今日は休む男
家に着いた時はもう明け方だった。
もう慣れたのか、エミリーはすっかり夢の世界へと旅立っている最中のようだった。
カインは荷物をそのまま床に投げ捨て、上着とズボンとを脱ぎ去って、そのまま寝台へと倒れこんだ。
リア州までをほとんど休みなく往復したうえ、アグルの相手までした。先日は長時間釣りに付き合わされたし、今朝は随分と早くから動いていた。
明日ロラたちに説明しなければならないだろうが――考えるのも面倒くさい。
カインはされるがままに、深い眠りの大海原へとその身を沈めることにした。
「兄さん、兄さん」
体を揺すり、己を呼ぶさえずりのような声がする。
「う、うん……」
「兄さん朝ですよ、朝ご飯何がいい?」
「ご飯……」
意識はまだ半分以上まどろみの中に沈んでいる。思考はままならず、食事どころではない。
「もう……少し、寝る……」
だから振り絞った言葉は一握りの意識と理性がなんとか仕事をした結果、かろうじてまともな言葉になったようだった。
「もー! お寝坊さん、遅くまでお仕事してるからだよ!」
「んー……」
頬を膨らませて腰に手をやるエミリーへ、返す言葉はもう諦めた。
カインはただやる気のない相づちと共に、この小うるさい小鳥を黙らせる方法を無意識に逡巡した後に、自分の隣をポンポンと叩いてみせることにした。
「今日は休みだ、エミリーも」
「もう、兄さんたら……」
言いながら、エミリーはゆっくりと寝転ぶカインの隣に腰を下ろす。
どちらにせよこんなに寝入ってしまっているなら、朝食を作っても仕方がないだろう。
両親が死んでからはお互い自立する為に寝床も別にしていたから、こうして一緒に寝るのも久しぶりだ。最も、昨夜はぐっすり眠ってしまったから眠れるかどうかわからないが。
エミリーは考えながらカインの布団に潜り込む。
少しの汗臭さと、懐かしいようなカインの体臭とを感じながら、彼女に向けているその背に少し手を添えてみた。
――暖かい。というより、熱い。風邪でも引いてるんじゃないかと思う程に。
そういえば彼に触れるのもかなり久々なんじゃないか、と思う。
最近の兄の様子は少しおかしい。少しというか、些細な、自分以外気づけないほどの小さな違和感。そういう事が多いような気がする。
基本的にはいつもの優しい兄だが、リア州の熊退治に行ってからそんな事が増えた気がする。それからずっと忙しそうだから、そういうのも関係しているのかもしれないが。
最も、そんな事は些末だ。
今はこの、ひと時の幸せを噛みしめよう。
目を閉じると、不思議と意識がまどろんでいくのがわかった。
安心感か、懐かしさか、その両方か。エミリーはそれに抗う理由もなく、眠りについた。起きた時、二人ともどうしようもなく幸せだったらいいのに――なんて、思いながら。
気がついた時、エミリーは少し高いところから何かを見下ろしていた。
意識はまるで寝覚めの良い朝のようにすっきりしている。肌を焼くような暑さをまず初めに感じていた。
あたりはドロドロとした赤い何かが壁という壁から垂れ流れていて、下に溜まっている。空間の中央に崖があって、その上に誰かが立っていた。
男が何かを喚く。その視線の先に、理解に難しいほど巨大な男が座っていた。
――瞬きをする。
瞬間、世界は急に暗転した。
今度は聞きなれた声が耳をつんざくほどの大きさで何かを騒いでいた。
あたりは鬱蒼とした森の中だった。
巨大な熊が誰かを踏み潰す。見た覚えがあったような気がするが、薄暗くて性別さえよくわからない。
やがて黒髪の――兄に良く似た――男が、熊に襲われた。
腹を爪で貫かれ、間もなく不思議な力で四散した。
叫ぼうとした。悲鳴を上げようとした。だが喉が潰れたように声が出ない。
全身から汗が噴出する。驚愕と、恐怖と、不安と、怒りとが入り混じる。今何を思い何を考えているのか、
――強く目を閉じる。夢よ覚めろと強く祈る。
また世界が暗転した。
今度は見慣れた部屋だった。キッチンのすぐ近くにテーブル。そこに座る男女二人。
一人は自分。だがもう一人は見知らぬ男だった。
黒髪で、無精ひげを構わず伸ばした男。ギャングか、賞金稼ぎか、そういった危なそうな風貌だった。
二人はまるでそこに違和感などないように談笑していた。
何が起こっているのか、何を見ているのか彼女は理解が出来ない。
夢のはずなのに、そのどれもが妙に現実味を帯びているような雰囲気だった。
単なる悪夢では片づけられないほど、強く印象に残る。
そんな妙な光景を、見たいわけではなかったが、見たくもないとも思わなかった。ただ視線が釘付けにされていて、目を離そうとすら考えられなかった。
そうしているうちに男が立ち上がり、兄のバッグを担いで外へ出る。
そこに居た自分は彼に手を振り、そうして宙に浮かんでいる己をじっと見つめだした。視線が交錯するのがわかる。
そうしている内に、窓から降り注いでいる外の陽の光が徐々に強く、間もなく空間をまばゆく照らし始める。網膜が光に焼かれ何も見えなくなった瞬間、
「――ッ!」
体に意識が重なる。肉体の意識が覚醒した時、エミリーは自分が汗でびっしょり濡れている事に気が付いた。
心臓がひどく早く鳴っている。息が苦しい。全身が震える。
そうだ、自分は兄と一緒に寝ていた筈だ。そう思い、隣を見る。が、そこにはただぽっかりと誰かが寝ていた跡があるだけだった。
「……夢、だよね」
エミリーは自分に言い聞かせるように独り言ちる。
ゆっくりと体を起こして、大きな深呼吸を何度か繰り返す。そうしている内に多少は落ち着いたが、腕から先の震えだけはどうしても収まらず、また全身を襲う疲労感は拭えない。
発作だ――最近は落ち着いていたのに。エミリーは思いながら、部屋を後にする。
自分の部屋に薬がまだ残っていたはずだ。部屋を出て廊下を歩く。何度か転びかけて、今の発作が異様に重く出てしまっているのがわかった。
部屋へ向かっている最中にふと、玄関が開く音がした。
カインが目を覚ますと、不思議な事にエミリーが自分の寝床に潜り込んでいた。
ひどく汗をかいていて、悪夢を見ているようだ。熱はない。発作を起こしている様子もない。
今日は働くつもりがないから、たまには適当に外で食事を買って来よう――そう思って外出したのだが。
帰ってきて食卓に肉だのパンだのを並べてはみたのもの、
「大丈夫か? エミリー?」
部屋から出てきたエミリーはひどく疲れた様子で、席についていた。
さっそく肉を齧るカインに対して、彼女は手を付けようともしない。すでに時間は昼を回っているから、空腹は感じている筈だが。
問いかけにも彼女はうつむいたまま答えない。
妙に重い空気がリビングにのしかかっていた。
「あの――」
不意にエミリーが口を開く。
「兄さん、だよね……?」
心臓が跳ねた。
彼女の言葉に、そう錯覚するほど鼓動が大きくなったのがわかる。
「僕が別人に見える?」
カインの意識と人格を強く意識しながら、彼はそう言った。
だがそれが却って違和感だったのかもしれない。エミリーは眉根をしかめて言った。
「うん」
「そっか」
口の中の肉は、もうすっかり味がしなくなっていた。
カインは肉をテーブルに置き、静かに息を吐く。
脳裏に浮かぶのはたった二つの選択肢。
誤魔化すか、真実を打ち明けるか。
――今日は休みだっていうのに、代わりとばかりに新たな問題がやってくる。
心の中で短く嘆息してから、カインはエミリーを見据えた。
「僕は――」
まだ死ねない。
「君の兄で、カイン・アルバートだ」
妙な強い意識が、己の意志を、言葉を遮った。
まだ死ねない。死ぬわけにはいかない。
エミリーの元を去るわけにはいかない。
仲間を見殺しにするわけにはいかない。
危うい敵を見逃すわけにはいかない。
だから――まだ、死ねない。
何者かの声が頭の中に怒涛となって流れ込んでくる。
ああ、そうだな。
この体になって、かなり好きにやってきた。恐らく敵も作ったはずだ。
ならせめて、その清算をしてからでも遅くはない筈だ。
今この肉体が生かされているという意味も、やがておのずとわかってくるだろう。
心の中で、何かが芽生えた気がした。
神妙なエミリーの顔を見ながら、この肉体に突如として活力が漲るような感覚があった。ひどく充実した――新たな力が、腹の奥底に滾る熱をもって全身に流れているような感覚。
確かにそうだ。
まだ死ぬわけにはいかない。
そう同調した瞬間に、その不思議な熱が右腕に流れていくのがわかった。
力が生まれた。無意識に、それをそう捉えていた。
――エミリーには彼の姿に、夢の中で見た男の姿をちらつかせていた。一瞬だけあの男が脳裏によぎる。
間違いない、のかもしれない。
カインはあのガイマに殺されて、別の何かが彼の体に潜んでいる。
そう、思っていたのに。
「君の兄で、カイン・アルバートだ」
穏やかな口調で、少し馬鹿にしたような顔つきで、優しい目で、彼がそう口を開いた瞬間――目の奥に焼き付いていたあの男の顔が、まるで最初からなかったかのように消えた。
驚いて目を見開く。カインはそう言って押し黙っている。
頭の中であの男の顔を思い出そうとするが、まるで濃いモヤに溶けていくようにまったく思い出せない。
「バカな事を言うなよ。エミリー」
カインはいつもの調子で、そう言った。
「……うん、ごめんなさい」
「体調、あんまり良くなさそうだ。そういう時って、色々考えちゃうよな」
「……そうかも」
「あとで先生のとこに顔を出してくるからさ、他にどこか具合の悪いとこはある?」
「ううん、大丈夫。ごめんね、兄さん……ヘンな事言って」
会話を繰り返していくうちに、声も、言葉も、表情も、今までのカインに相違ない事に気づく。
なんであんなことを口走ったのだろうか――心配させまいと食卓のパンを頬張って、むせこむ。
慌てたカインが背中をさすりながら、くつくつと笑う。それにつられてエミリーも笑いだした。
そのころにはもう、エミリーが見た夢の事など、頭の中には欠片も残っていなかった。
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