るのが仕事だったが、俺たちはただ降りかかる火の粉を払っていただけだ」
だから。
「今は見逃してやるよ」
まるで圧倒的優位。
当然のようにそう言い放つカインに、男は初めて感情を発露させた。
驚いたように目を丸く見開いてから、やがてそいつは肩を揺らしてくつくつと笑いだす。
最後に鼻を鳴らして、ようやく彼は言葉を返した。
「立場がわかっていないようだな」
ロラを殺されかけた。だが見逃してやる。そう言ったが、恐らく話の限りでは目の前の男とて状況は同じだ。
仲間を殺され、種として人間へ反旗を翻したのだ。
ならば心中がどうあれ、逃げるわけにはいかないだろう。
「わかんねえよ、お前らの事情なんてよ。知るつもりもねえ」
迷いなく拳銃を引き抜き、撃鉄を起こしながら『同調』させる。そのまま慣れた動作で男の頭部に照準、発砲。
弾丸はしかし、男の頬を掠めて過ぎていく。
引き裂かれた皮膚から滴る鮮血。その色は、妙に粘っこい赤黒さだった。
「逃げねえなら容赦はしねえぞ」
声に感情の昂ぶりはない。
だがその抜き身の刃物のような鋭い眼光には、決して油断や侮蔑などない確固たる意志があった。
どちらからともなく。
その発砲を契機に、二人は動き出した。
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