第三話 怒る男

急襲された男

 大変だ、と言う大声がカインの深い睡眠を遮りその意識を呼び起こした。

 慌てたようなエミリーの声がかすかに聞こえる。それをかき消さんばかりの男の叫びが、やがて扉を突き破って近づいてきた。

「カイン大変だ! エルたちがガイマに襲われた!」

 薄目を開けて声の方を見る。血相を変えたケニーだった。

「ガイマは僕らの担当じゃないだろ」

 前回ソレでひどい目にあった筈だ。報告に来るのはカインじゃなく、ガイマ担当の組合か軍のどちらかしかない。

「お前なら出来るだろ! 唯一の戦力になりそうなロラはもう先に出てるが、一人じゃ無理だ。助けてくれ!」

「小銭を惜しんでる場合じゃないんだろ、何してんだよスミスは」

「俺も掛け合ったが、お前に行かせろの一点張りだ」

「……なるほどね」

 カインはそこで、ようやく体を起こし上げる。唸りながら上肢を大きく伸ばして、凝り固まった筋肉をほぐした。

 まあ、この前芽生えた力を試してみるのも良いだろう。

 己がここに存在する意味――そしてカインとして生きている意味。それを見出す為には、恐らくカインを取り巻く人間たちも重要な筈だ。

 彼らの生き死にに、正直なところまだ興味はない。必死の形相をするケニーへ一瞥くれてから、改めてそう思った。

 エミリーの手前、無視するわけにもいかない。

 彼を動かすのはそれが一番の理由だった。

「じゃ、すぐに行こう。エルやロラがやられない内に」

「ああ。俺の馬に乗れ、すぐに行こう」


 馬はぜえぜえと息を荒げながら疾走する。周囲の景色が怒涛となって後ろへ流れていくのを見送りながら呆けていると、不意にケニーが口を開いた。

「信じたくはないが、ロラの言うことも理解できる」

 不意の言葉に、カインは少し肩をすくめた。

 ケニーの後ろに乗っているから聞こえないはずはないが、風に消されて聞こえなかったフリでもしてやろうかとカインはそのまま辺りを見たまま言葉には答えない。

 構わずケニーは言葉を続ける。

「今までのお前なら、慌てふためいて自分の力を過信しながらもすぐに着いてきてくれていたはずだ」

「……昨日の今日だ、この前死にかけたのが怖いんだよ」

「なんだよ、聞こえてるじゃないか」

 軽快にケニーは笑う。だがその横顔はまだ少し引きつっていた。

 彼は「俺の独り言だよ」と付け加える。

「対ガイマ戦はロラが一番良くわかってる。そんなあいつがあのウルスから逃げる事を考えてた――お前が一発でノしたあのウルスをな。あの時から、いつものカインとは少し雰囲気が変わったような気がしてた。言動は、恐らくお前自身が自覚してるだろ……ロラやスミスにも、詰められただろうし」

 疑っていないのはエミリーだけか。カインは口には出さずにそう思う。だが彼女とてつい先日、不意に核心を突くような事を言ってきた。

 あれから数日様子を見ていたが、それ以降普段と変わった様子はない――最も、彼女を慈しみ自立出来るまでは支えようと思うこの感情が、カインが持っていたものと同一だからかもしれない――が、油断は出来ない。

「スミスが言ってた、最近ガイマの様子が異常だって。そんな時に、お前が異様に強くなった……俺は思うんだよ、お前が救世主になるんじゃねえのかって。実際あの時マジで死ぬと思ってたのに、こうしてお前のお陰で生きてるしな」

「バカ言え。ありえないだろ、そんな事」

 悪魔と契約したんだぞ。そんな偽善めいた理由なわけがない。

「だから言ったろ、俺の独り言だよ」

 そんな言葉が最後だった。ケニーは馬を蹴り、さらに速度を上げる。

 馬体が大げさに風を切り、いよいよ本当にケニーの声が聞こえなくなってくる。

 どこまで行くのだろうか――呑気にカインは考えながら、周囲からやがて草木が失せ大地が徐々に枯れ、乾いていくのを眺めていた。


               ❖❖❖


 カナ・チャコはエル=リア・ドレイドの指示通り獲物を追っていた。

 今回の獲物は鹿だ。

 ただの鹿ではない。

 体長五メートルを超え、体重は一〇〇〇キロはゆうにあるだろうという、この周辺の主と呼ばれる超大型のヘラジカだ。

 カナの役割はエルが仕入れてきた最新型の軍用ライフルでヘラジカを狙撃する事だ。他のエルを含めた四人は彼の指示に従って、カナが待つ場所へ獲物を誘導する事。

 彼女が仕留め損ねたとしても、近くに居る四人がコンビネーションでトドメを刺す。いつもの流れだ。

 今日は日が出る前から動き出し、ホグランド州から北へしばらく進み、ノストリッシュ州に入ってすぐの荒野へとやってきた。

 カナが潜むのは切り立った崖の上で、誘い出されるであろう獲物の姿はどこから来ても良く見える。

 ――少し様子がおかしいと思ったのは、燦燦と降り注ぐ太陽光が容赦なく少女の身を焼き、額から一筋の汗が地面へと垂れた時だった。

「……なに、あれ」

 どこからか人の声が聞こえたような気がした。それに気づいた時、黒い影のような何かが視界を横切った。

 あわててライフルのスコープを覗き込むが、周囲には生き物の影はもちろん、何かが通り過ぎたような痕跡も見えない。

「いや――」

 微かに見える。赤い斑点が地表に点々と見えた。

 あれは血痕だ。

 なら。

 影が通り過ぎた方を注視する。やがてそれをスコープ越しに見たカナは、思わず絶句した。

 人だった。

 顔はもはや見る影もなくグチャグチャに潰れていて、腕と足が片方ずつ欠損している。それだけならただの不幸な誰かだったが――見覚えがある服を、それは着ていた。

 自身とお揃いにした白いジャケット。その背に特徴的な黒い薔薇の刺繍をしたのをよく覚えているし、彼女の肉眼が実際にその死体がそれを身にまとっているのを捉えていた。

 何が起こっているのか。そう考える事すらできない。

 頭が働かない。呼吸がままならない。

 動揺と、恐怖とがせめぎあい呼吸が浅くなる。どっと全身から汗が噴き出て、ライフルを構える腕が小刻みに震えて止まらない。

「リリー……」

 そう吐き出すのが、彼女の精いっぱいだった。

 そしてその直後に、崖上の己すらも震わせるほどの巨大な地響きが起こった。


 最初は巨大な岩かと思った――ウルスと出くわしたケニーの話に、さすがにそれは言い過ぎだと思っていた。

 エルはたった今、馬小屋ほどの巨大なヘラジカを見て、その例えは決して間違っていなかったと確信した。

 そいつは空を裂いて現れた。

 突風が吹いた――そう思った時にはすでに、散り散りに辺りを散策していたはずのリリーらしき何かが、自分の横を吹き飛んでいった。

 途中で何度か地面で弾み、その度に腕を、あるいは足が千切れて転がっていくのを見た。やがて遠くの方で転がって止まったソレは、辛うじて人の形を留めた何かに変貌していた。

 そしてその反対側には、見上げるほどに巨大なヘラジカの姿があった。

 瞳は赤く巨大で、それだけで己の上半身ほどはありそうだ。両側頭部に聳える角は人が数人束になってようやく同程度という程に大きく、そして歪で禍々しい形をしていた。

 ノストリッシュ州でガイマの生息が確認されたという情報は聞いたことがない。

 そして同時に、あれほど巨大な生物は、見たことも聞いたこともなかった。

「ほかの、みんなは……?」

 ヘラジカはこちらに気づいているのかいないのか、ただ悠然と立っているだけだった。

 どこから来て、なぜリリーを殺したのかはわからない。

 だがまだ己が殺されていない以上、ここから残る全員が生き残る術は絶対にある筈だ。

 初めに気づいたのが自分で良かった。そう思いながら、ヘラジカを睨みながらバッグの中を片手でまさぐる。

 目的のものはすぐに見つかった。それは拳ほどの大きい口径の拳銃――殺傷能力のない、弾薬と薬品を混ぜ合わせた発煙弾を発射するための装置だ。

 すでに弾は装填されている。これを使うべき時は一つしかない。そしてそうすべき時に事前に準備しておいたのが功を奏した。

 エルは片手をあげ、その装置を頭上高くに掲げた。迷わずに引き金を引く。

 バシュン。そう空気が抜けるような大きな音と共に、弾丸はもうもうと煙を吐き出しながら天空へと打ち出された。

 やがてそれが空中で爆ぜる。空気を、地面を激しく震わせる大きな爆音とともに、天空に真っ赤な煙が空の一部を覆いつくした。

 これが示す命令は、逃げろ、というただ一つの単純なものだった。

 装置を投げ捨て、すぐさまライフルを構える――そう考えた時にはすでに、ヘラジカの鋭い角が眼前にまで肉薄していた。

「――ッ‼」

 咄嗟に大きく飛び退る。同時に腕を前に突き出し、角を掴んで受け止める。激しい衝撃が両腕を砕き、腹部を貫いたが、

「く、そ――がッ!」

 まだ死んではいない。

 激しい風が後ろから吹き荒れる。

 まともに身動きが取れない。

 だが、まだ生きている。

 エルはその端正な顔立ちを苦痛と苦渋にしかめながら、折れた腕で構わずホルスターから拳銃を抜いた。手にしていたライフルはいつの間にか落としたらしいというのは、その時にようやく気が付いた。

 ヘラジカが怒涛の勢いでエルを突飛ばそうとする。その行動が続いている内に、エルはまともな照準などせずにがむしゃらにヘラジカの顔面目掛けて拳銃を乱射した。

 発砲の反動のたびに腕の骨が一本ずつ砕けていく感覚――不思議と痛みは、感じなかった。

 ヘラジカにとってそれは単なる鬱陶しい豆鉄砲だったのだろう。それは四本の脚で地面に踏ん張りブレーキをかける。その跡を深い轍が出来上がり、いななき、大きい動作と共に顔面を振り上げた。

 その勢いに抗う術を、エルは知らない。

 風圧と衝撃の束縛から解き放たれたエルは弾丸の如く空へと一直線に吹き飛ばされた。

 先ほど打ち上げた赤い煙が、やがて自分より位置を低くしていくのが見えた。

 あれほど巨大だった鹿が、通常の個体ほどの大きさに見え始めた――暴風がやがて弱くなり、空気が冷える。

 急激な気圧の変化で鼓膜が破れ、耳から脳を貫くような鋭い痛みが走った。

 魔獣とまで言わしめる程ではある。エルは場違いなまでに、ソレらが魔獣の名を冠する理由が理解できた。

「土壇場、だな」

 エルは己が限りなく窮地に立たされている事を知りながらも、徐々に心が落ち着いていくのがわかる。

 やがてその肉体が地に引かれるようにして落ちていく。胃の腑が浮く不快感と、その身が吸い込まれるように落下する浮遊感に酷い恐怖を覚えるが、

「キミは命の恩人だ、ロラ」

 まだ助かったとは言えない。だが少なくとも、落下死だけは免れる。

 彼女から教わった術が一つだけある。ごく簡単な、ほとんど使い道さえないような術。

 エルは小鳥が囀るような小さい声で詠唱を始める。同時にその術の成功率をあげるために教わった紋様を祈りながら宙空に指先で描く。その軌跡が光の粒子を伴って、やがて陣を作り出した。

 ヘラジカが大きさを取り戻す。その瞳は既にエルから離れており、興味を失っているようだった。

 地面が近づく。

(後少し――)

 鼓動が早くなる。

 ごつごつとした岩の表面が良く見える。

(もう少し――)

 緊張で息が出来なくなる。

 砂の一粒一粒が視認できるようになる。

(今!)

 エルは強く念じる。同時に、その身が炎に焼け焦がれるような爆発的な熱量に包まれる感覚に襲われる――瞬間、エルの肉体はその場から跡形もなく消えてなくなっていた。

 そこからほんの少しだけ離れた地面に、どすん、と尻餅をついた程度の衝撃と共に叩きつけられる形で出現した。

「はぁ、はぁ、はぁ……っ」

 貪るように激しく息を吸い込んでは吐く。破裂しそうなほどに心臓が短い間隔で強く何度も拍動していた。

 凄まじい疲労感。全身から立ち上がる力すら奪う。

 ――だが生きている。

 ロラから教わったのは、空間転移術だ。おとぎ話のようでバカバカしく思っていたが、それを目の当たりにしてから積極的に教わってようやく身に着けた。

 己を中心に五メートル程度だけ転移する術。言われたとおりに詠唱して、あるいは陣を描き、それが戯言ではなく実際に起こりえる魔法の技術だと信じることで発現する。

 実戦で、土壇場で使うのは初めてだったが、成功したようだ。

 が、

「ここからだよな……くそ」

 ヘラジカがエルを捉える。

 そいつが彼をどう認識しているのかわからない。だが少なくとも、自身が獲物を仕留め損ねた程度の知能はあるようだった。

 怒りなのか威嚇なのか、空気を震わせるような唸り声が低く聞こえていた。

 もはや立ち上がる気力がない。体力もない。体を起こすように支えている腕がぷるぷると情けなく震えているのを見るので精いっぱいだった。

 まだ生きている。

 正確には、まだ死んでいないだけだ。

 明確に今、未来が確定した。

 己は死ぬ。

 望むのは、あの発煙弾で仲間が逃げおおせている事。

 惜しむらくは、自分がそのうちの一人ではなかった事。

 ――ヘラジカはエルの状況を理解しているように、ゆっくりと歩みを進め始めた。

 一歩ずつ、その度に大げさな足音と共に地面が揺れる。砂煙が上がる。

 そうしてその頭がゆっくりと下がった。角が、エルの真正面で動きを止めた。

 額に銃口を突き付けられたかのような緊張感だった。

 額から流れた汗が頬を伝い、顎先から垂れる――同時に、引金が絞られる。

 空気の瀑布と共に角が迫る。恐怖に飲まれ、たまらずに目を瞑った。


 想定していた衝撃は、エルを少しばかり転がす程度の暴風だけだった。

 体が何度か転がってようやく落ち着く。体を上げることすら出来ずに、顔を上げて前を見た。

 そこには、両腕で巨大な角を受け止めている一つの影があった。


「だ……誰、だ」

 絞りだした声に反応するように、そいつは短く息を吐いて腕をひねる。それに合わせる様に、ヘラジカの巨体はいともたやすく回転しながら空中に浮かび上がり、少し先の地面に叩きつけられた。

 ヘラジカにとっての小さな、人間にとっては鼓膜を破るほどの大きな悲鳴が響く。ビリビリと肌を叩く振動を受けながら、そいつはようやくエルへと振り向いた。

「貴様に名乗る名はない」

 長い黒髪。若い相貌。左目を貫く縦一閃の傷跡。

 カインから聞いていたガイマ狩猟組合の男だ。それを認識したのが、エルの記憶に残っている最後の光景だった。

 安堵からか、体力の限界に達したのか、エルはそれを聞いて脱力し意識を手放す。

 男――アグルは鼻を鳴らして、改めて巨大なヘラジカへと向き直った。それは既に態勢を立て直して、怒ったようにアグルを睨みつけていた。

「これほど巨大なフェルディは初めて見るな」

 アグルは言いながら、深く腰を落とす。

 前回の調査であらかたのガイマは発見し、その動向は見極めた筈だったが。

「あの阿呆が、見落としやがって」

 脳裏に過るあの軽薄な笑顔が憎い。

 おかげで民間人に被害が出ている。

 ともあれ、またいつものようにガイマを狩り、組合へと報告するだけだ――。

 アグルは端的にそう考えて、間もなく地を蹴った。

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