急襲された男 2
両腕を包む包帯が鈍く光る。その表面に、奇妙な紋様が文字列のように浮かび上がっていた。
アグルが地を蹴りごく低空を飛ぶようにフェルディと呼んだ超巨大ヘラジカへ、一つの呼吸も置かずに肉薄した。
包帯の光が強くなる。絞られた弓から解き放たれた矢のような勢いで、アグルは拳を突き出した。その表面がヘラジカの側頭部に触れる――瞬間、やがてその灯りは眩い輝きへと変化する。
接敵。
直撃。
衝撃。
その全ては恐らく誰の目にも同時だった。
衝撃が拳を起点に円錐状の暴風を巻き起こす。その少し後に、反対側の側頭部から一直線に一陣の風が吹いた。
フェルディはその赤い瞳をぐるんと上向かせ、白目を向きかける。だが、どすん、と強い踏ん張りと共に地面が大きく揺れ、踏みとどまる。
「っ!」
ありえない。考えながら、アグルは即座にフェルディから距離をとる。先ほどの風のような速さで、次の瞬間にはヘラジカの遥か後方へとその身を動かしていた。
どれだけ分厚い頭蓋骨を持っていたとしても、バカげた大きさの脳みそをしていたとしても、無防備にあの一撃を頭部に受けてまともでいられる筈がない。
考えている最中に、ふと己の傍らに強烈な殺気を覚えた。
ちょうど視界の死角となる斜め後ろ。アグルが捉えていた筈のフェルディは姿を消し、その直ぐ後に暴風と共に世界をかき消すような砂煙が発生していた。
自分の視線の先――エルが倒れていたであろう空間を一瞥してから、アグルは振り返る。
同時に角が鋭く、疾風のような速度ですでに眼前までに迫っていた。
アグルは諸手を上げて角を迎える。間もなく手のひらに触れたそれを力任せに掴み、強く踏ん張った。
一瞬で砂煙を体ごと、フェルディごと抜ける。だがそれに伴って足元からもうもうと煙が巻き上がった。
腰を深く落としてはみたが、腕力や脚力はともかくとして、大地がその衝撃を耐えきれない。
体ごと押し出される形となるアグルは、それと共に二本の足が地面を深く抉り轍を作る。
「――ふっ!」
力を出し切りほんの僅か、刹那程度の瞬間にフェルディの力が弱まるのがわかった。
アグルは右腕を上へ、左腕を下へと全力を込めて腕を体ごと捻る。同時に、その手が握っている角ごと、フェルディは容易く宙を舞った。
まったく最初と同じように空中で数回転ほどした後に、大げさな音を立てて地面にその巨躯を叩きつける。
「なんなんだコイツは……」
これほどの図体だ。力任せに倒してやれば、その自重だけでもかなりのダメージがあるはずだ。それなのにまともに喰らっている気配すらない。
まだかなり先で未だ倒れているエルに一目くれる。そこでふと気づいた。
そのもっと先から、馬で迫る誰かの姿があった。見覚えはなさそうだが、もしかするとこの男の仲間なのかもしれない。
回収してくれるのなら話が早い。まだ点に見えるほどの距離だが、こちらとて決め手はなさそうに見える。どちらにせよ時間を稼ぐしかないなら同じことだ。
アグルはポケットに手を突っ込んで目的のものを即座に抜く。紙のパッケージから一本の紙巻を抜いて咥え、マッチを靴底で擦って火をつけ、紙巻に移す。
じりり、と火種が徐々に手前まで燃やし紙巻を灰へと変えていく。多量の煙が口腔から肺へ、そして血中へと流れ――どくん、と心臓が一度大きく高鳴った。
全身の筋肉が強制的に稼働する。力が滾り、体中の血流が感覚で理解できるほどに意識が冴え渡る。
口元まで灰に変わった紙巻を口先で吹き飛ばし、溜め込んだ煙を一気に噴き出した。
いわゆるドーピングだ。
他の者に効果があるかは定かではないが、少なくともアグルにとっては最も効果的な身体能力増強法だった。
ほとんどの場合毒薬として扱われる薬品を紙巻に混ぜて作成したそれは、摂取するとすぐに効果を現す。
彼の目に映る全てのものの動きが停止する。そう思わせるほどに活性化した脳が、それに伴う強化を得た肉体が、その中で通常通りに稼働する。
――時間はない。
考える暇もなくアグルは駆ける。
フェルディはちょうど立ち上がったばかりだった。
刹那、肉薄。
鋭く撃ち放たれた拳が深くフェルディの腹部に食らいついた。
反応はない――正確に言えば、その攻撃が現実に反映されるほど時間が経過していない。
アグルは構わずさらに腕を振りぬき、放つ。拳が毛皮を打つ。
もう片方の腕で同じことをする。さらに繰り返す。やがてその風の止まった世界ですら、単純な反復はさらに加速していく。
拳を打ち込む腕の残像が、さらにもう一発加えるまで残っているのが肉眼で見える。
乱打。
連打。
ガトリングの猛射の如き連撃。
やがてようやく、その巨体がにわかに地面から引きはがされようとしている気配があった。
時間にして十秒足らず――だがこれまでだ。
最後に胸いっぱいに吸い込んだ空気を吐き出す瀑布と共に、全身の力を込めた右の拳を打ち込む。
腕の包帯は、ここに来て最大とも言える輝きを放っていた。
世界は同時に、時を取り戻した。
爆風。
衝撃。
その全てが大地へとアグルを縛り付ける様に真上から発生する。その全ては彼自身がやったことであり、気が付けば彼自身、その体の半分ほどが地面に埋まりかけている事に気が付いた。
そしてそれとは対照的に、フェルディの巨体は――そいつが先ほどエルにそうしたように、空高く吹き飛んでいく。その軌跡を描くように、一陣の鮮血が尾を引いた。
「はぁ、はぁ――っ」
地面から肉体を引きはがすようにして立ち直る。必死に空気を貪るように呼吸をするが、酸素が肺に入っていくような感覚がまったくない。だがそうする他に今の状況の打開法を知らず、激しく肩を上下させながら呼吸を繰り返す。
全身からどっと汗が噴き出る。
後ろを振り返れば、馬の距離が近くなってきているのがわかった。
しばらくして、少し遠くの方で爆発でもしたかのような地響き。フェルディがどこかに墜落したようだ。
額の汗を拭い、ポケットから紙巻を抜いて咥える。
日に一度以上の使用は組織から止められている。そんな事を思い出しながら、こんな酷い疲労感を伴うならそれ以上使う気はしない、とも思う。
大きな砂煙を遠くに眺める。呼吸はようやく落ち着いてきたが、極度の疲労感からか全身が細かく震えていた。
視線の焦点があわない。願わくは、この場に倒れこんでゆっくりと休みたい気分だった。
後ろの方で馬の嘶きが聞こえた。振り返れば、一人の男が必死にエルを抱きかかえ、馬に乗せているのが見えた。
短い茶髪の、真面目そうな顔の男だった。彼はアグルに気づくと、額に浮かべた玉のような汗を拭いながら言った。
「こいつは俺たちのリーダーなんだ。あんたが来てくれなければ、命はなかったはずだ」
咥えた紙巻を指で挟んで口から離す。
「そうか」
「あれはガイマよりもっと慮外のバケモノだ。あんたも乗るか?」
「バカ言え」
「……死ぬなよ。俺たちはホグランドのタイタン・ヴェナドってとこに居る。生きて帰れたら来てくれ、礼をする」
――タイタン・ヴェナド。記憶が正しければ、あの少年が居る組織だ。ここまで来ると随分と運の悪いところだ、と思う。
アグルはそれ以上は答えなかった。なんにせよ邪魔な死にぞこないを片付けてさえくれれば、それ以上の用はない。
男はまだ何か言いたそうな顔だったが、歯牙にもかけないアグルの反応に言葉を飲み込み、そのまま来た方向へと馬を走らせていった。
「……ふぅ」
しかし、本当に疲れた。これでフェルディがまったく平気な顔で戻ってきたものならどうしたものか――。
風が頬を切った。
否、遠くから鋭く伸びた何かが、頬を掠めたのだ。
それがフェルディの角であったことに気づいたのは、慌てて回避行動をとった後だった。
そしてアグルが転がった先に、再び見えぬほどの距離から矢のようにそれが飛来する。咄嗟に地面に手を突き、空中へと体を突飛ばす。刹那後には、先ほどまで体があった場所を角が貫いていた。
「くそっ――」
さらに体を反らし、反転。先ほどと同様に手で地面に着地し、弾き、回転するように回避を続ける。そのことごとくが、寸分の狂いさえなく数舜後に、刹那前の空間を貫いていた。
そんな法則じみたものを認識した瞬間、不意に地面が隆起した。
真下、ちょうどその空中で回避していたアグルの眼に飛び込んできたのは、地面から生えるように突出してきたその角だった。
もはや避けようもない。
途端に時間がコマ切れのようにゆっくりと流れ出す。
だがアグルはなすすべもなく、徐々に迫ってくるそれを眺めるしかなかった――が。
己の腹部に触れるか触れないか、そんな寸での所で爆音をかき鳴らしながらそれは動きを止めた。
否。正確には、行動を阻まれていた。
金属が擦れるような激しい音。伴って角の先は火花を上げながら、アグルの前で動きを止めていた。
それを目を見開いて信じられないように見ながら着地。そして追撃がない事を確認しながら身を翻した先に、やや背の高い赤毛の女が立っていた。
「捕まって」
そう言いながら女、ロラ・クラインは手を差し伸べる。その表情に余裕はなさそうだし、先ほどの攻撃を阻んだ物――恐らく術の施行によって出現した透明で強固な壁――を出し彼を助けた事に、彼女の目的は含まれているのかもしれない。
状況が違えば一も二もなく断っているが、今はどうにも分が悪そうだ。
警戒しながらアグルは彼女の手に己の手を乗せる様に添える。途端にロラはそれを力強く掴み上げる。
直後、その世界が一瞬暗転した。
奇妙な浮遊感の後、すぐに光が生まれる。
その次に見た景色は、そこからかなり離れた高台だった。
切り立った断崖。そこから見下ろす地面には、いくつかの血痕や窪んだり深い轍が出来ていたり、ひどく荒らされていた。
先ほどまで恐らく自分が居た場所だ。
「あの角、厄介よね」
再び咥えようとした紙巻が手の中に無いことに今更気づいて、自分がそれを忘れてしまうほどに追いつめられていたことを知る。
まるで以前からの知人であるようにロラは気安くそう言って、アグルは答えずに肩に掛けたままだったバッグから紙巻を一本取り出し、ふかしはじめた。
これは普通のたばこだ。すっかりカラカラになった口腔内のわずかな水分を、熱い煙が根こそぎ乾かしていく。
苦い後味。少しだけ疲労が紛れた気がして、バッグをそのまま足元に投げ捨てた。
「術が達者なようだな」
ようやく口を開いたアグルに、ロラは小さく頷いた。
視線の先で、巨大なフェルディはようやく姿を現していた。疾風と共に先ほどまでアグルがいた場所まで駆けてくるが、目的のものが見つからずに辺りを警戒している様子が見て取れる。
「第二回戦だ。いくぞ」
「ええ」
たばこをその場に捨て、アグルが躊躇いもなく崖から飛び降りた。同時にロラは、瞬時にその場から姿を消していた。
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