愚者の微笑  作・日本馨

雑木林と田んぼに囲まれた田舎の小さな小学校。今日この学校の五年生の教室に、転入生が来るらしい。

 全十八人の五年生たちはその全てが、同じクラスの一人の腕白少年によって突然もたらされた噂に強い関心を抱いた。

 各々が多様な反応を示す。誰であるかを特に気にせず、偶々傍にいた者に話しかける者。わざわざ友人のところへ駆け寄っていく者。中には興味のないふりをして誰もいない校庭を眺める変わり者もいる。

 一人の変わり者を除いて、誰もが隣人と自分の中の好奇心をちらちらと見せ合い、共感を得て安心しようとしているが、決してその心の内を全て見せようとはしない。夏休みを数日後に控えて浮ついていたはずの空気は、この心理的攻防戦によって緊張を孕み、やがてその緊張ごと一枚の幕となって小さな教室の少年少女たちを包む。それは未だ固まりきってはおらず、柔いところも有しているが、簡単には破れない刺々しい強さがある。

 それは閉鎖され一定の均衡を保っていたはずの社会にもたらされるらしい変革に対する警戒心と、抑えきれない好奇心が作り出したものだ。子供たちは自分が幕の中に入れたことを悟ると、知らせが飛び込む前と同じふうを装って、邪気の無さげな会話を再開する。

 少しして、彼らは特徴的な足音を聞き取った。このクラスを担当している、定年間近の男性教員の足音だ。聞き慣れたその音は、今の彼らにとっては変化の象徴だ。音を聞きつけた者からガタガタと席に就きだす。

 白髪交じりの男性教員が教室の扉を開けたとき、既に席に就いている者も、まだこれからという者も、一斉にそちらへ視線を向けた。そしてそれらの目はすぐに、教員に手を引かれている少年の姿を捉えた。

 皆、息を呑んだ。転入生の姿は彼らの想像していたものとはまるで違ったからだ。幕の中に入ることを許されなかった窓際の少年もまた、教室に入って来る転入生と思しき少年をまじまじと見つめた。

 少年は左手で教員の腕を掴み、右手で白く細い杖を持っていた。

「転入生の白石皓幸てるゆきくんだ」

 朝の会が始まるや否や、教員は必要最低限にも満たない言葉で隣に立つ少年を紹介すると、彼自身に自己紹介を促す。少年は呼びかけに反応して、俯けていた顔を上げ、正面を向く。すると、その両目が固く閉ざされていることが、ここにいるすべての子供たちの知るところとなった。

 白い顔に閉じられた瞳は、死顔のようにさえ見え、子供たちの背筋をうすら寒くさせた。

「白石皓幸です。生まれつき目が見えません。この学校に慣れるまで、皆さんにお手伝いをお願いすることもあるかもしれませんが、よろしくお願いします」

 凛とした声は、一番後ろの席の子にまでしっかり届いた。

 同い年とは思い難い妙に大人びた口調と発言の内容を、子供たちは訝しんだ。それを面に出す者もいれば、心の内にひた隠しにする者もいたが、皆この少年に「自分たち」とは相容れない何かを敏感に察知していた。

「聞いての通りだ。みんな、面倒を見てやりなさい」

 付け足すように素っ気なく告げられた教員の言葉は、生徒たちの耳に届いていなかった。皆、教壇上に立つ盲の少年を注視して目を逸らさなかった。

 教員は少年に教卓のすぐ前の席をあてがった。元々その席に座っていた少女は一番後ろの席へと移動させられた。少女は嫌がるでもなく喜ぶでもなく、淡々と荷物をまとめて席を移った。その態度には彼女の慎重な性格が滲んでいた。

 短い朝の会が終わり、教員が教室から出ていくと、少しの沈黙の後、子供たちは友人とひそひそ話し始めた。道徳の時間に、目の見えない人がいるということは聞いたことがある。白杖をついて歩く大人の盲人も見たことがないではない。しかし同い年でこういった境遇にある者を見るのはここにいる誰もにとって初めての経験で、誰一人どうしていいのか分からなかったのだ。

 少年は目を瞑ったまま、頭を上下左右にくるくると動かしている。周囲の状況を知ろうとして、半ば無意識のうちにやっているのだ。その動作は決して大きなものではないが、変化に敏感になっている子供たちはそれを目敏く捉える。

 少年の行動は、それらの瞳に奇妙なものとして映った。

 誰かがクスリと笑った。誰から発せられたのかは不明のそれに嘲りの色ははっきりとはみられなかった。ところがそれを聞いた者の中で心の内に排他的な警戒心を気持ち強く持っていた者は、この笑いを自分を正当化するのに利用した。また、彼の表情に恐怖心を抱いた者も、それを誤魔化そうと同調した。

 教室の空気はあっという間に彼ら彼女らに支配された。ここにいる誰しもが良心を持ち合せてはいるものの、それを前面に出して強い負の連体から強いて逃れようとする者は、この時点において一人もいなかった。ひっそりとした笑いは、教室に蔓延していった。

 しかし、彼らの嘲笑は少年が席を立ったことで無理矢理に中止させられる。彼らはこの少年の次の行動に注目する。すると少年はまた凛としたよく通る声を発した。

「誰か、ランドセルを置く場所を教えてくれませんか」

 子供たちは目を見合わせる。道徳の授業における答えは皆分かっている。しかし今のこの教室という小さな、だが重大な社会における答えは習ったものとは違っていた。聡い子らは、このことをよく理解していた。

 誰も少年を助けようとしないまま、黒板の真上に取り付けられた時計の秒針が進んでいく。少年は立ち上がったまま置物のように微動だにしない。

 このままで時間が過ぎてゆくのかと思われたそのとき、教室の一番端の列にある席に座っていた少年が不意に立ち上がった。幕の外にいた変わり者の少年だ。彼の椅子の足が床と擦れる音に皆が驚く。

 薄っぺらい上履きが出す小さな足音が近づいてくるのを聞いた盲の少年は、その方向をゆっくりと向く。少年の顔は再び、後ろに下がっていた子供たちの目にはっきりと映った。白い顔に貼り付けられたパーツは、全て固定されてピクリとも動かない。代わりに、変わり者くんの来る方向を確かめるように、小さく首が揺れる。

 盲の子の前に立った少年は一度立ち止まる。そしてほんの少し迷ったようにその子の体を見た後、袖をつまんで、ぼそりと呟くように言った。

「こっち」

 そのまま彼が袖を引くと、少年はランドセルを持ったままついてくる。子供たちは二人のために道を開けた。わざと塞いでやろうなどとする者はいなかった。

 彼は衆人環視の中、ランドセルが並べてある棚の前まで少年を連れてくると、少年の手を取って空いている棚に乗せてやった。

「ここ、空いてるから」

 そう言って手を離す。少年はペタペタと置いてもらった右手でその場所を確かめると、両目を開けて自分を助けてくれた少年に顔を向け、死人のように動かなかった顔のパーツを自然に緩めて微笑んだ。

 息のある表情の中で、少年の光を宿さない真黒の双眸はじっと動かず、静かに真直ぐ隣の少年を捉えていた。

 柔らかな、微笑だった。

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