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京都府京都市左京区、丘野木美術大学。
京都の南東に位置する丘野木山を切り崩し、山一つ丸々を大学の保有地としているため、広さと自然だけは絶対的に確保している。広大なキャンパスの四分の三はうっそうと生い茂る緑だが、 旧京福鉄道、現在の
叡山鉄道沿線に立地しているため、京都駅や四条といった市街地へも三十分足らずと、交通の便は悪くない。
1961年、元は短期大学として開学し、大学の理念である「自由創造」を幻想だとする学生運動によって、かつて校舎の一部が封鎖されるなど、あれやこれや込み入った歴史はあったらしいが、今では無事、芸術・デザイン・建築・メディアコンテンツの四学部を柱とする四年制へと改変している。
交換留学生も含め、全国から集まる学生の数は四千名以上。
年々減少傾向にある受験者数を獲得するため、目新しい学科の新設を続け、いま一時的
に注目されている著名人の多くを客員講師として招き入れ、大学の方がやや迷走しているきらいはあるが、それでも、美大ならではの自由さと鷹揚とした気風、京都という土地柄から、伝統工芸の現場や海外との縁故に強みを持つ大学である。
「おまえの写真はなあ、ただの記録写真やねん。芸術でも何でもない」
造形棟4号館。103教室。
「それも阿呆みたいに空ばっか撮りよって。おまえは女子高生か?」
ただの選択授業で、なぜこうもボロカスに言われなければならないのか。
周りの学生が失笑し、インテリアデザイン科のマドンナ、牧村さんも、隣の女友達と目
を見合わせて笑っている。
教室は、いい感じに混んでいた。隣の席を荷物置きにする学生は一人もおらず、生徒同
士が間に一つ空席をつくったりもしていない。ほぼ満席と言える。ただ講堂ではなく狭い教室なので、混んでいると言っても、俺と目の前に立つ教員を注視しているのは、せいぜい四十名程度だろう。
だが、そんな中でもさらし者になるのは極力避けたい。これが『君の写真は素晴らしい
!今すぐアルテ·ラグーナ国際美術賞に出品すべきや!』とかなら、衆人環視も大いに歓迎するのだが。
「百歩譲って、被写体の空はええとしよう。しゃーけど、このフレームの端にチラと写っ
とる邪魔でみっともないだけの屋根の一部は何や? 何の意図があって、このコンクリートは画面上に写り込んどる?」
木曜三限の写真表現論。
この講義の受講を決めたのは、写真の勉強をしていると格好よく見られそうだという安
易な理由からだった。ノートと壇上の教授を前にし、ひたすら眠気と闘う必要はない。適
当に写真を撮るだけでいい。楽そうな授業だと思ったのは事実だ。
これはその報いか?
もし、時間割申請のパソコン画面に向かい、この講義名をクリックしようとしている過去の自分と交信できるなら、この授業だけはやめておけと忠告してやりたい。これならば月曜一限の西洋法規学概論の方がまだマシだった。
「おまはシャッター切る時、何も考えへんのか? 構図、アングル、露出、被界深度」
今、いち学生に過ぎない俺に大人げない講釈をしている教授の名は滝川吉樹。NY のウ
イツトニー美術館に作品を購入されたことで、日本でも近ごろ脚光を浴び、今やその世界では知らぬ者はいないとされる写真家である(俺は知らなかったけど……)。
今年の後期から客員教授として招かれ、したがって友人や他の学生にこの講義の評判を聞くことはできなかった。その結果がこれだ。
とはいっても、俺以外の学生達にとって、滝川教授の評価はおおむね良好だ。授業の人
気も悪くない。
ただ、どういうわけだか絶望的に、俺とこの教授の馬が合わない、というだけだった。
もう目の敵にされていると言ってもいい。他の学生だと二、三のお小言で済むところが
俺の場合はその十倍。
この授業では一週間ごとに撮りためた自信作を発表することになっているのだが、俺が
持っていく写真にだけ、毎週決まって滝川教授の非難、否定、罵詈雑言が作裂する。他の
女子生徒のゴテゴテとしたネイルのアップ写真はよくても、俺の空はダメらしい。
目の敵というより、これでは親の敵だ。 残念ながら、俺はあんたの母親の名前すら知らないぞ。
「そんな高価で高性能なプランドもんで撮ったら、そりゃあきれいな写真は出来上がるわ
。この川なんて、水滴一粒一粒の動きまで鮮明に写っとって、ほんまええ仕事してるわなあ──カメラだけは」
俺の手元にはズミクロン 50ミリレンズを装着したライカ R6.2 があり、柔らかい曲線を描く黒一色のフォルムに、おなじみの赤いマークがその存在を主張している。
授業では、何で撮るかの決まりはない。デジカメでも、スマホでも、インスタントカメ
ラでもいい。教室の横には一応暗室もあるのだが、デジタル化が進むこのご時世、生徒の
ほとんどがデジカメを使用している。クラシックカメラを愛用している俺も、技術と利便性と経済的な問題で現像は街のプロ任せだ。
だから、それほどフィルムにこだわりを持っているわけではないのだが、男なら一生に
一度はライカを持ちたいという欲求があった。
大学の長い夏休み、バイトを二つ掛け持ちし、朝から晩まで働いてやっと手に入れたの
だ。この大学半年分の学費より、俺の 1K アパート一年分の家賃より高い値で、確かに学
生には警沢すぎる一品だが、俺が俺の金で何を買おうと勝手だろう。文句あるか。
──あるらしい。滝川教授の唇が縦に横にと伸び、時折窄まるが、決してそのまま閉じ
てはくれない。
「モノクロのフィルム使たら、格好いい写真が撮れる思たんか? 山田」
「……」
「今どき三歳児でもスマホ操って写真くらい撮りよる。猿だってシャッターボタンを押す
ことは出来んねんぞ、山田」
「……」
「赤いコーンと赤い車を対角線上に写して、同色の赤で揃えたつもりやろうが、こういっ
た小細工も見え見えで鼻につくんや、 山田」
「……」
絞り、シャッタースピード、露光。主題、構図、アングル。
考えろとしつこいくらいに説教しておいて、意図して撮れば小賢しいと批判する。いったいどっちなんだ。
「まったく、フィルムと現像代の無駄やな。おい、聞いとんか、山田。──山田一郎」
いちいちフルネームで呼ぶんじゃねえよ。あぁ、また牧村さんに笑われてしまった。
そう、 山田一郎。市役所の提出書類や定期券売り場の購入用紙で記入例として使われていそうな何の工夫も捻りもない、自己紹介の時ちょっと一言付け足さなくては次の趣味の話には移れない、かえって面倒な──といっても『長男だから』という本人にしてみれば悲劇的な重大事なのだが、赤の他人からしたら、くだらないどうでもいいような小話にもならない理由の──平凡でひかえめな名前。それが俺の名だ。
写真の批評に乗じて、毎回お約束のように名前を冷やかされるものだから、俺が目の敵
にされているのはこの名前のせいなのでは、と八つ当たりにも等しい被害妄想まで出てく
る始末。
俺は産まれてからの二十一年間、ずっと自分の名をひかえめで凡庸だと思って生きてき
たが、病院やら教習所やら教科書やら、日本のあらゆるところで乱用されていそうな知名
度の高さに目をつけられたのではないだろうか。お父さん、お母さん。「もろ当て字で誰も読めねーよ」っていうような、世界に一つだけの名前じゃなくていいから、もう少し凝った名前では駄目だったのでしょうか……。
いや、待てよ、と思う。ありふれた名前が悪いというものでもない。活躍し、その名を
特別なものとしている著名人は多くいる。例えば「芸術は爆発だ」との名言を残した前衛
芸術家は、凡庸な名前だからこそ、その奇才ぶりがより際立っているとも考えられる。つ
まりはギャップだ。
それかもしくは、登録名を変え、一躍したプロ野球選手のように、本名を封印してしま
えるほどの大活躍を見せるとか……。
だが、俺はまだその域ではない。全然まったくかすりもしない。この名前を生かすこと
も、殺しきることもできていない。
それが、山田一郎たる今の俺だ。
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