鮮  作・都忘れ

近頃いつも同じ夢を見る。布団に入ってふと気づくと真っ黒な空間にひとりで立っているのだ。壁も床も天井もない真っ黒で先の見えない空間。確かに自分はここにいるという現実感と、途方もない暗闇の中で立っているのか横たわっているのかも分からなくなる浮遊感。そこでいつもここが夢の中であることに私は気づく。いわゆる明晰夢というやつだが、そのような夢を見るのは決まってこの夢だけだった。


今夜もこの暗闇がいつもの夢の中だと気づくと、私は辺りを歩き回る。この夢の世界には必ず私以外の登場人物たちがいるのだ。別に会いたいわけではない。しかし私は今夜も彼らを探すことをやめられない。上も下も右も左も分からないようなただの暗闇を迷いなく歩く。これは夢なのだから私が探して歩けばいつかは見つかるのだ。しばらく歩くと微かに音がした。控えめな水音と衣擦れの音だった。今夜も変わらない、いつもと同じ気色悪い音だった。私はこの音を知っている。見たくもない光景が広がっていると知っているのに音の方へ歩を進めた。やがて音がはっきりと聞こえてきて暗闇から人影が浮かび上がる。そこでは一組の男女が絡まり合っていた。男の学生服と女のセーラー服の黒が暗闇の中で混ざり合いながらずりずりと擦れ合っていた。男は女を押し倒し、黒のセーラー服の上から、体の線を確かめるようにねっとりとした動きで手を這わせている。押し倒された女は翻弄されているようでもなければ嫌がっているわけでもなく男に身を委ねている。端正な顔に冷ややかな微笑を浮かべて男の方を見つめているだけだ。男は時おり女に口づけをして、その度に控えめに音がした。私はそれをじっと見ていた。心の中を満たす何かが零れ落ちていくようで、広がっていく心の空洞に息が苦しかった。パジャマ姿だったはずの私はいつの間にか彼らと同じ制服を着ていた。これは夢の中でいつも見る光景だった。彼らはいつもこうして体を絡ませ合っては唇を吸い合っているが、それ以上の行為に及ぶことはなかった。それはきっとこれが私の夢の中で、私にはこのような経験がないからだろう。私はじっと彼らの行為を見つめ続ける。割って入ってやめさせることができた試しはない。彼らに近づこうとしても、気付けば元の位置に立っているのだ。私はこれを見ているしかない。何かよく分からない感情がふつふつと湧いてきて、ぎゅっとスカートの裾を握った。制服の黒いプリーツスカートの襞は乱れて皴が付いていた。


睨みつけるように女の顔を見る。暗闇の中に浮かび上がるその顔は陶器のように白くてつるりとしていた。髪は周囲に溶け込むように真っ黒で、長く細く繊細で川の流れのようにしなやかに散らばっていた。大きな目は切れ長で、三白眼気味なのに絶妙に整っていて美しい。すっと通った鼻筋に、目を引く唇はふっくらとしていて鮮やかな赤だった。その赤い唇は黒で埋め尽くされたこの空間で唯一の赤だった。男がその唇にキスをする。くちゅりと音がして男が離れていくと、その赤はより鮮やかになったような気がした。胸がざわざわして気持ち悪かった。怒りと嫌悪をぐちゃぐちゃに混ぜたような感情が渦巻いて私は奥歯を噛みしめる。自分を求める男の手を女は何とも思っていないかのようだった。頬を染めるわけでも喘ぐわけでもなく、嫌がっているわけでもなく、ただそうされるのが当たり前かのように、ともすれば見下しているかのようにも見える冷ややかな笑みを浮かべていた。男の体越しに女の赤い唇がチラチラと視界に入る。私は赤が嫌いだ。赤はあの女の色だからだ。ふと自分の足元を見ると真っ赤な椿が落ちていた。赤は私に椿の花を連想させる。あの女を連想させる。あの女は、あの美しい女の名前は、早乙女椿という。


夢の中の二人はどちらも実在する人物で、私のクラスメイトである。男の方は私が片想いしていた人物で、女の方はその男が思いを寄せる人物だった。我ながら、慎ましく淡い恋だったと思うのだ。きっかけなんてもう思い出せないようなありふれた些細なことだった。少女漫画のような劇的なことは何もなかった。それでも確かに恋だった。早乙女椿は学校でも有名な美人である。しかしただ顔が美しいだけの女というわけではなく、優秀な頭脳を持ち物腰も柔らかく人望もあった。十六、七の若い女の集団にありがちな、姦しさや同調圧力からは常に一歩引いており、それが疎まれるどころが羨望の眼差しを向けられるような女だった。多かれ少なかれ誰もが早乙女椿のことを好いている。「早乙女さんって綺麗よね」「賢くって羨ましい」「誰にでも優しいよね」「でも群れないところがミステリアスで素敵」皆が口々に彼女のことを褒めた。しかし私はあの女が苦手だった。嫌いだとはっきり言ってもいい。容姿と頭脳が優れていることにも、物腰が柔らかく人望があることにも異論はない。しかし私はどうしても、彼女に何か冷ややかな底の知れなさを感じるのだ。私は彼女が笑っているところを見たことがない。微笑むことはあっても、それが心からの笑顔だとはどうしても思えない。誰にでも等しく優しいが、全員と距離を置いているようにも見えた。何を考えているのか分からない。その得体の知れなさが私には恐ろしく、また気持ち悪く思われるのだ。


しかし私が好きだったあの人も、早乙女椿に恋焦がれる大勢の人間のうちの一人だった。私は想いを告げることなく失恋した。彼が早乙女椿に告白する場面に出くわしてしまったのだ。心臓を握りつぶされているかのような心地だった。それなのにあの女は顔色ひとつ変えず、まるであらかじめ決められた台詞を吐くように彼の告白を断ったのだ。早乙女椿はその非の打ちどころのなさから引く手あまたであったが、その手を取ったことが一度もないことでも有名だった。求めていたただ一人からも手を差し出してもらえない私には想像できない世界だった。私はあの人ただ一人から、選んでもらえればそれで十分だったのに。私が焦がれてやまないあの人の手は早乙女椿に差し出された。それをあの女は悩む素振りすら見せずはねのけたのだ。あの底の見えない冷ややかな目をして。それから私は一層彼女が嫌いになった。彼女に非がないことくらい分かっていた。しかしそれ故に腹立たしくもあった。


あの夢を見るようになったのはそれからすぐのことである。もう一か月も続いていた。毎晩毎晩あの人と早乙女椿が口づけを交わすのを何もできずただ見つめるだけの夢。最初は見ていられずにとり乱して何度も二人の間に割って入ろうとした。しかし私があの夢の中でできることは見ている以外に何もなかったのだ。






ハッとして辺りを見回すとどこまでも続く暗闇の中だった。今夜もあの夢だ。私はいつものように二人を探した。見たくもない光景が待っているのは分かっているのに、見ないという選択はできなかった。何もかもがぼんやりとした、夢特有の浮遊感が判断力を奪っているようだった。見たくないのに足が止められなくて、見たくて足を動かしていた。次第に水音と衣擦れの音が聞こえてくる。指先が冷たくなっていくのが自分でも分かった。胸がキリキリと痛んで息をするのがやっとだった。今夜もあの人は早乙女椿の上に跨ってその唇に吸い付いている。あの人の顔はぼやけていてはっきりと見えなかったが、確かにあの人だという確信があった。夢の中ではよくあることだろう。しかし早乙女椿の姿だけはいつもはっきりと彼女の姿をしていた。相も変わらす感情の読めない、美しく気味の悪い微笑を浮かべていた。艶々した黒髪は彼女の頭皮から始まって、辺りへ放射線状に散らばっている。真っ黒な瞳はあの人の方へ向いているが、何も映していない人形の目のようだ。あの人の手は彼女の腰を撫でていた。学校で見るあの人からは想像できないようないやらしい手つきをしていた。これは、何なのだろう。私の願望なのだろうか。あの人に私もああして触れて欲しいのだろうか。腰を撫でていた手がスカートの裾の方へと移動する。裾の端を弄びながら指先が太ももに触れた。それは今までにないことだった。あの人が彼女の素肌に触れることは一度もなかったのだ。心臓がどきんと鼓動を打った。早乙女椿の真っ白な太ももに手が這わされる。さするように手のひらで撫で、指先がちらちらとスカートの中を出たり入ったりしている。自分の体が熱くなるような、それでいて冷えていくような気がした。やめて、やめて。そんなものは見たくない。止めたくて走り寄ろうとしたが、どんなに走っても二人のもとへたどり着かない。それでも私は走るのをやめられなかった。身体をまさぐられる彼女の表情は相変わらずで、それが酷く私を苛立たせた。あの人にされるがまま、人形のように空虚な目をして身体を投げ出している。あの人の手が胸の辺りに移動して、胸元の赤いスカーフを解こうとした。声を出して邪魔をしたいのに声が出ない。ゴツゴツと節くれ立った男の指がスカーフの端を摘まんだ。もうやめて、見せないで。精一杯おぼつかない暗闇を蹴って身を乗り出した。


ふっと一瞬視界がブレた。頭を揺らされたような違和感と不快感が私を襲う。その一瞬を経て、再び視界のピントが合っていく。瞬きをしながらゆるゆると視線を辿ると、その先には、早乙女椿がいた。自分の体の重みが、急に現実感を持ったようにどっと圧し掛かった気がした。あの人が摘まんでいたはずの赤いスカーフには私の指がかかっていた。いつの間にかあの人はいなくなっていて、代わりに私が彼女の上に跨っている。頭が混乱してここが夢の中だということを忘れそうになっていた。私はさっき何を考えていただろう。もうやめて、見せないで。見せないで? 誰に? 何を? 顔を上げると私の下にいる早乙女椿と目が合った。正面で対峙するのは夢の中でも現実の中でも初めてだった。冷たく美しい顔を正面から眺める。長い睫毛に縁どられた切れ長の目が真っすぐに私を射抜いた。何も映していないと思っていた瞳には私の姿だけが映っていた。心臓がどきんどきんと波打っているのが分かる。彼女の表情は変わらず人形のようだったが、跨っている私の太ももと触れ合う彼女の腹部から微かに熱が伝わって、生きているのだと当たり前のことを確認した。暗闇と、黒いセーラー服と黒い髪。白い肌の上の唇とスカーフだけが赤色で、鮮やかなそれが私の目に飛び込んできた。熱に浮かされたように視界がぐにゃりと歪んだのが最後。私は大きく背中で息をしながらベッドの上で目を覚ました。


その日は一日学校が憂鬱で仕方なかった。今朝の夢は何だったのだろう。私は今まであの人と早乙女椿の行為を見ることしかできなかったのに。最初は確かにいつもと同じ夢だったのだが、目覚める直前ではあの人の姿はなく、あの暗闇には私と早乙女椿しかいなくなっていた。あの人とも早乙女椿とも距離を取りながら一日を過ごし、何とか最後の授業を終えようとしているところだった。私の席は教室の一番後ろの窓際である。早乙女椿の席は教室の真ん中あたりに位置し、授業を聞こうと前を向くと自然と視界に入る位置だった。授業に耳を傾けながら、ぼうっと彼女の姿を眺める。この席からは彼女の顔はほとんど見えず、見えるのは長い黒髪だけである。夢で見るのと同じ、遠くからでも分かるほどに艶々と手入れの行き届いた美しい髪をしている。ノートを取る時に微かに頭が揺れるので、その度に細い髪が揺れ、彼女の白い頬がちらちらと見え隠れした。顔にかかった髪が邪魔だったのか、彼女は左手で髪を耳にかけた。私の席からではほとんど見えなった顔が露わになっていく。その時、早乙女椿が一瞬ちらりとこちらに視線を投げてきたのだ。一瞬だけだが確かに目が合った。ぼんやりとしていた頭が急に覚醒する。体の奥がきゅっと縮こまる気がした。私の視線を敏感に感じ取れるほど、私と彼女の距離は決して近くない。しかし彼女は今、はっきりと私のことを見た。私と彼女は会話したことはおろか、顔を合わせたこともほとんどない。心臓の音が頭にまで響くようで鬱陶しい。彼女はもう何事もなかったのように授業を聞いている。先程の光景が頭から離れない。彼女の目は夢と同じ、冷ややかで美しい、人形のような目していた。






 甘い匂いがする。ねっとりと湿っぽい、それでいて上品な匂い。これは何の匂いだろう。体がふわふわしている。ああきっと今夜も夢の中なのだ。私は目を開けた。いつもの暗闇が広がっているだろうと思っていたのだ。しかし目の前に早乙女椿がいた。私は仰向けに横たわっていて、辺り一面に真っ赤な椿の花が落ちている。椿は木に咲く花であるが、最後には萎んだり散ったりするのではなく、花ごと下に落ちるのだ。まるで斬られた首のように。突然のことに私は思わず起き上がろうとしたが、それは叶わなかった。早乙女椿が私の上に跨っていたのだ。あの人の姿はどこにもなく、ここには私と彼女しかいなかった。早乙女椿は毎晩あの人が、昨晩は私がしたように馬乗りになっていて、私はそれまでの彼女と同じように押し倒されていた。今まで感じたことのない甘い匂いが充満して頭がくらくらしてくる。早乙女椿は夢で何度も見た微笑を浮かべて真っすぐに私を見下ろしている。日中一瞬だけ見た彼女の目と同じ目をしていた。三白眼気味の目が冷ややかに私を見つめている。そこにははっきりと私の姿が映っていて、微かに潤む粘膜に人形ではないのだと思った。早乙女椿は張り付けたような表情のまま、私の顔を覗き込むように身を乗り出した。彼女の長い髪がパラパラと落ちてきて、カーテンのように私と彼女以外の全てを遮断する。匂いが強くなったような気がした。体に力が入らない。弧を描く唇は赤くうるりとしていた。片方の手を私の顔の横についたまま、もう片方の手が私の太ももに触れた。柔らかくほっそりとした手が黒い制服のプリーツスカートの中を弄るように蠢いている。それはいつかの夢で見たあの人と同じだった。どきんどきんと心臓が痛い。他人に触れられるのがこんなにも落ち着かなくてかき乱されるなんて知らなかった。スカートの中の手が肌の上を滑るたびヒリヒリと熱くなるような錯覚に陥る。頭が混乱して私は浅い呼吸を繰り返した。彼女のセーラーの服のスカーフがゆらゆらと揺れている。黒いセーラー服には赤いスカーフが良く映えた。その赤はこの真っ暗な空間の中で、早乙女椿の唇と辺りに広がる椿の赤に呼応して、より鮮やかに揺らめいている。ああ甘い匂いがする。体が熱くて肌はヒリヒリしていた。私を見下ろす早乙女椿は涼し気な顔をして私の体に手を這わしている。その表情は読めず、相変わらず何を考えているのか分からない。どうして何でもないことのようにこんなことができるのだろう。どうしてあの人にこんな風に触られて、何でもないようにしていられたのだろう。私はあの人に選ばれたかったのに、どうして私じゃないのだろう。太ももをさすっていた手が私の頬に移動した。するりと頬を撫でて首筋に手が這わされる。カッと体が熱くなる。早乙女椿の作り物のような微笑に奥歯を噛みしめた。どうしてあなたなの。どうして私じゃなかったの。私の欲しいものを簡単に手にできるのに、どうしてあんなに冷たい顔をしていられたの。彼女のスカーフに手を伸ばす。そうしてその赤い結び目を解いた。その時ふっと彼女の目が和らいだ気がした。初めて見る顔だった。甘く上品な匂いがねっとりと絡みついてきて、これは椿の花の匂いなのだと、嗅いだこともないのに唐突に理解した。


 目覚めた日の学校で、私は早乙女椿とあの人が一緒にいるのを見かけた。彼女は誰にでも優しくて、それは自分に告白してきた人にも言えることだった。早乙女椿は相変わらず夢と同じ黒いセーラー服を着て、中身の見えない微笑を浮かべている。私が解いたスカーフは当然ながらしっかりと結ばれていた。あの人はまだまだ諦められないといった風で、その視線に熱がこもっているのが分かった。私があの人を見る目とそう変わらなかったのだ。見ていたくなくて足早に通り過ぎようと彼女たちの方へ向かう。早乙女椿とすれ違う瞬間、嗅いだことのある匂いが鼻腔をくすぐった。思わず振り返りそうになるのを堪えて走り去る。甘く上品で、ねっとりと湿っぽい花の匂い。間違いなく、夢で嗅いだ椿の花の匂いだった。






 今夜も私が目を開くと、そこには馬乗りになった早乙女椿がいた。一面に椿の花が落ちていて、花の匂いが充満している。彼女のスカーフはすでに解かれていて、それは昨夜の夢の続きのようだった。あの人はもうどこにもいない。彼女は私の首を撫でまわしながら微笑んでいる。心なしか楽しそうに見えて、いつもより柔らかな目は確かに生きている人間の目だった。彼女のこんな目は見たことがなかった。現実での彼女はもっと冷ややかで底の見えない気味の悪い目をしていた。誰にでも優しくて、誰にも興味がないようだった。あの人もきっと、早乙女椿にとってはどうでもいい大勢のうちの一人にすぎなかったのだろう。それでも皆が彼女を慕い、皆が彼女を求めていた。美しくて頭が良くて、誰もが彼女を求めている。椿の花の匂いが鬱陶しかった。身じろぐ度に、辺りに広がる椿が擦れ合って匂いが強くなっていく。衣擦れの音がして、早乙女椿の顔が徐々に近づいてくる。いつの間にか両手首ががっちりと押さえつけられていて逃げようもなかった。黒く長い髪のカーテンが降りてきて、至近距離で見つめ合う。シミひとつない白い肌に赤い唇。切れ長の目はうるりと潤んで私の顔を映していた。自分の心臓の音が煩かった。余裕そうな彼女の様子が憎らしかった。額同士が触れ合って、彼女の微かな熱が伝わる。他人の匂いと他人の体温と、椿の花の匂いがした。こんなこと、あの人にはしなかったじゃないか。あの人はあんなにも手を伸ばしていたのに。私が欲しかったあの手を。彼女の鼻と私の鼻が擦れ合う。長い睫毛は私の瞼に触れそうなほどだった。心臓が煩い。匂いが鬱陶しい。怒りと嫌悪と興奮が、混ざり合って姦しい。早乙女椿はそっと私の唇を食んだ。経験したことのない柔らかなそれは、花の花弁のようにしっとりと湿っていた。


「あ……」


私は思わず小さく吐息を漏らし、それにひどく動揺した。見上げた早乙女椿の顔は美しく、頬はほんのりと上気していた。切れ長の大きな目は嬉しそうに歪み、彼女は笑っているのだと思った。私の欲しかったものを全てはねのけて見せた彼女は、あの人の代わりと言わんばかりに、私の唇を奪って笑っているのだと。私は彼女の隙をついて、彼女の上に圧し掛かるように寝返りを打った。椿の花が彼女の下敷きになって、匂いが一層強くなった。彼女の上に馬乗りになる。黒く長い髪が一面の椿の上に散らばっている。暗闇の中で浮かび上がるように肌は白く、唇はぽってりと赤い。頬は桃色で瞳は潤み、それはまるで恋する乙女のように恍惚とした表情だった。きっと誰も見たことのない表情だった。鮮やかな椿の赤と真っ黒のセーラー服のコントラストが眩しくて、早乙女椿の放つ色めいた雰囲気にくらくらとして苛々した。赤いスカーフは解かれたまま皴が付いていた。色々な感情が洪水のように心に流れ込んで、息をするのも苦しかった。頭が茹だって苛立った。叫び出したいような、泣きたいような気がした。気付けば私の手にはカッターが握られている。そうするのが当たり前であるようにカッターの刃を出した。無音の暗闇にチャキチャキと刃を出す音が響く。早乙女椿の周りには、見渡す限りの椿の花が落ちていた。椿の花は、首が斬り落とされたように、地面に落ちることでその生命の終わりを告げる。ここには死んだ椿の花しかなかった。私はカッターの刃を彼女の首にそっとあてがった。彼女はまるで口づけを待つ少女のように恭しく目を閉じた。それが余計に腹立たしくてカッターを持つ手に力を込める。つぷりと薄い皮が切れて、鮮やかな血がじわりと滲んだ。じっと目を閉じる早乙女椿は美しかった。ああ腹立たしい。憎らしい。悔しい。悲しい。羨ましい。頭脳も美貌も人徳も人望も、人が羨むものは何だって持っているのにあなたは何が不満なの。私はあなたが羨ましい。あの人に触れてもらえて羨ましい。美しさが羨ましい。賢さも人望も羨ましい。それなのにどうして冷たい目をして全てを捨てていくの。するすると筆を動かすようにカッターを滑らせた。彼女は目を閉じたまま、それが嬉しいことかのように微笑んでいる。頬は上気して呼吸は浅くなり、わずかに空いた唇から真っ赤な舌がぬらりと覗いた。どうしてそんな顔をするの。どうして私にだけそんな顔を見せるの。皆があなたのことを好いていて、皆があなたの表情を独り占めしたいと思っているのに。私はあなたを好きじゃない。私だけは好きにならない。カッターを持つ手に力がこもる。早乙女椿の白い首にぐるりと囲むように赤い線が引かれていく。その傷口からぷつぷつと赤い血が漏れ出ていた。私の手によって、彼女の首は鮮やかな赤に汚されていく。腹立たしい。腹立たしい。全てを持つあなたが。私の欲しいものを捨てるあなたが。それなのに、あなたに囚われていく自分が一番腹立たしい。これは私の夢なのだ。私の思い通りになるはずで、私の願望を反映しているはずなのだ。ここに今あの人がいないのは、早乙女椿だけがいるのは、つまりそういうことなのだ。私は今、あの人よりも早乙女椿に執着している。私は彼女が妬ましい。私の手で汚してやりたい。皆が彼女を好きになっても、私だけは抗いたい。私に触れて頬を染める彼女に、私は歪んだ優越感を抱くのだ。それが幼稚でくだらないことは知っている。つまらなくて醜い嫉妬心だと知っている。しかし彼女の存在の全てが私の劣等感を刺激して、私を惨めにしていくのだ。カッターの刃が早乙女椿の首を一周した。白くほっそりとした首は赤く濡れていて、それは首輪のようだった。球状にぷつぷつと零れ落ちる血液は、次第に大きく膨らんで椿の花になっていく。それはしっとりと鮮やかに綻んでは、ぽとりと下へ落ちてゆく。美しい。妬ましい。


「これ以上、私を惨めにしないでよ……」


 力のない声でつぶやくと、早乙女椿の瞼がゆるりと持ち上がった。潤んだ瞳はきらきら光って私の姿を映していた。彼女は首の傷口から椿の花をぽろぽろと零しながら横たわっている。真っ赤な椿に囲まれて、まるで棺のようだった。見渡す限りの鮮やかな赤と、ねっとり纏わりつくような花の匂いで頭がおかしくなりそうだった。早乙女椿はとろりとした目で私を見ていた。うっとりと楽しそうな目をしていた。赤い唇がうっすらと開いた。むせ返るような甘い声が、耳元で囁くように流れ込む。


「貴女、馬鹿で惨めでとても可愛いのね」






「早乙女さん、首の痣どうしたの?」


 教室で、早乙女椿の隣の席に座るクラスメイトがふと声をかけた。彼女の首に、うっすらとではあるが赤い線を引いたような痣があったのだ。首を一周しているそれはまるで首輪のようである。


「ああ、これね」


 問われた早乙女椿は自分の首元をそっと撫でた。その様子にクラスメイトの少女は思わずどきりとした。見たこともないような柔らかい笑みを浮かべていたからである。早乙女椿はその美しさで有名だったが、どこか他人を寄せ付けないオーラがあった。いつも落ち着いている彼女が珍しく楽し気な声で言う。


「これはね、可愛くって可哀そうで、私のことが大好きな猫がやったのよ」


 言葉を紡ぐ唇の赤は、綻ぶように鮮やかだった。

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