カイン・アルバートという男

 夢なんてものは見なかった。

 それを見たのは、もう何度前かの人生が最後だった。

 その時の名前は確かジャネン=オラトルス・フゥリーで、貴族の生まれだったような覚えがある。

 最後は吊られて死んだが――そんな記憶の回想はあっても、夢らしい夢というものは見たことがなかった。

 目を閉じて意識を消失する。

 そして次に気が付いた時には、朝や昼になっている。

 彼にとって睡眠というのは体を休める以外の意味はなかった。


 意識というものが芽生えた感覚を覚える。

 それを認識した瞬間、まるで海底に沈んでいたソレが急浮上するように大きくなっていくのがわかった。頭上のまばゆい輝きへ急速に近づいていく。やがてそれがそこに到達したかしないかという時に、肉体と意識とが繋がった。


                ❖❖❖


 意識が覚醒する。その感覚を理解して、チャールズ――否、カイン・アルバートは目を覚ました。

 体は堅い板の上に寝かされているようだ。布団は敷かれているが、綿がすっかりへたれていてほとんど意味を成していない。

 足、手、とを順番に動かして五体満足なのを知る。その過程で、左手を誰かが握っているのがわかった。

「兄さん……?」

 そこまでして、カインはようやく目を開けた。

 声がする方に目をやると、随分と可愛らしい少女が心配そうにカインの顔を覗き込んでいた。

「おはよう、エミリー」

 大きな藍色の瞳が溜め込んだ涙で揺れている。

 少し体を起こして、右手でガシガシと彼女の頭を撫でてやった。彼女が自分の事でどうしようもなく泣きそうになった時、カインはいつもそうしていた。

「泣くなよエミリー。僕はこうして生きてるだろ」

「で、でもっ、お兄ちゃぁぁぁぁん!」

 そんな優しい声がせき止めていた感情を崩壊させたようだった。彼女の涙はゆっくり一筋を頬に垂らしたのをきっかけにして止まらなくなって、カインの胸に顔をうずめる様にしてそこを濡らしだした。

 うわんうわん泣きだしたエミリーの頭を撫でながら慰める。

 なんてことないようにしているが――今までに知らない行動だった。

 それだけではない。カインから得た記憶は、今までのチャールズには総てなかった、ひどく平和で庶民的なものだった。

 煩わしい……とは思わない。だがそれに特別な感情も抱かない。

 良いも悪いもない――それより、目の奥には意識を失う前に遭遇したあの焼死体のグロテスクな顔面が焼き付いて離れていなかった。

 よしよし、と手でエミリーを慰めながら、頭で焼死体の事を、悪魔の事を考えながら、視線はなんとはなしに部屋の中を流れていた。

 部屋は随分と質素なものだった。

 この簡素で貧相な寝台は窓際に寝かされていて、すぐ近くには引き出しに穴が開いているナイトスタンド。その隣に小さなテーブルとイスが設置されていて、その向こう側に扉がある。

 ベッドの足元の角には少し背の高いクローゼットが置かれている。

 ただそれだけの、生活感のない部屋だった。

 窓の外はようやく明るくなってきたような鈍い光が差し込んできている。

 室温はやや肌寒いといったところだろうか。今は確か初夏だから、もう少しすれば汗ばむほど気温が上がってくるだろう。

 そんな所まで考えていた頃に、扉の方で音がした。

 ぎぃ、と蝶番が錆びた音で鳴く。扉が開いて、足音が現れた。

「声がしたから入ってきたけど……大丈夫?」

 凛とした声が次の音だった。

 目をやると、ロラはエミリーとカインとを見ながら、そう遠慮がちに言った。

 すらっと背の高い赤毛の女だ。長い赤毛を後頭部の高い位置で一括りにし、歩くたびに毛先が揺れる。

 長い脚は黒色の麻のズボンに包まれていて、裾は編み上げのブーツの中に仕舞われている。

 白いシャツに黒いベスト。男勝りな格好だったが、女性的な体つきが嫌でも強調されているようだった。

 髪のように紅い瞳が、懸念そうに揺れている。

 恐らくそれは、ここに寝ている男が本当にカインなのかということと、昨日の事をほとんど知らずに泣きわめいているエミリーとの事なのだろう。

「ああ。なんとか……昨日事はまったく思い出せないんだけど、何かあったのか?」

「お、覚えてないの?」

「うん」

 そんなやり取りをした所で、エミリーはぐすっ、ぐすっと鼻をすすりながらようやく顔を上げた。

 ロラはそんな彼女の隣にしゃがみこんで「あーあぁもう」と優しく微笑んで頬を添えてやる。

「せっかく可愛い顔が台無しよ、エミリー? ゆっくり深呼吸をして、ね」

 エミリーはそんなロラにコクコクとうなずきながら、大げさに肩を上下させて息を吸い込んだり、吐いたりした。

 呼吸が徐々に落ち着いていく。それと共に高ぶっていた感情が平静に戻っていったのだろう、

「あ、あのっ。か、顔、洗ってきます」

 そんなこれまでを見られたのが途端に恥ずかしくなったのか、慌てて立ち上がったエミリーは小走りで部屋から出て行った。

 それを見送ってからようやく腰を上げたロラは、そうしてから何も乗っていないナイトスタンドへとどっかり座り、足を組んで見せた。

 カインはそこでようやく起き上がって、寝台の上であぐらをかく。腕を組んで、ロラを眺めた。

「ケニーは?」

「彼は今、組合に行ってる。昨日の事……ホントに覚えてないの?」

「ああ、さっぱり」

 頬を引きつらせてはにかむ。そんなカインを見て、ロラは肩をすくめた。

「あんたからはいつもとは全く違う魔力を感じるのよ。酷く禍々しく、ガイマよりも強大な……」

「そうなのか? 僕にはわからないが」

「そっか」

 ロラは曖昧に笑う。彼女は立ち上がると、ゆっくりとベッドの上に片膝を載せて距離を詰めてきた。

 顔が近づいてくる。衣服から、甘い香水の匂いが鼻腔を掠めた。

 そして同時に、彼女の左手がカインの腰のすぐ横に落とされてほとんど密着するような姿勢で――口腔に、冷たく堅い、鉄の味がする何かを突っ込まれた。

 額を突き合わせるような顔の近さで、それを唯一遮るのは彼女がカインの口の中へと突き付けた拳銃だった。

 思わずぞっとした。

 久しぶりに、不意に殺される事への驚きに背筋を冷やした。

 彼女からは殺気は感じない。恐らく何を答えても殺すことはおろか、傷つけることさえしないだろう。

 この家にはエミリーが居る。それが一番の理由だった。

「イエスなら右手を、ノーなら左手を挙げなさい」

 もしカイン本人だったら泡食っていただろう。だから今こうして冷めた目で彼女を見返している事だけでも、疑いは強くなる一方なのかもしれない。

「あなたは地獄から来たの?」

 カインは首をかしげながら左手を挙げる。

「ウソ! 昨日言ってたじゃない!」

 またカインは首をかしげる。

「じゃあ、あなたは悪魔に憑りつかれているんだわ。なら――」

 錯乱しているのか? カインは考えながら、そっと引金に触れそうな彼女の人差し指に手を添える。

 びく、と彼女の体が驚愕に弾んだが、それに対する抵抗はなかった。

 ついでとばかりに拳銃を口から引きはがして、短く息を吐いた。

「悪魔ならキミの専門外だ。僕を殺したらきっとキミに憑りつくし――意味がないだろ、こんな脅しは。キミを納得させる材料を僕はもっていないのに、そうするまで終わらないのなら僕はキミらの前から姿を消すしかない」

 ロラは驚いたような、あるいは何を言われているのかわからないように、目を丸くして話を聞いている。

 カインはそれから、何があったのかわからないが、と添えて、

「疲れてるんだろ。きっと、僕も悲惨な目にあった……それだけの事を目の当たりにしたんだろ。なら、すぐに答えを出す必要はないんじゃないか? もし僕がキミの言うアクマって奴で、キミが僕を疑うのなら、多分もっとずっと前にキミを消している筈だ」

 僕だったらそうする。そう締めてから、ゆっくりと彼女の肩を押してのしかかる体を横にどける。

 カインはようやく床に立ち上がって、大きく伸びをした。

「これからエミリーと食料の買い出しに行くが、キミはどうする?」

 彼女は言葉もなく首を横にぶんぶんと勢いよく振った。

 そっか、とカインははにかんで背を向ける。

 扉のあたりまで歩いて、そうだ、と彼は振り返った。

 彼女は少し、怯えたような顔をしていた。

「僕は間違いなくカイン・アルバートだ。今までも、これからも」

 悪戯っぽく笑うカインは、年相応の少年のものだった。

 

                 ❖❖❖


  ホグランド州のフリメラというこの町には、毎日中央部で朝から晩まで屋台の市場が開いている。

 食料品はもちろん、軽食やちょっとした衣料品、装飾品などはそこに行くだけで一通り揃えることが出来る。

 自宅の周囲には家屋が点々としている。レンガ敷きの道路をしばらく歩いた先に噴水があって、そこから左に曲がった所にそれはある。

「そういえば、ロラは討伐隊の出身だったよね?」

 エミリーと手をつないで、道を歩く。

 カインが曖昧にしていた記憶は、曖昧なまま残っている。それを不自然さなく確認するのは至難の技だろうが、

「うん、そうだよ。さっきは、その話してたの?」

「ああ。詳しい話は省いてたけどね、昨日の事だから。きっと彼女が居たから、僕やケニーも生きてここに居たんだろうね」

 討伐隊――いわゆる軍隊だ。その中で特にガイマを専門とする部隊を、通称としてそう言っていた。

 簡単に言えば戦闘のエリートだ。組合に属している戦闘特化の兵隊なんか比にならない程の力を個人が有している。

 そんな彼女がなぜあの若さでここに居るのか、なんて話はまだカイン自身知らない。

 今となっては然して興味もないのだが。

 そんな話をしていると、やがて視線の先に喧噪が生まれているのがわかった。

 賑やかな市場がそこに展開されていた。

 様々な形、色とりどりの野菜や果物を載せている屋台や、軒先に衣類を吊り下げている屋台、店先で豪快に炎を使って肉を焼いている屋台。細い通路だけ開けて、それらは所狭しとその広場を埋め尽くしていた。

「兄さんはここで待ってて!」

「大丈夫、ついてくよ」

「ううん、邪魔だから」

 ふふ、と笑ってエミリーはカインから手を放す。なんてことなく言ってのけた彼女は、やがてその喧噪の中に姿を消した。

 カインは嘆息して、すぐ近くの壁に背を預けて腕を組む。

 エミリーも最近は随分と調子がいい。ただの健康体と見間違えてもおかしくはない。

 つい数か月ほど前までは散歩に出るだけでも肩で息をする程だったが――移り住んで来た医師が処方した薬が効いているのだろう。

 油断は出来ないが、このまま健康ですこやかに生きてくれればいいと思う。

 健気で真面目な娘だ。兄想いで、正義感も強い。頭も良ければ容姿も良い。

「お、アルバートじゃねえか」

 そんな事を考えていると、不意に視線の外から粗野な声が己を呼んだ。

「あれ、ガレンスさん。こんなトコで何をしてるんですか?」

「いやなあ、今日はちょっと嫁さんの機嫌が悪ぃみてえでよ」

 カインより頭一つ大きい背丈に、筋肉質な肉体。太い腕はもじゃもじゃの体毛に包まれていて、ひどく野性味を感じる。

 彼は禿頭を掻いてから、口元に蓄えた髭を撫でながら続けた。

「朝から大喧嘩よ。俺の肉の捌き方が悪いとかなんとかで」

 ガレンス。彼はカインが良く使う肉屋の主人だ。仕事で狩った動物を買い取ってもらったり、捌いたり、あるいは売ってもらったりしている。

「そりゃ災難ですね」

「ああ、これでガキが生まれたって考えたら……考えたくもねぇ」

 うう、とわざと身震いするふりをしておどけた後に、ガレンスはがはは、と豪快に笑った。

 彼の奥さんは彼より一回りほど年が下だが、彼より倍以上に気が強い。姉御肌というのだろうか、こんな野性的なガレンスが尻に敷かれているのを見るに、想像に難くない。彼の子を身ごもって随分とお腹を大きくしているから、彼女も落ち着いたと思ってはいたが……。

「でも早く戻ってあげないと、もっと怒っちゃうんじゃないですか?」

「ああ、まあそうなんだが」

 少し言い淀んで、

「あいつも俺も働き通しだ。たまにゃ、土産でも買ってやろうと思ってな」

「優しいじゃないですか。何か決めたものがあるんですか?」

「いや、それがなかなか、な。なんかねえか、そういうの」

「んー、でもモノよりも、ガレンスさんが考えて決めたっていう事の方が大事じゃないですか? 食べ物でも、装飾品でも」

「そうは言うがな、俺には難しいんだ」

 うーむ、とガレンスは悩まし気な声を上げる。そんな気色悪さに少しだけ顔をしかめて、

「無難に花とか、どうですか。ほらああ言うのとか」

 カインはなんとはなしに指をさす。少し近くの屋台はサンドイッチ屋だったが、店先のカウンターには清潔感を表すように瓶に花が飾られている。

 淡い黄色い花。質素だが、しっかりと存在感がある。

「花かぁ、花ね……ま、花でいいか」

「花良いと思いますよ」

「じゃ、そうするわ。あんがとな、坊主」

「ええ、それじゃ」

 しばし逡巡した後に、ガレンスは意を決した。そんな風に彼は手を振って、市場の中へと消えていった。


「あら、カインじゃない。いつ戻ったの?」

 今度は女の声が彼を呼んだ。

 視線を向けると、中年のくたびれた女性が幼い女の子の手を引きながら近づいてきていた。

「どうも、アーナさん。昨日の遅い時間です」

 彼女は近所に住む親子だ。女の子は人見知りなのか、いつも彼女の後ろに隠れて顔を伏せている。

「あらまあ、大変ねえ。あんまり無理しちゃダメよ! エミリーもね、大変だったらご飯くらい作りに行くから」

「ありがとうございます。今度、お言葉に甘えさせていただきますよ」

 そんな雑談を少しして、彼女は買い物があるのよ、と市場の中へ溶けていった。


「や、元気そうだね」

 今度は市場の中から出てきた男が声をかけた。

 丸眼鏡によれよれのシャツを着たのは、例の医師だった。

 両手に袋いっぱいの荷物を抱えながら、ゆっくりと彼は近づいてきた。

「ランディ先生、ご無沙汰です」

「今日は買い物かい?」

「ええ、そのつもりだったんですが、エミリーに邪魔だって」

「ははっ、元気そうでなにより。また来週あたりに薬を届けるが、ほかに変わりはないかい?」

「最近は随分と元気ですよ。僕より健康なくらいで」

「心配はなさそうだね。それじゃ」

「ええ、お気をつけて」


 エミリーが戻ってくるまで三〇分程度だったが、それまでにまた何人かの男女がカインへと気軽に声をかけてきた。

 ただ立っていただけなのに――随分と、人望が厚い。人気者という程ではないが、かなりの善人なのだろう。

 カイン・アルバートになった男は少しくたびれた様子で、楽しげに隣を歩くエミリーと共に帰路へとついた。

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