砕石 作・長尾義明
土曜日。初老の牧師が牧師館の書斎でひとり、原稿の最終確認を念入りに行っていた。礼拝は明日である。牧師は、説教の結びとなる祈祷の言葉を、小さく声に出して一読し終えると、座ったまま大きく伸びをした。
実は祈祷の内容は、まだすべて決まったわけではなかった。しかし牧師は、もう一度椅子に座りなおすと、原稿をきれいに二つに折って、引き出しの中へしまった。いつものことである。牧師は祈祷の最後に、礼拝本番、その場で考えた内容を入れ込むことにしていた。それは過去の例で言えば、雨が降った日に、教会を後にする人々の帰路の安全を願うものであったり、昼の愛餐会のメニューがカレーライスであることを明かして、子供たちを喜ばせるものであったりした。やはり今回も、牧師は、原稿を明日の礼拝の場で完成させるつもりでいたのだった。
密室の書斎に、雨音がじわりと外から浸みた。初夏の夕立である。
牧師は窓のそばに立って外を眺めた。淡い灰色の光のみずたまりが、牧師の足元を濡らした。
書斎の中が暗いので、ガラス越しに外の様子をはっきりと窺い知ることができる。
教会の庭の芝生が、黙って雨に打たれている、その隣には、ここ数週間、ほとんど空のままの駐車場が見えた。もっとも、駐車場が空になってしまった大元の理由は、この狭い教会の敷地の中に見つかるものではなかった。それは、もっと大きな、この世界全体のかつてない変容ぶりに起因する現象であり、さらに言えば、その影響を受けたのはこの教会の駐車場だけではなかった。
不意にチャイムが鳴った。
牧師は玄関のドアを開けた。少女は、牧師を見上げて、小さな声でこう言った。
「ケガしちゃった。」
見ると、少女の膝にはわずかに血がにじんでいた。おまけに、髪はびしょ濡れだった。牧師は驚いたが、手当をしてあげよう、と言って、すぐに少女を招き入れた。
少女は母親に連れられてよく教会へ来る子で、教会のすぐ近くに住んでいる。度々牧師館へ遊びに来ては、彼に相談ごとを持ちかけるのだった。
傷に絆創膏を貼りながら、牧師はやさしい声で少女に尋ねる。
「一体、何をしていたんだい。」
少女はタオルで、水の滴る二本のお下げを拭きながら、元気のない声でつぶやいた。
「そこの駐車場で遊んでいたの。それで、転んだの。」
「おや、こんなに雨が降っているのに。」
「さっきまでは降っていなかったのよ。先生、知らないの。」
「知らなかったなあ。」
牧師はにこやかに言った。絆創膏がピタッと肌についたのを確かめると、牧師は、よいしょ、と立ち上がった。
「ミルクに蜂蜜を入れてもいいかい。」
と牧師。
「うん。」
少女の頬に、ほんの少し赤みが戻った。
牧師と少女は台所のレンジの前に並んで、二個のマグカップが、レンジの中でうおーんと唸っている音を一緒に聴いた。
「教会のお仕事は、お休みなの?」
少女は口を開いた。
「いいや。」
と牧師。
「毎週日曜日に、これまで通り礼拝をしているよ。パソコンを通じてね。」
「ああ、そっか。この前お母さんが、リビングで観ていたやつね。オンライン礼拝のことね。」
「よく知っているね。そうだ。オンラインだ。」
牧師は微笑んだ。少女は呆れたように言った。
「せっかく、教会には誰も来ないのに。ずっとおうちで寝ていたっていいのよ、先生。」
「それはいけないな。私には私の、務めがあるからね。」
「先生は真面目なのね。」
「君にはないのかい。君の務めは。」
「務め。」
少女は牧師の言葉を繰り返して、考え込んだ。そして言い放った。
「ないわ。何にも。」
「おや、果たしてそうかな。」
牧師はそう言って、うふふと笑った。少女は不思議そうに牧師の顔を覗き込む。
ミルクはまだ温まらなかった。少女はじっと自分の膝を見つめる。
「どうして駐車場の砂利は、あんなにごつごつしているの。転んだら、危ないじゃない。」
牧師は、少女がすっかりいつもの、ちょっと大げさな感じの口調に戻っているのに気が付いて、笑みを浮かべた。
「あれは砂利ではないよ。」
牧師は言った。
「サイセキというんだ。」
「サイセキって何。」
「サイセキは砕いた石と書くんだ。駐車場に敷いてあるのは、大抵、砂利じゃなくて砕石だよ。」
「どう違うの。」
「砂利は自然で採れた石ころのことだ。庭なんかに敷いてある。砕石というのは、人工的に岩を削ってつくった石ころのことさ。」
「どうしてわざわざ削ってつくるの。自然で採れた石ころだけを使えばいいじゃない。」
少女の問いかけにはレンジが応じた。三回、電子音が鳴った。
「さあ、できたぞお。」
牧師は低い声でわざとらしく叫んだ。そして少女の方を見て言った。
「ミルクを飲みながら、話そうじゃないか。」
牧師と少女はリビングのテーブルに隣り合って座った。できたてのミルクは熱すぎて、少女はすぐには飲めなかった。その間、彼女は、隣で牧師がおもむろにマグカップに顔をうずめるのを、恨めしそうに見ていた。
「ああ。」
牧師は思い出したように、カップから顔を上げた。
「本当は、今こうして隣り合ってミルクを飲むことも、あまりしない方が良いことなんだよ。わかるかい。」
「わかるわ。」
少女はじっと牧師の横顔をにらんだ。
「デスタンスでしょ。」
「そうだ。デスタンスだ。」
牧師は大きく頷いた。
「そして、家の外へ出ることも、本当はあまりしない方が良いことなんだよ。知っているかい。」
「知ってる」
少女は得意そうに言った。
「ステイホームでしょ。」
「そうだ。ステイホームだ。」
牧師はまた大きく頷く。そして少女とパチっと目を合わせた。
「家にいるのが、嫌になったのかい。」
これを聞くと、少女は口をキュッと結んだ。しかしすぐに、ええと、と目をそらして、ゆっくりと白状した。
「お姉ちゃん、と、けんかしたの。」
「ほう。お姉ちゃんは君に何をしたのかな。」
「お姉ちゃんの部屋にいたら、追い出されたの。」
「それはどうして。」
「パソコンで、大学のサークルの、しんかん・・・せんしょうがあるんだって。」
「せんしょうはつかないよ。新歓のことだね。」
「そう。しんかん。」
「お姉ちゃんは、君が部屋にいるのを嫌がったのかな。」
「そうなの。お化粧もしなきゃだから今すぐあっち行って、って言われた。」
「君はどうして、お姉ちゃんの部屋にいたかったんだい。」
「それは、お姉ちゃんの部屋のWi-Fiが、一番つながりやすいからよ。」
少女は少し恥ずかしそうに下を向いた。牧師は、あはは、と笑った。
「何か観ていたのかい。」
「観るつもりだったわ。ゲーム実況のライブ配信。でも部屋から追い出されちゃった。私、お姉ちゃんに言ってやったわ。」
「なんて言ったんだい。」
「お姉ちゃんなんか、早くあの、まわりが全部森みたいな感じの大学に行っちゃえ、って。」
「あらら。お姉ちゃんは、なんて言ったのかな。」
「うっせえ、ガキ、って。」
牧師はハー、ハッ、と高らかに笑った。
「それで、家を飛び出してきたのか。ライブ配信はどうなったんだい。」
「もう、どうだってよくなったわ。教会まで歩いてきて、駐車場で砂利をいじって遊んでいたの。あ、砂利じゃなくて。」
少女は牧師の顔を見た。
「サイセキ、ね。」
「ふふっ。ミルクが冷めてしまうよ。」
牧師はこう促した。すると少女は思い出したように、慌ててマグカップを両手でつかみ、少しずつ、コクコクと飲み、ふーっと息を吐いた。
そして言った。
「そう、どうでもよかったのよ。お姉ちゃんとのけんかは、多分、きっかけでしかないの。ゲーム実況を毎日ずっと観ていられるのは、悪くはないけれど、外で友達と遊ぶのだって、やっぱり楽しいんだもの。元々、家から出たかったのよ。ステイするのが嫌になってしまったのよ。」
それを聞いて、牧師はニヤリと笑った。
「実に良いブンセキだ。」
牧師は、室内からフッと音が消えたのに気が付いて、窓の外に目をやった。
雨は、カーテンが閉じて光を閉ざすように、静かに止んだ。
「さっきの、砕石の話が途中だったね。」
牧師は少女を見つめて言った。少女は黙って頷く。
「駐車場をつくるには、砂利より砕石の方が向いている。砕石はね、石ころの大きさがバラバラなんだ。わざと、ばらばらな大きさの石ころを組み合わせているのさ。鋭く尖った大きなやつもあれば、コロコロした小さくて丸っこいやつもある。大きな石の間に、小さな石が挟まって、隙間を埋める。そうすると、がっちりした駐車場ができるんだ。」
「砂利ではいけないの。」
「砂利はね、石ころの大きさが同じなんだ。砕石の中にも、同じ大きさの石ころばかりを集めた砕石というのも、あるにはあるが、いずれにせよ、がっちりした駐車場をつくるためには、石ころの大きさが同じではダメなんだ。車のタイヤが地面を捉えられず、前に進みにくくなってしまうからね。」
「だから砕石を使うのね。」
「そうだ。駐車場にごつごつした尖った石があるのにも、ちゃんと理由があるんだよ。」
「ふーん。」
牧師がマグカップを洗っている横で、少女は呟いた。
「私、やっぱり家から飛び出してきてしまったこと、少し後悔しているわ。」
「おや。」
牧師は蛇口をひねって水を止めた。
「そうかい。」
少女は黙った。
牧師は、さあてね、と言い、タオルで手を拭きながら、しゃがんで少女と目を合わせた。
「でもね。雨はいつか止むものなんだ。」
ピーンポーン、とチャイムの音。おや、と牧師。
「お迎えが来たようだ。」
やって来たのは少女の姉だった。彼女は玄関でペコリと頭を下げた。
「やっぱりここだったんですね。ご迷惑を。」
「いいえ。いつものことです。ね。」
牧師はそう言って少女を見た。少女は姉の隣で口を一文字に結んで、じっ、と牧師の顔を凝視している。
姉は呆れたように、あんたねえ、とこぼす。
「今は家の中にいるのが、あんたの仕事なんだよ。」
「仕事?」
少女は姉の方を振り向いて聞き返した。そうだよ、と姉。
「あたしたちがちゃんと来年もハッピーに生きていられるように、偉い人たちが今、頑張っているんだから。ゲームが得意な人たちは、ゲーム実況をして退屈なあたしたちを楽しませてくれているでしょ。あたしたちの仕事は、外に出ないこと。家にいること。」
姉はそう力強く言い切ると、さあ行くわよ、先生、失礼いたします、と言い置いて、ドアを開けた。
「雨の後ですから、足元に気をつけて。」
牧師は優しく声をかけた。少女はひょこひょこと姉の後を追った。
「今日の夕飯、カレーだってさ。」
「わあ、カレーなの。」
手を繋いで歩く姉妹の声が、少し遠くから聞こえる。雨上がりの匂いが鼻孔をくすぐる、ムッと湿気立つ玄関の外で、牧師は二人の影を見送った。
「私はあの子たちのために、祈らねばなるまい。」
牧師は小さな声でひとりごちた。明日の礼拝の祈祷の言葉は、早くも決まったらしかった。
牧師は雲のかかった天を仰いだ。
「あらゆる学生諸君が、興味関心の赴くままに学問に勤しみ、部活動に、サークル活動に、趣味に励み、良き友と出会い、交流し、ハッピーな学生生活を送ることができますように。そして、また人々が集って、生(ライヴ)礼拝ができますように。」
了解した!
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