この世界で、彼女の死だけが歪んでいる
あいうえお
この世界で、彼女の死だけが歪んでいる
一ヶ月前から、この世界は狂っている。
妹の部屋の扉をノックする。
「鈴、起きないの? もう七時過ぎたよ」
返事がないのは何時ものこと。裕は嘆息して踵を返す。一階に降りると両親は既に席に着いていた。
ダイニングテーブルの上には四人分の朝食。斜め前の空席を見て裕は僅かに表情を曇らせる。それに気づく人は誰もいなかった。
マグカップを手に取り、椅子を引く。
「おはよう。……あら、鈴は?」
「声掛けたんだけど、返事はなかったよ」
ぶっきらぼうに言って、マグカップを傾けた。寝ぼけた頭を覚醒させてくれるブラックコーヒーのその偉大さに裕はそっと笑みを零す。
スーツ姿の父が新聞の隙間から顔を出す。
「寝かせときなさい。きっと昨日も夜遅くまで勉強していたんだろう」
「鈴はほんとに頑張り屋さんだわ」
母は裕の方に目を向けた。
「裕も少しは妹を見習いなさい。毎日十一時過ぎに帰ってきて、一体どこで何してるの?」
「散歩してるだけだよ」
「散歩って、それじゃあ答えになってないわよ。どうして何も教えてくれないの」
幼い子供に言い聞かせるような声音で、母は問うてくる。
心配そうな視線に気づかない振りをしてバターのたっぷりな食パンにかぶりつく。はあ、と母の大きな溜息が聞こえてくるが無視した。父はこの件に関してはスルーを決め込んでいて、何も言わない。
急いで朝食を掻き込んでから席を立つ。皿を片付けて二階に通学鞄を取りに行く。妹の部屋の扉は依然として閉まったままだ。
一階に降りると母がキッチンで片づけをしていた。手を付けられていない妹の分の朝食をゴミ箱に入れて皿を洗っている。毎日のその光景に裕はため息をつく。
父はもう家を出ていったらしく、その姿は見当たらなかった。
「行ってきます」
並べられた二つの靴のうち男物の靴を履いていると、母がリビングの扉から顔を出した。
「忘れ物はない?」
頷くと母は満足そうに微笑んだ。
「じゃあ行ってらっしゃい。裕」
その言葉に何も返さず玄関の扉を閉めた。ドアが完全に閉まったことを確認してから、裕は全力で走って最寄り駅のトイレに駆け込む。乱暴に個室の鍵を閉めて朝食を吐き出す。……気持ち悪い。
代わり映えしない日常。誰も居ない部屋の扉をノックする習慣。五年前に死んだ妹の分まで用意される朝食。既に存在しない妹をいる者として扱うあの家——いや、死んだはずの秋月鈴を生きているかのように扱うこの世界全てが気持ち悪くて仕方なかった。〝鈴の死なない世界〟を祈った本人であるはずの裕にとって、ここは地獄以外の何物でもなかった。
一年前、当時中二だった妹の鈴が交通事故に遭って命を落とした。可愛がっていた子供がいなくなったことを受け入れられず、母は精神を病んでしまった。父は仕事により一層打ち込むようになり、家庭に目を向けなくなった。そして裕はカーテンで陽の光を絶った部屋に引きこもって、毎日毎日存在するはずもない神様に祈っていた。
どうか妹を生き返らせてください――と。
妹の死から十一か月と二日が経ったある日、部屋で眠っていた裕は夢のなかで異次元の存在と出会い言葉を交わした。ソレは神と呼ぶにはあまりにもおぞましく、悪魔と呼ぶにはあまりにもうつくしかった。
ソレは言った。そなたの願いはなんだ。
裕は答えた。妹の死をなかったことにしてくれ、妹が死なない世界がほしい。
どうしてソレが自分の願いを叶えようとしているのかはわからない。でもそんなことはどうだっていい。鈴さえ死んでいなければ自分たち家族は壊れずに済むのだから。
ソレが裕の言葉に頷いた。よかろう、我に贄を捧げる限りその願いを叶えてやる、対価は五人だ。
そこで夢はぷつりと途切れ、そうして狂った世界ができあがった。〝鈴の死〟という認識だけが覆された世界が。毎日五人の命と引き換えに維持される世界が。
呼吸が落ち着くのを待ってからトイレの個室を出る。駅のロッカーに学生鞄を突っ込んで、学校とは反対方向の電車に乗り込む。懐に入れたナイフが心臓の拍動とともにわずかに動くのを感じ取り、裕は拳を握りしめた。
……この世界で一番狂っているのは、気持ち悪いと思いながらもこの日常を手放せない自分なのかもしれない。
この世界で、彼女の死だけが歪んでいる あいうえお @re-na
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