プロローグ2 業を背負う者

 この世に生まれ落ちた時から、自分は何かを守らなければいけないような使命感に駆られていた。

 その三年後に妹が生まれた。物心がついたときに、こいつの事か、と理解した。

 妹は生まれた時から体が弱く、五体満足ではあるものの、満足な生活を送ることができなかった。

 妹が十歳になった朝――つまり少年が十三歳と四か月くらいが経った日に、彼の両親は居間で首を吊っていて、二度と目を覚まさなくなっていた。

 あとから分かったことだが、彼の家庭は然程裕福ではない……正確に言うのならば極貧であったようだった。

 残されたのは二万サンという借金と、一か月分の保存食と、使い古された父の装備と、妹だった。

 次の日から少年は借金取りを顔見知りになって、そして人生が激変した。


「おはよう、エミリー」

 その日の朝の寝覚めはすこぶる良かったが、妙な違和感……胸やけのような、胃痛のような、そんな小さなストレスのような嫌な感じが何をしてもぬぐい取れなかった。

 大概、こんな嫌な予感は的中してしまうのだが――。

 いつものように起きてリビングへ行くと、妹はせっせと少年と自分の分の朝食を作っていた。

 挨拶をされて振り返った彼女は、薄く笑んで、

「おはよう、兄さん」

 ちょうど出来たらしい朝食を皿に乗せて、すぐ近くのテーブルへ静かに置いた。

 金糸のように透き通るほど美しい金髪は肩程まで伸びていて、鮮やかというよりは薄めのその顔は、何より猫のように大きな瞳が一番目立っていた。

 藍色の瞳はまるで宝石のように僕の姿を映している。体は小柄で、ひどく華奢だ。その腕を握れば力がこもりきる前に折れてしまうのではないかと思うほどに細い。

 すすけたローブから伸びた腕を見るたびに、少年はいつも申し訳ない気持ちになる。

 彼女の小さな口はそれからまた開いた。

「どこか痛いの?」

 どっかりと椅子に座ってテーブルに置かれた石のように堅いパンに手を伸ばした時、彼女は少年を見てふとそう言った。

 少年――カイン・アルバートはエミリー・アルバートとは対照的に短い黒髪で、彼女と同じ藍色の瞳をした男だった。仕事でいつも外に出ているから肌は日に焼けていて、そのせいか体つきはがっしりと筋肉に包まれている。

 精悍さとは対照的に、顔つきはまだ幼さも残っていて笑えば愛らしささえある。

 そんな顔が声色とは反対にしかめっ面だったものだから、エミリーは少し心配になった。

「うん。気にするほどの事じゃないんだけど、ちょっと胃が痛い」

「何か拾って食べたんじゃないの?」

 ふふっと笑うエミリーは、言いながら続けて食器を並べる。

 皿に乗っている朝食は薄いベーコンが一枚と、ずいぶん黄身の色素が薄い目玉焼きだ。

 フォークで黄身ごと目玉焼きを半分に割って、掬って口に押し込む。

 もぐもぐと租借しながら、カインはようやく反論した。

「だとするなら昨日の夕食だね」

「あっ! 兄さんそういう事言うんだ!」

 もう、と頬を膨らませたエミリーは、それからはにかむように笑った。

「もう、でもあんまり無理しちゃダメだよ?」

「ああ」

「今日はどこまで行くの?」

「んー、確かリア州まで行って熊狩るんだって。超デカい奴がもう五人くらい食ってるらしいよ」

「リア州じゃ、また二、三日くらいは帰ってこれないの?」

 リア州は彼らが住むホグランド州から馬で半日ほどの距離だ。州のほとんどが森や山岳で、野生生物が多く棲んでいる。

 カインの言うような熊みたいな話は珍しい事じゃないが、だからといって放っておくわけにはいかないのだ。

 最も、そんな所に住まなければいいのにというのが一番の感想なのだが。

「うまくいけばね」

 なんてことないようにカインは言って、パンを齧った。


                ❖❖❖


 馬に落とされたヤンマが最初の犠牲者だった。

 熊は恐ろしいほど巨体だった。誰もが最初、それは岩だと思っていた。

 昼間なのにいやに薄暗い森の中を進んだのがいけなかったのかもしれないが、だが”そいつ”がここに居たのだから正解だった――が結果的に大間違いだった。

 その岩のような熊にヤンマが近づいた瞬間、熊が咆哮を上げて、馬が嘶いて後ろ足で立ち上がった。振り下ろされたヤンマに、大きく振りかぶった熊の丸太のような太い腕が覆いかぶさった。

 同時に、ナイフのような大きさと鋭さを持つ爪が、簡単に彼の喉元を搔き切っていた。

 グオォ、と唸る熊は一番近くにいたカインを一瞥し、そうして彼の後ろに控える数人の仲間たちを見る。

 熊とカインの視線が交錯する。赤く鈍い輝きを放つ瞳だった。

 カインは即座に右腰のホルスターから拳銃を抜いて発砲。着弾。

 熊の右目が弾け、血しぶきを上げる。

「ガイマだ! みんな退け!」

 指定有害魔獣、通称ガイマ。通常の害獣より極めて狂暴であり、主に肉食で人を襲う。その凶悪さは、ガイマ専門のチームが組まれてようやく駆除出来るという程。

 彼らはただ害獣を駆除しにきただけだ。

 カインの二二口径の拳銃は熊の眼球を破壊することはできたが、おそらく致命傷を与えることはできていない。

「カイン!」

 仲間の一人が叫ぶ。同時にカインは馬から飛び降りた。

 その直後。

 熊が振り下ろした右腕から飛び出した三閃の衝撃が馬の肢体を三つに両断した。

 血の匂いがあたりに充満する――。

 熊はまだ勢いをつけて襲い掛かってくる気配はない。だが油断している様子でもない。こちらの出方を伺っているようだ。

 すでに仲間の何人かは逃げた。少し遠くのほうで馬の足音が徐々に小さくなっていくのがわかる。

 残っているのはカインを入れて三人、先ほど叫んだケニーと、その恋人のロラだ。二人とも害獣や犯罪者相手には手練れだが……。

 カインは腰に水平にしばりつけた剣のへと手を伸ばす。父の形見の剣だ。

 熊のガイマ、その多くはウルスと呼ばれる種だ。ほとんどの場合今目の前にいるソレのような巨体で狂暴で、分厚い毛皮と鋼鉄のような筋肉に包まれている。

 弱点は熊と同じく鼻だが、一撃で仕留めたとしても良くて相打ちだ。だから逃げる以外の選択肢はないのだが。

「ケニー、二人で逃げろ。僕が時間を稼ぐ」

 剣を抜いて構える。白刃は森に差し込む薄い陽光に照らされて、冴えた輝きを放った。

「術も使えないアンタが、どうやって時間稼ぐのよ」

 凛然とした声が、緊迫感をもって放たれた。足音が後ろからして、やがて隣に並んだ。

 反対側にも、散弾銃を構えたケニーが立っていた。

「僕よりツレを貶してやってよ。ガイマに散弾なんか効かないって」

「お前のなまくら剣だって効かねえだろ、バカ」

 そんなやりとりをしていても、張り詰めた空間は未だ弛緩しない。耳の奥から聞こえてるかのようなウルスの唸り声が、胃を締め付ける。

「みんなで死ぬ気かよ」

「いいや、絶対生き残る」

「そうよ、帰って依頼主ぶん殴らなきゃ。ガイマだって知らなかったわけないんだから」

 専門でない組合にガイマの駆除を任せるなんて完全に違法だ。悪戯に被害を増やし、ガイマを増長させるだけだ。

 専門チームに頼むのは、確かにカイン達に頼むより桁が一つ、二つほど料金が増えるが、それもガイマから採れる高品質の素材を売ればどうにでもなる額である。

 最も今、そんなことなどどうでもいいのだが。

「一つ、二つ、三つ、四つとてこの総てを――」

 ロラの詠唱が開始する。にわかに彼女の周囲が熱を放ち始めるのを感じた。

「はあ、死にたくない――」

 カインがぼやく。

 瞬間、状況が動いた。


 まず最初にウルスの巨体が立ち上がった。動かないカイン達にしびれをきらしたのだろう――両腕で地面を踏みしめた瞬間、巨大な地響きが発生する。

 同時にケニーが発砲した。まばゆいマズルフラッシュと共に、散弾がウルスに直撃する。

 弾丸は毛皮にめり込んだが、誘発したのはウルスの怒りだった。

 耳につんざく咆哮はこの世界全ての者に届いただろう。そう錯覚するほどの音の瀑布は、空気をビリビリと振動させていた。

 刹那、

獄炎ヘルファイア!」

 熱が急速にロラの手の中に収束する。熱は輝きを放ち、皮膚を焦がすほどの炎に姿を変える。

 彼女が叫ぶとともに手のひらを前に突き出せば、それが腕ほどに太い閃光となって瞬きの間も置かずにウルスへと迫った。

 大きく開いた口が仇となった。肉薄した炎の矢は寸分の狂いもなくその口腔へ着弾、そして同時に爆発する。

 ウルスの足踏みなど比にならない程の爆音が森全体を揺るがした。

 太陽がそこに落ちてきた、そう錯覚するほどの炎が天を衝く火柱となってウルスの巨体を包み込んだ。

 熱波が三人を襲い、三者三様にたたらを踏む。

 衝撃波が地表を撫でるように吹き抜け――。

「――っ⁉」

 カインが気が付いた時、炎を纏った巨体はすでに眼前にまで迫っていた。

 先に気づいていたケニーが即座にカインを突き飛ばそうとする。が、当たるはずだった肩は虚空を穿った。

 彼がそうした時にはすでにカインはその行動を察していて、

「……!」

 その意図を自分自身が理解するより先に、体が動いてウルスへと走り出していた。

 炎を纏った腕が前方に広がる視界全てを覆いつくす。

 時間がない。一秒がコマ送りにゆっくりと進んでいるのがわかるのに、最適解が一つも浮かばない。体も認識より早く動くことはない。

 だから予定通りに、言うしかなかった。

「逃げろ‼」

 言った瞬間に、鋭い三本の爪は己の胸から腹にかけてを貫いていた。

 それとほとんど同時だった。

 カインが眼前に迫っていた熊の顔面目掛けて剣を振り下ろす。

 鋭い刃はその炎に包まれた鼻らしき部分に突き刺さり、重い衝撃を腕に乗せる。構わず全身の力を込めて貫く。重さは少し軽くなり、骨を粉砕して鼻腔から上あごへ貫通したのがわかった。

 その刹那後に、ウルスによる攻撃を頭で理解した。

 すさまじい衝撃が意識をこそげ落とそうとしてきたが、歯を食いしばって辛うじての所で耐える。だがその直ぐあとから激痛が考える力を、全身を動かす筋肉の力を奪っていく。

 肉が焼ける匂いがした。

 頑張ろうと腹に力を籠めるが、途端に口腔内いっぱいに逆流した血があふれ出し、たまらず吐き出した。

 またウルスがグオォ、と唸り、頭を動かそうとする。だがそれを力で抑え込む。

 唸るが、動きは冴えない。ウルスとてかなりの痛手を負ったということらしかった。

 次第に炎が己を包んでいく。このまま動かずにウルスを止められれば、おそらく仕留められるだろう。

 だから、逃げてもいい。

 今ならウルスが彼らを追って、人里へ被害を出さずに済める。

 ――後ろの方から様々な罵倒や悲鳴が聞こえるが、カインは言葉として理解することが出来ない。

 ウルスはまだ、暫くは生きそうだ。力が徐々に強くなっているのを感じる。

 あるいは逆に、カインの力が弱まっているのか。

 もしくはその両方か。

「逃げろ……エミリー、を」

 頼む。

 そう、続けようとした時。

 死角から、何かが迸って迫った。

 どこかで音がした。

 派手に樹木がへし折れる音がした。

 唸り声がいくつも重なって聞こえた――気がした。

(ああ……嫌な予感てのは、やっぱ当たるもんなんだな)

 その全てを理解した刹那。

 飛来する三つの衝撃の刃が、カインの肉体を四散させた。


 ケニーはそれを見て、言葉を失った。

 囂々と燃え盛る炎の周囲に、対となる赤い瞳が、

「うそ、だろ……」

 無数に蠢いていたのだ。

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