無聊日常 其の二  作・俗物

 未だにコロナ禍は冷めやらない。以前の愚稿では、「半年の内に世相は変わった」などと宣っていたものの、あれからさらに世相は変わり続けている。気づけば世界中からアスリートが来日するはずだったのに、来るのはコロナウイルス御一行様ばかり。未だに彼らは世界ツアーの真っただ中で、ツアーファイナルはいつになるのかわからず、追加公演し続けている。


 以前私は無聊たる日常を綴った。それこそ無聊であるのかもしれなかったが。だが、現在はどうだ。恐らく私なんかよりも読者たる諸氏の方が無聊を味わっているだろう。それは単にもともと私が無聊の味を知っていて、諸氏はその味を知らないだけのことである。オンライン講義、オンライン飲み、なんでもオンラインという言葉とともに簡素化が進む。おそらく最後はオンライン結婚式とオンライン葬儀が始まるに違いない。


 今回は我らが文藝部も部誌をオンラインで公開するらしい。つまり、以前は好き勝手に書いていた文藝部の諸文豪方も検閲の憂き目にあうわけだ。こんなご時世、ネットの自粛警察やら、誹謗中傷警察やら、九大ツイッタラー諸氏に見つかればどうなるかわからない。もし誰かが燃えたなら、私は「〇〇と同じ文藝部員です。この度は友人がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」という題名で次回は駄文を投稿しようと思うわけである。まあ、もしかしたら私の方こそ燃え上がるかもしれないのだが。こんな駄文を九大の大先生方に見つかると思うと申し訳なさすら感じる。恐らく、私は講義チャットに「ワロタ」と発現した人間の二の舞になるのだ。それとも、少しだけきついことを言われてしまうのか。その恐怖を感じれば、さっさと、私も真面目に文藝部員らしい文章でも投稿するべきと思うわけである。しかし、それはかなわない。何故なら時刻は〆切の二十分前であるからだ。


 なんで、こんな時間になるまで放置していたのかというと、単純に私は〆切を失念していたのだ。それは決してドラマティックな展開があるわけでもなく、単に無聊な物語がそこにあるだけである。こんなことを書いているうちに締め切りは延長されたようだが、まあ、せいぜい今夜のうちに書き上げることにしよう。


 私の身に起きた無聊なる展開とは、決して天神を歩いていたらゴジラに出会ったなんてことではなく、ただただ何番煎じかの全身ピンクタイツのユーチューバーに出会った。そんなことである。おっと、このご時世、「天神を歩いていた」なんて書くと自粛警察の皆様に怒られてしまう。私はただ自粛期間中に天神へ出かけ、パチンコに興じる馬鹿を叱りつけるために、天神へ出かけたのである。自分自身がラウンドワンに行ったり、カラオケに行ったり、ましてや飲みに行くためなどでは決してない。


 そんなことで出会ったピンクタイツ君。まあ、私自身は奇人変人であっても奇人変人に大画面前の群衆の中で絡みに行くほどの突飛な志はないのであって、ただ眺めていた。いや、正直なところ期待をしていたのだ。それは簡単な話、私の無聊を慰めてやくれないかというものである。


 そう、私は常に無聊を抱く。その無聊は雑多な要因によって生み出される。バイト、対人関係、睡眠不足、アルコール不足、コロナの恐怖、ステイホームによるイライラ、近所の子供の遊び声とそれを叱る親の罵声。要するに色んなものがあるわけである。その要因を吹き飛ばすような、何か無聊を慰めてくれるものを欲してやまないのだ。それは一瞬であっても良いのである。故に、俺は本を読み音楽を聞き、人と話して酒を飲む。それこそが、俺の無聊をわずかに刹那に慰めるからである。


 だが、タイツマンは所詮タイツマンである。タイツを着る以外には能がない。私の目の前で女の子に声をかけ撃沈していった。すごすごと立ち去るタイツマン、それを見守る私、失意のタイツマンに鷹の如く近づいていく自粛警察。自粛警察はタイツマンに声をかけると、「不謹慎」と書かれた棒で殴り始めた。こんなのはすべて私の妄想に過ぎなかったのかもしれないし、単に青い鳥が住む世界の話かもしれない。


 いずれにしろ、リアルの大画面前でも青い鳥が住む世界でも私の無聊は癒されない。せいぜい、「黒川基準」で麻雀の点ピンレートが解禁されたことを見て、その滑稽さに微笑んだくらいである。まあ、いずれにしても無聊だ。点ピンレートなんて既にやってるやつはやっているのだ。こんなものを今さら解禁だなんだと言うても、何もならない。だが、世間ではそれを鬼の首でも取ったが如く語っている。


 それに私自体、別に賭け麻雀なんぞに興味もない。故に、誘われようが打つつもりもない。ただ、余りに面白いだろう? 心底この国はくだらないのだ。外海が大時化になり、高波で外の船はあおられていても、恐らく自分のところまで波が掛からないとわからないのである。今の世情を見てみれば、一人の死が国を動かしているところもある。そして、今では、その一人の死を悼むふりをして暴動を起こす者もいる。(もちろん本心からの行動もあるだろう)だが、果たして海を隔てた我々には本当に其の痛みを理解出来ているのか。果たして、疑問を生じさせるわけである。ただ、こんなところでお気持ちツイートもどきの文章を書いても、それまた無聊であるからやめにしよう。


 ただただ、無聊な日々。ここから離れさせるものが恋しい。覆水は盆に返らず、ウイルスが流行る前には戻れないし、友人との壊れた信頼関係は戻せない。そんな当たり前のことに気づけない私も周りも皆馬鹿である。何かが成されたということは、それだけの理由があって起きたことである。これを帰結という。その帰結から元通りの日常へと戻ってくることは無い。少しだけきついことを言うと、一度であったとしても、過ちを犯せば私は相手も自分も許すことは出来やしない。自分であっても相手であっても過去の過ちを無きものにしようとするやつは生意気だ。


 ああ、もう締め切りは迫ってきている。さっきまでからここまでを書くのに二日も要するとは自分の怠惰と凡庸さ、そして迫りくる課題共が恨めしい。終わるわけないだろう。だいたい、夏学期は対面授業に切り替えるなんておかしいだろう。踊る大捜査線じゃないが、クラスターは講義の教室で起こってるんじゃない、筑肥線と西鉄バスと昭和バスで起こっているんだ。そんなことを理解していないのは本当にどうなのかなあと思うのである。まさか、大学の上層部は全員がドミトリーという名の監獄に住んでいるとでも思っているのか。そうだとしたらおめでたいことだ。


おっと、締め切りなどなんだかんだで話が横道に逸れてしまった。まあ、所詮我々の人生など横道にそれてばっかりだ。後で本線に戻れるなら、それさえ良いものだ。きっと横道で見た景色も美しいものである。というわけで本線に戻してみるとしよう。さっきの麻雀の話である。ここまで麻雀に拘るのは、私が現実逃避のために打ったら大勝したなんてことは関係ない。きっと関係ないはずだ。そう、あの検事長は罪に問われるべきか否か、それこそ問題だ。少しだけきついことを言うならば、私がきっと刑法を持ち出し、麻雀について語り出せば、検事長を擁護すれば与党に、非難すれば野党に阿ることになるのである。これは恐らく双方ともに曲学阿世の徒になりかねない。そして、対立する陣営からはきっとその言葉を掛けられることになる。つまり、この両者はコインの裏表、だからこそ滑稽なのだ。一人を守ろうとする政府、記者を守らんがため及び腰な新聞社、本命の法案が通らずお手上げの野党、全員が全員滑稽な動きをしている。ウィンウィンとはよく聞くが、ルーズルーズとは聞いたことも無い。新手のコメディと考えても良いかもしれない。


 そういえばこの文章は無聊なる日常についてだらだらと書き連ねるものであったはずなのに、気づけばもう滑稽なる日常を述べている。そう、この世の中は滑稽なのかもしれない。イクメンと呼ばれる男性も裏ではどこかのビルの多目的トイレで不倫を繰り返しているのだ。ああ、滑稽滑稽。だが、無聊と滑稽、この両者は意外と同じような意味ではあるまいか。滑稽という言葉が含意するのは「くだらない」という意味である。その帰結は「空虚な退屈」、つまりは「無聊」である。


 滑稽なもの、ああ、ついに私自身も滑稽の具現者となってしまった。そう、私はついに終生に渡る敵と対峙せざるを得なければならなくなった。いや、私は決して一人じゃない。世の中多くの紳士たちも同じ敵と戦っている。つまり、彼らは同志である。私にとって、同志が居るということはこれほどまでに安心できるものだ。さあ、何が敵たるか。読者諸氏に想像出来るものは何かあるのだろうか。ひとつヒントを出そうか。私が今怖いもの、それはもつ鍋、いくら、そしてビールである。いずれも私にとって大好物である。いや、決してこれは「まんじゅうこわい」のような意味で言っているわけじゃない。そんな回りくどい言い方をするのはCMまたぎを繰り返す能無しのバラエティ番組だけにしてほしい。


 まあ、私は能無しのバラエティ番組よりも能がないので回りくどい言い方をするわけである。こんなんだから競馬も宝くじも何も当たらんのだ。画面の前の君は果たして俺と同じかどうか。そんなことは知ったことじゃない。初めにマスコミのことも叩いてみせたが、マスコミの皆々様はきっと俺なんかより頭の出来がいいはずなのだ。そう、マスコミで言う「ネットの声は~」は、自分の口からは言いづらいことをただ「ネット」という代名詞に主格を置き換えて発信しているに過ぎない。これもまた無聊でみっともない。そして、それを笠に着て「俺たちこそ民意だ。ネットの声が国に届いた」とか宣う輩やら、「誹謗中傷はダメ」といった後に「不倫は許せない。あんな奴死ねばいいのに」なんて宣う輩なんかはアホである。要は無聊にも満たない、無聊にたどり着けない滑稽な存在だ。だが、それは多くの九大生、いや全世界のホモサピエンスがそうなのである。だから、我々は己等の滑稽さを笑い、無聊に達し堕落せねばならぬのだ。


 ああ、尺稼ぎ、文字数稼ぎはもう済んだか。少しだけきついことを言う必要ももうないだろうか。そう、私、いや、俺にふりかかった強大な敵とは病である。あの大文豪もあの政治家も誰も彼もが苦しむ病、私に襲い掛かったのはその中でも強大なる敵、痛風である。そう、痛風。世の中のおっさんがかかることで有名な痛風。俺のように若い年齢で発症するのは稀らしい。この道50年、大ベテランの先生から、最年少発症と最高尿酸値の称号を頂くことが出来た。


 まあ、ヒントとやらで気づく人もいたのだろうが、蓋を開けてみれば単に二十歳の社会生活不適合者兼生活習慣病兼メンヘラ兼兼兼……のおっさんが泣きごとを連ねているだけだ。とはいえ、本当に通風は死ぬほど痛いから、読者諸氏はプリン体に気を付けて生活してほしい。本当に扇風機を足に向けると痛かったのだ。これをその場で滑稽と笑い飛ばすには私はマイコメディアンにはなりきれない。いや、そもそもこの文章全体がフツカヨイ的な文章なのかもしれない。いずれにしても詮無き事であり、俺は目の前の痛風に向き合う必要があって、決して笑い飛ばしやしない。だが、今の俺は痛みを前にして生を自覚した。故に今の俺は生きねばと考える。俺は決して痛風に勝つことは出来ないと医者にも言われた。でも、負けてはいけないのだ。負けずに生きなければならない。そして、そのもがき苦しむ姿、それを滑稽と笑い飛ばし、また糧にする。その先にたどり着くものこそ真の無聊だ。


 とにもかくにも、少しだけきついことを言うならば、賭け麻雀は点ピンレートまでだし、痛風なんかになっちゃダメだし、締め切りはみんな守らなきゃいけない。点ピンより上のレートで打ち、痛風なんかになって、締め切りを守らない文藝部員は生意気である。


 ああ、無聊無聊。ここに通底するのはコメディとフツカヨイ的なもの。ああ、読者諸氏がこの滑稽さを読んで、一瞬の無聊と寂寥を埋めるならば、帰結にやってくるのはこれまた無聊なのである。

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