運命は転々と
幕末の頃のコトリが生まれたのは天保八年。赤玉の縞蔵の娘として生まれ、女壷振り師『神算のコトリ』として極道の世界ではかなり名が売れてた。
そんなコトリの賭場に出入りしてる客の一人に新田三太夫さんがいたんよ。六十歳ぐらいの人の良さそうな爺さんだけど、なぜか気になってもてん。ある日の賭場がはねた後に、つい声をかけてもた。なんか妙にウマが合って話し込んで色々話も聞いたんや。
三太夫さんが賭場に来ている理由は隠居のヒマ潰しやなくてガチやった。仕事は円城寺家の家司。あまりにも家計が苦しくて、なんとか少しでも増やしたかったみたいやねん。円城寺家って言われてもコトリでもピンと来いひんかったぐらいやけど、ゴッサンのことやった。
京都ではお公家さんのことを御所さんって呼び、それが訛ってゴッサンと呼んでたんだけど、円城寺家はその中でも地下家。地下家もランクがあって催官人、並官人、下官人ってあるけど、円城寺家は下官人。そりゃ、知らんわ。
三太夫さんに誘われてお屋敷にも遊びに行ったけど、コトリの家の方がよっぽどマシやった。当主は滋麿さんっていうんだけど位階は従七位下。下官人は従七位下からやけど始まったばかり。滋麿さんは十九歳。お父さんが昨年亡くなり当主になったとこ。お父さんの葬儀費用で大ピンチってところかな。
お公家さんって煮ても焼いても食えへんのが多いんやけど、滋麿さんも、三太夫さんも絵に描いたようなお人よし。コトリがやってる商売が商売やったから、こいつらこの先、生きていけるんかと心配になったぐらい。
この円城寺家やけど、始まりは平安時代に遡るってなってるけど、実態はそんなもんやあらへんかった。下官人は株として取り引きされるんよね。三代ぐらい前に円城寺家の株も売りに出されて商家が買って、ボンクラ息子に与えてるんよ。新田さんはその時に実家から付けられた使用人の息子。
最初の頃は実家の援助もあって、そこそこやったらしいけど、実家の商家が火事で潰れてもたそうやねん。以後はガタガタ、貧乏なんてもんやなかった。そやから家司言うても三太夫さん一人しか使用人はおらへんかった。
当時のコトリらしくもなく同情してもて、三太夫さんが賭場に来たら、ほんの少しだけど勝たせてあげることにした。滋麿さんは二十二歳の時に結婚したんやけどこの時にはかなり勝たせてあげた。それがまあ、えらい感謝してくれて、三太夫さんだけやなく、滋麿さんにも福の神みたいな扱いにされたんだ。
当時の円城寺家にいたんは、当主の滋麿さん夫妻、三太夫さん、滋麿さんのお母さんと、滋麿さんが結婚して翌年に出来た綾麿さん。三太夫さんの奥さんはいなかった。既に亡くなりはったんか、逃げられたんかは言うてくれへんかった。
そうそうこんな貧乏な家に嫁が良く来てくれたもんやと思たけど、奥方さんは滋麿さんの四つ上。行き遅れもエエとこで、円城寺家ぐらいしか行き場がなかったと思てる。でも夫婦仲は良かったで。この奥方にも、滋麿さんのお母さんにも可愛がってもろた。
さてやけど時代は動乱期、コトリも否応なしに巻き込まれていったんよ。親父は小鉄親方の子分やけど、小鉄親方は会津家に関係が深い佐幕派ぐらい。鳥羽伏見の時に五百人の人夫を率いて参加したんやけど親父も加わってた。
結果は知っての通り徳川軍は大敗し、小鉄親方も大坂に逃げたし、親父は流れ弾に当たって死んでもた。京都も完全に薩長の支配になってもて、コトリも転々と身を隠してた。そりゃ、人夫とはいえ徳川軍に加わって親父が戦死してるからヤバイと思てん。
ただ小鉄親方はおらへんし、親父の一家も親父が死んで吹っ飛んだし、他の博徒に頼るにも冷たいもんやった。そりゃ、変なんに関わったら巻き添えくらうぐらいかな。行くところに困ったコトリは円城寺家に転がり込んだんや。
あんな貧乏な家に転がり込むのは気が引けたけど、それぐらい困ってた。そしたら三太夫さんも滋麿さんも歓迎してくれた。それどころか、
「親っさんお気の毒に。ここは腐っても公家の家。薩長も入ってこれへんと思う」
それでも念のためにって、円城寺家の娘に化けさせてくれた。あん時は嬉しかった。苦しい時の人の情けって、ホンマに感謝するんやで。もっとも食い扶持が一人増えたもんやから、ずっと腹空かしてた。
でも薩長の奴らはやってきた。薩長いうより長州やねんけど、どこでどう見つけたのかコトリに目を付けたんよ。要は側室というか、愛人というか、妾に欲しいぐらいかな。ここで滋麿さんと三太夫さんから相談を受けたんよ。
「円城寺の娘として、妾になってくれへんか」
博徒の娘やから無理やと言うてんけど、
「コトリはんは、ガマンもないからだいじょうぶ」
ガマンとは刺青のこと。ぶっちゃけの話として貧乏な円城寺家じゃコトリ一人食べさすだけでも大変だって。それは一緒に暮らしてみてお腹にしみてよくわかったもの。それとその長州藩士やけど、端くれでも少しは名の売れた維新志士らしくて、円城寺家がこの先も生き残るためには是非関係を築いときたいって。
最後はコトリが円城寺家の娘として妾になってくれたら、それなりのおカネが入って、ちょっとだけでも息がつげるって。まあ、売り飛ばされるようなものやけど、お世話にもなってるし、別に好きな男がいたわけじゃなし、円城寺家にいても飢え死にしそうだったし、出たからと行ってアテもなし。でも奥方さんと滋麿さんのお母さんは大反対やった、
「あれだけお世話になっておいて、妾に売り飛ばしてカネにするとはなにごと」
当時のコトリの立場やったら、遊廓に売り飛ばされても文句言えへんぐらいのとこもあるから了承した。もう一つ理由もあって、当時のコトリも若く見えこそすれ実は三十歳。三十歳いうても今の三十歳とちゃうで、大奥やったらエッチ終了にされてまう大年増。
そこから大急ぎで最低限の礼儀作法と教養を付け焼刃で教え込まれた。それぐらいはオンボロ公家の娘でも知ってないと、さすがにボロが出まくるからな。奥方も、滋麿さんのお母さんもゴメン、ゴメンいうて付き切りで教えてくれた。
その長州藩士やけど、どんな助平野郎かと思ってたけど、案外エエ男やった。いや当時のコトリからすれば玉の輿やったかもしれへん。奥さんは病気がちのうえに、ムチャクチャ仲が悪かったみたいで、東京にも出て来ない完全な別居状態。
コトリは正妻にこそなれんかったけど、実質的な本妻状態やってん。東京のお屋敷では奥様扱いだったし、他に紹介する時も妻として紹介してくれた。それだけやなくホンマにコトリの事を愛してくれてた。子どもは出来へんかったけど。思えばコトリの記憶のうちで一番正式の結婚に近かった。
戊辰戦争では上野の彰義隊ともドンパチやったけど、生き残ってくれて、その後はそれなりに出世、これまたそれなりに羽振りも良かった。そんな時に気になったのが仮初めでも実家の円城寺家。つうより滋麿さんや三太夫さんが気になったんよ。
明治二年に華族令が出たんだけど、何とか円城寺家も華族に出来ないかって。コトリのお願いだったし、旦那も実質的な本妻の実家が、華族になってくれた方が箔が付くと思てくれたみたいやった。ただ相当な無理はあってん。
地下家は原則として士族で、百七十家ぐらいあったけど華族になれたのは、ほんの片手ぐらいしかなかったのよ。そこに公家いうても一番下っ端の下官人クラスやろ。でも旦那は頑張ってくれた、これでもかの嘘八百を作り上げて、維新の隠れた功績をアピールしてくれた。時代がドサクサやったから辛うじて華族に潜り込めたんや。明治十七年に爵位制度が整備されて男爵家にもなってくれた。
滋麿さんや三太夫さんは喜んでくれたけど、やっぱり円城寺家は貧乏。時々、遊びにきてくれたけど、生活に困ってる様子はアリアリやった。滋麿さんにも娘さんがおってんけど、言ったら悪いがヘチャムクレ、あれじゃ嫁の貰い手はないだろうって感じ。
それでも家がリッチとか、権力者とかやったら、持参金目立てとか、姻戚関係を結ぶためでなんとかなったかもしれへんけど、華族言うても地下家出身で貧乏。
「で、どうなったの」
「どうもならへんよ。円城寺家が男爵になって四年後の明治二十一年にコトリは死んじゃったもの」
「そっか、五十歳になるんだ」
当時のコトリは神の自覚も記憶の継承もなかったから、そこでオシマイ。まあ数奇な運命だったとしてもエエかもしれへん。極道屋の娘で生まれたのに、最下級貴族とはいえ円城寺家の娘に化け、これが長州志士の妾から本妻扱いになったもんな。
それにしても懐かしいな。小鉄親分や万吉親分、滋麿さんや三太夫さん。もちろんコトリを愛してくれた長州志士上がりの夫。もう会えるはずもないけど、
「ところで円城寺家ってまだあるの」
「ユッキー、ちょっと調べといてもらってもエエか。もし今でもあって、困ってたら恩返ししたいし」
「イイよ。調べさしとく」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます