二〇二〇年六月一日のこと 作・坊主
五時半ごろに目が覚めた。少し二度寝をしてしまい六時を少しすぎたころ起き上がった。次の日の二限目までに読み終わっていなければならない本があり、この日は朝から晩までアルバイトがあった。だから、この日の朝のうちに読み進めようと思ったが、やる気が起きず五分ともたずに放りだした。
朝食はコーンフレークで済ませることが多いのだが、この日は平日にもかかわらずなぜか俺の両親が元気いっぱいで、やたらと手の込んだホットドッグを作ってくれたのでそれを食べた。
美味しいものを食べて気分が上がったので、先ほど読むのが嫌になったテキストもすらすら読めた。そうこうしているうちに八時近くになったので、歯磨きと身支度を済ませアルバイトに出発した。
俺のアルバイト先は自転車で四十分ほど行ったところにある。その道のりが退屈なので、前日にワイヤレスイヤホンを買った。自転車を漕ぎながらでもちゃんと音が聞こえるか、行きかえりの間電源が持つか、といったことが少し不安だったが、とりあえず行きかえり通して使ってみることにした。好きな歌を聞くか落語を聞くか少し迷い、落語を聞くことにした。
しばらく進むと前方で車が路肩によっているのを見つけた。すぐ横に民家があったので、その家の住民を乗せるなり降ろすなりするのかと思ったが、そうではないらしい。なにかを避けるためにそういう走り方をしているようだ。近づいていくとそのなにかが見えてきた。
猫が倒れていた。白い毛並みだった。車に轢かれた死体かと思ったが、足が少し動いていた。それを見たとき色々なことが思い浮かび、通行の邪魔にならないところで自転車を止め、落語の音声を止めた。イヤホンは耳にさしたままだった。最初に浮かんだものはその猫を助けようという考えだった。見捨てることに罪悪感を感じて浮かんだ考えだった。次にアルバイトのことを考えた。ここでなにか行動すれば間違いなく遅刻するだろう。仕事内容からして多少遅刻しても大して迷惑はかけないだろうが、遅刻の連絡をしたり色々訊かれるのは面倒だと感じた。その次に実際に助ける際にどうしたらいいのか考えた。自転車でえっちらおっちら運ぶよりも車で運んだほうがいいように思われた。自分に言い訳するのが実に上手い。これらの考えを頭が行きつ戻りつして結局見捨てることにした。
五分ほど立ち止まっていたせいで時間に余裕がなくなった。残りの道のりを急ぎながらぼんやりとした罪悪感を感じていた。悪いことをしたわけではないが、どうしても消えなかった。引き返したほうがいいのかもしれないと感じながら漕ぎ続けた。なにも音声を流さないままイヤホンを耳にさしていたことに気づいたのはアルバイト先にたどり着いてからだった。
俺のアルバイト先は葬儀屋である。故人様の写真を加工して遺影を作ったり葬儀で流すスライドショーを作ったりするのが仕事である。暇な時間はそれなりに多い。
この日は月初めだったので朝のミーティング中に社員の方がそれぞれ先月の反省や今月の目標を話す時間があった。碌にしらない人たちの反省会を眺めるくらいなら猫を動物病院に運んでいたほうがよっぽどよかったと思った。会員勧誘担当のおばさまが家族に危篤の人間がいるふりをして同業他社に電話をかけ自社との見積金額の差を調べだしたり、コピー機の調子が悪く遺影に映った故人様の顔色が宇宙人じみたものになったりと気がまぎれる出来事もあった。それでも、基本的に呑気な気持ちで働いているので余計なことを考える余裕はある。猫のことを考えていた。
猫を助けて引き取り実家をでてペットを飼ってもいい場所に引っ越して暮らす。そんなハートフルな出来事も起こりえたのかなと思った。猫を助けようとしても徒労に終わったり、大金がかかったりしたとしたら今とは逆に猫を助けようとしたことを後悔するのかなとも思った。ただ、どんなことを考えても自分が猫を見捨てたということを思い出してしまうので暗い気持ちで一日働いていた。
仕事に関係ないことを考えていると一日が早く感じた。帰り道は倉橋ヨエコという人の歌を聞きながら帰った。つらい時に聞くと元気が出るわけではないがなぜか楽になるのでこの時の気持ちにはぴったりだった。
猫が倒れていた場所にさしかかった。まだ日は沈んでおらずそれなりに明るかった。当たり前だが、猫は消えていた。自転車を止めてじっくり観察したが血痕が残っているということもなかった。車に潰される前に俺よりも優しくて俺よりも暇な人が助けたのだろうか。根拠はないがそれはないだろうと思った。ただ、そうであってくれたらいいとも思った。
仕事中よりも家に帰ってからのほうが気のまぎれることは多い。一日働いたあとに風呂に入ったり夕食を食べたりすると幸福感に満ちてたいていのことはどうでもよくなるし、友人とオンラインゲームをすると、勝負事に熱くなりやすい俺はほとんどのことは頭から消える。ただ、布団をかぶってから眠りにつくまでの間は別だった。この日一日かけて考えたことが次から次へと頭に浮かび、一日かけて整理した罪悪感をもう一度味わった。そんな気分のまま眠った。
嫌な一日だった。
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