急襲された男 3
初めに稲妻が瞬いた。直後に地鳴りのような爆音が轟き、大地が砕け巨岩が周囲に飛来する。
フェルディが驚いたように嘶く。
目の前に突如として雷が落ちたのだ。
そして同時に、右の角に何かが絡みつく感覚。
慌てて目をやれば、角に長い布が絡まり始めているのが見えた。その先の地面に居るアグルの腕から伸びたそれが、にわかに鈍い光を放ち始めている。
アグルが腕を引く。そうすると大げさにフェルディの体が傾き、倒れまいとするその肢体がたたらを踏んだ。
そうしたフェルディへ追い打ちをかける様に、上空から何かが落ちてくる。
冷気を伴ったそれは刃のように鋭くとがった巨大な氷であり、同時に地表が蠢き隆起してまったく同じ場所へ、下方から巨大な岩が突出して肉薄する。
間もなく衝突。
大気を揺るがす程の凄まじい衝撃の波が大地を打つ。
辺りに岩と氷塊が散乱し――その中心にあった角はへし折れ、大きな振り子のようにだらんと垂れ始めていた。
アグルはそれを力任せに引き抜く。樹木をへし折るような音と共に、やがてその角はフェルディ自身から引きはがされた。
――フェルディの絶叫が、この世界全てに轟かんとするほどの大きさで響く。
右の角があった部分から噴水のように血しぶきが飛び、辺りを赤く染めていく。
「ちっ……鼓膜を破る気か」
興奮しているのか、フェルディは激しく頭を揺さぶり血だまりの範囲を広げていく。
アグルは角から包帯を引きはがす。それはまるで意志を持つかのように簡単に、また勝手に彼の腕へと巻き付いて戻っていった。
「これで大幅戦力減、ってとこかしらね」
不意に後ろから声がした。
振り返らずに、アグルはフェルディの出方を探る。
そして気づく。出血が早くも徐々に収まっていくのを。
傷口周辺の肉が蠢き、それをふさぐように覆っていくのを。
そういえば――と思う。
紙巻を吹かして神速の域にも達する拳撃の猛射を腹部に与えた。吹き飛ぶ時に出血が見えた筈だが、それがすっかりなくなっている。
傷が治るのが早すぎる。もっと早く気付くべきだった。
フェルディが立ち直るまで、そう時間はかからなかった。そしてその巨体がなんの予備動作もなくアグルへと襲い掛かってくるのも。
「っ」
アグルは短く息を吐いて跳躍する。寸での所でフェルディは彼の足元を過ぎる――が、その上空へ狙いを定めたように、過ぎ去ったフェルディの左の角が伸びた。
体をその場で回転させる。その最中に角が腕を掠めて弾かれ地面に落とされたが、まともに直撃するにはまだマシだった。
「――っ!」
すぐさま立ち上がる。同時に先ほど角を掠めた右腕が、前腕の半ば辺りに強い痛みを訴えているのがわかる。
表皮に傷があるかどうかは包帯のせいでわからない。だがその先、骨の様子は見るまでもなく折れているのがわかった。
舌を鳴らし、右腕の包帯を少し解いて腕を体ごと巻き付ける。動かないのならばこうした方がマシだ。
そんな事をしている間に、そうする時間を与える為にロラがフェルディの前に躍り出ていた。
突進してきたフェルディの肉体は、彼女が正面に翳す手の寸前で動きを止めている。再び、以前そうしたような透明の障壁を出現させていた。
そして動きが停止した隙を狙って、フェルディの足元の地面を隆起させる。だがそれは先ほどのように突出させ突き刺すような挙動はなく、急成長する植物の蔓のように素早くフェルディの全身に絡みつく。
唸り、身をよじる。だがその大地の重さにやがて膝を崩し、地面の中へと引きずり込まれていった。
やがて首から上だけを残して地中に飲み込まれたフェルディの姿は生首そのものだったが、あるいは趣味の悪い芸術作品のようにさえ見えた。
さらに頭を振り角を動かそうとする気配。
だがロラは予断なく、その頭部へ雷撃を落とす。
鋭く落ちた稲妻の一閃。
激しい音と共に毛皮を焼き、その対の眼球を沸騰させる。
死んだのか、あるいは失神したのか。
大きく開けられた口から垂れる唾液は黒く焦げ、ひどく生臭い匂いが周囲に漂う。
しばらく様子を見て、ぴくりとも動かないのを確認して。
ロラはそんな巨大鹿の前にたまらず膝をついた。
連続する超大な術の行使に生命力がこれでもかというほどにすり切れた。全身から汗が噴き出て、露出する皮膚には無数に血管が浮き出てドクドクと激しく波打つのがわかる。
喘ぐような呼吸を繰り返す中で、ようやくアグルが隣へと合流するのを見る。
「……ご苦労。お前のお陰で命拾いだ」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。ホントよ。まったく、あんた、あんなに、偉そうな、事――」
そこまで言って、ロラは額の汗を拭いながら大きく息を吸い込む。ようやく立ち上がり、軽い立ち眩みを覚えつつもその赤い双眸は鋭くアグルを捉えた。
「偉そうな態度だった割に、随分じゃない? ビビッてたあたしがバカみたい」
言われて、アグルはただ肩をすくめた。
そう言われる程の醜態は見せた。事実彼女が来てくれなければ、この事態がどういった形で収束するかはまったく予想がつかなかったのだ。
とはいえ、無論彼女とて一人でどうにかなる相手でもなかったわけだが。
術の力はやはり人智を超越した力だ。自らの腕の包帯を一瞥しながら、
「私はこれで撤退する」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。あのバケモノ、放っておく気⁉」
踵を返そうとして、声が返ってきた。
動きを止めて、アグルは訝し気な顔で答える。
「これ以上どうしろと?」
「このデカブツがあんなので死ぬわけないってわかるでしょ? アレはまだ生きてる。なんとかしなきゃ」
「それは私が判断する事ではない。ここまでしてやったのは、単なる善意であり好意だ。それ以上を求めるな。やるなら貴様一人でやればいい」
「――そいつはちょいと、非情すぎるんじゃないですかい?」
不意に男の声が耳元で囁かれた。
気味の悪さに思わず肩を弾ませると、隣の空間が大きく歪みだすのが見えた。
やがてそこに人影が生まれ、輪郭が生まれ、色が差され、そうして出現する。
ラウダ=リィン・ガウナー。青みがかった黒髪をオールバック風に掻き上げた、軽薄そうな笑顔が特徴的な青年だ。
白いシャツは腕まくりをしていて、ジーンズに、牛皮のチャップスという格好はどこかカウボーイ然としている。テンガロンハットでもかぶせてやれば、すぐに駆け出しのカウボーイになるだろう。
彼は最近よく行動を共にしている仲であり、今回も本当だったらすでに合流している予定だった筈だった。
何かを言おうとしたアグルを尻目に、ラウダはポケットから出したハンカチをロラへと差し出す。
「お美しいお嬢さん、大丈夫です――がッ!」
だがそれをロラが受け取る寸前で、アグルに蹴り飛ばされたラウダはハンカチごと横に吹き飛んでいく。
「ってえじゃねえか、何すんだこのヤロウ」
「貴様が予定通り来ていれば事態は迅速に収束していた筈だ」
そもそもこの地域の調査はラウダが担当していた筈だ。これほど巨大なフェルディを見逃すわけがないはずだ。というのを、ロラの手前アグルは飲み込んで堪える。
「今はソレじゃねぇだろ? こいつをどうにかするのが今の話だ。なあ先輩」
「フェルディの討伐は我々の今の仕事ではない。骨折り損だ、ただでさえな」
「おいおいそりゃあねえだろ。金になんねェからやらねえってか」
「ああそうだ」
正直な所、今は状況が悪い。
ここで仕留めるのが最善であるのはアグル自身わかっているが、また同様にこのフェルディの底が知れないというのもある。
ここで全滅のリスクを冒すよりは、逃げられる今、態勢を立て直すのが良い。
幸い被害は最小限で抑えられている。近くに人里はないし、肝心のフェルディもこのざまだ。時間は多少なりともあるはずだ。
どちらにせよ、アグルにもロラにも、これ以上先ほどの戦いをするほどの体力はない。フェルディが目覚めてジリ貧になる事が最悪の事態だ。
「貴様も逃げるといい。もうここには、貴様も私も、他に手を貸す相手がいないからな」
「倒せるチャンスに倒さずに、回復して、仲間を呼ばれたらそれこそ倒せるものも倒せなくなるじゃない」
「今この場に居る人間でそれが出来るのなら既にやっている」
アグルは普通のたばこを取り出し、咥え、火をつける。
溜息交じりに紫煙を吐き出し、続けた。
「あの男はここに来るのか?」
「……え、カインの事?」
「ああ」
「多分……だけど馬を飛ばしてくるだろうから、きっともっと遅いわ。少なくとも、今には間に合わないでしょうね。あたしだって
「そうか」
「なあ先輩、随分と弱気だな。実際アイツは真っ黒焦げで失神してる。この状況を見て、これ以上攻められないってのがわからねぇんだが」
「単純に、私自身が恐れてしまったのかもしれないな」
言われて考えたが、アグルにはラウダへの反論が全く浮かばなかった。
実際やってみれば、今の状況なら難なくフェルディの息の根を止めることが出来るかもしれない。
だが頭の中でシミュレーションする度に、そいつは即座に蘇り不意を突いてまったくの死角から、人智を超越した力で己らを返り討ちにしてくる。
この本能的な恐怖は決して間違ってはいない筈だ。アグルはそれを確信していた。
「じゃあ、アンタは逃げりゃいい。おれはそこのネーちゃんとやるぜ。おたくはそのつもりなんだろ?」
「……ええ」
表情を引き締めて全身に力を漲らせる。それがわずかに落ち着いた声色から、アグルと同様に尋常でない力を内包しているのが伝わった。
言葉を振られて、ロラは意を決したように頷く。彼らが何を言い合おうが、結果的にこのフェルディの討伐を協力してくれるのならばいくらでも力を貸そうと思っていた。
自身が感じている危機感は、きっとアグルと同じものなのだろうと彼女は思う。だからこそ、ここで決めなければならないという気持ちが強くなる。だから対照的に、完全に意気消沈してしまっているアグルの心中がわからなかった。
状況は良くなっている。その筈なのに、彼はまるでそれを実感していないような反応だ。
何かを知っているのか、感じているのか。あるいはラウダの言うように、気後れしているだけなのか――。
考え、だが結論が出ずに嘆息する。そうして深呼吸でもするように大きく息をする。
その空気の中に、酷い臭気のようなものが混じっていた。
息が詰まり、背筋が凍る。その臭気は彼らが良く知る瘴気、彼らの言葉にするのならば禍々しい魔力と呼ぶものであり――。
誰もが知覚することが出来なかった。
ロラの、アグルの目の前に立っていたラウダが突如として姿を消した。
それを理解した時にはすでにその姿は遥か彼方の地表で砂ぼこりを上げて倒れており。
彼と入れ替わるように、全身を深い藍色に染めた人型の何かが、そこに立っていた。
ロラの視界にはフェルディが映っていない。そして彼女自身、突然の事にそれから目が離せない。
対してアグルは、それを理解していた。
フェルディの頭が突如として割れ、その中から黒い影が飛び出してきたのだ。それはまるでそうする事が当然のようにラウダを殴り飛ばし、そこに立った。
わかるのはそれだけだ。
目の前のそれが何であり、何を考え、何をするつもりなのか、全くの既知の範囲外であり、すべてが未知だった。
ロラも、アグルもガイマに関しては造詣が深い。だがその両名とも、目の前の存在に対しての推測すら出来ていない。
動けない二人に対して、その何かも動かない。
一時間も二時間も、もしかすると数日間もそうしていたような気がする。
アグルの汗が額から頬へ伝い顎先から垂れる。たったその程度の時間が流れた時、そいつはおもむろに口を開いた。
「愚かなり」
その声が聞こえたのが先だったのか、後だったのか、彼にはわからなかった。
だがその声が耳に届き、頭が理解したその瞬間にはすでに、ロラの胸をその何かの腕が貫いていたのだった。
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