火蠅 作・柴田隼人
真黒のフォルクスワーゲンのゴルフGTIはある民家と民家との間に停車され、まばゆいハイビームが切れると車は夜闇にすっかり溶けた。エンジンが停止され、一分も経たぬうちにあるつがいの男女が降りてきた。二人は言葉を交わさずに歩き、川べりの草原に腰かけた。何かから許しを乞う彼らは、秘め事を保とうと人目を怖れている。ある日結ばれた小指に秘めた約束はまだ二人の外に誰かの知るところではない。嫌う喧騒を逃れ、しがらみの無い空間を作りあげた彼らの時間が始まった。そんな彼らの間にあるものは立派なしがらみであることを認識しながらも、互いに知らぬ風を纏っていた。
夏子が風呂から出ると、雅人は夏子の髪を乾かしてやるのが常だった。その間に、
『この男(女)は自分を愛しすぎている』
と、かたみに思うこと。
『内面に取り込み過ぎたくない』
と、考えるのと裏腹に、かたみに侵入を拒まぬこと。
一生を人に囲まれて過ごすというのは、人々が過ごしている世界を窓の内から眺めるものなのか、世界から締め出されて窓の外から指をくわえて見るものなのか、と雅人はよく考えては結論の出ぬまま放置していた。
糸島の馬場には、名の無い小川が流れていて、傍にある迷迭香の畑から飛ばされた種より芽吹いた花々が水の中から顔を出している。流れは静かで緩やかで、根から伸びる茎が水流を妨げている、というのは正しい表現ではない。根から伸びた茎は果たして恭しく邪魔をしている、というぐらいが正しい。昼間の陽を受けて迷迭香の薄紫のはなびらが映え、同じように陽を受けたみなもが光を与えられて煌めいている。目をつぶって耳を傾ければ、水泡が弾けて、鳥が喋って、竹が風に揺れて軋んで、笹がこすれて、子供がはしゃいで……そんな景色が瞼の内側に描かれる。
夕陽が沈んで夜が訪れると、上った月がこの一帯を朧げに照らす。しばしば人は気づかぬが、この辺には街灯が設置されていないため、暗闇に目が慣れるまで、その暗闇に佇立することが強いられる。いざ目が順応して虹彩が整っても、白くうすらな色で世界が覆われてしまうばかりで、もはや輪郭のあるものは視界に入らない、というわけではない。確かに何かが見えるのである。
五月の中旬にここに現れた雅人と夏子とが見たものは、川の中から、石垣から生えた迷迭香の上で落ち着いた点滅をする、鮮やかな、承和色の、小さくて、あどけない花じみた光。雅人は感興を伴って接近し、それが逃げないようにと願いながら、(実際、その光は変わらず空を舞うだけだった)、両手ですくうように包んだ。ささやかだったはずの感興は捕まえる直前になって湧き上がり、捕獲を起点にいよいよすさまじいものとなってしまった。彼は恐る恐る強張った手の結びを解いた。彼は明瞭に蛍を確認して口の端を伸ばした。
「君も見るかい?」
雅人の質問に、娘は答えなかった。口を開かず、蛍の発光する様を凝視していた。雅人は問い直すが、夏子は答えない。同じ沈黙が流れるだけである。
「仕様のない人だ。そうやって、だんまりを決め込んでおくといいさ」
川沿いの道路を通った車の強烈なライトが二人を眩ませた。雅人は不意に目を絞り、それでも車に一瞥くれただけで、熱病に冒されたようにまた蛍を探しだした。目の子勘定で百匹ほどいるように推測された。
蛍は水と空気とがきれいな環境にしか生息しない、というのは人口に膾炙した説である。「きれい」という曖昧な言葉の定義はさておき、その手の学者や活動家どもが、かの皇居の御濠に蛍を定着せしめ奉るのに、月並みの努力では足りなかった。繁殖を目指して三年にわたる計画を立てたが、実際には五年を要した。結局在来種では間に合わず、外来種を一部用いたという。
一方で、発光する能力が配偶行動のために発現したというのはありがちな誤謬である。現在の昆虫学で主流となっている説は、蛍が自身の持つ毒を外敵に知らせ、警告をするために発現した、というものである。なるほどたしかに蛍の光は手に取ってみると明るいが、妖しい。
以上の通り希少を極めた昆虫が今、雅人と夏子の目の前に夥しく存在した。石垣に一本の太い木が生えていて、その枝にも煌々と輝いているため、反射する葉がほのかに明るくなっていた。あまりに数が多く、道路に止まっているものまである。まるで星が空から降って、地球に寄り道をしに来たかのようなこの灯に、雅人はある種悲惨な感想を加えた。
『この虫たちは確かに美しく輝いている、それに珍しくもあろう。どれも必死に光を放ち、活力を体現している。いやはや、こんな光景を見ることのできる場所がこの国に残されていたとは。神様のお恵みと彼の慈悲に感謝しなければならない。ところで、あのアスファルトの上の一匹や二匹を踏みつぶしたところで、問題になるまいよ』
牛蛙が一斉に鳴いて、喧しくなってきた。民家から出てきた子連れの夫婦が二人の目に飛び込んだ。子供は幼く、手にした懐中電灯の電源をせわしなく入れかえた。やがて口々に歓喜の言葉を述べた。
蛍の光は輝き、そして徐ろに失せてしまう。こうした光は一体すべてが鮮やかで、儚い刹那である。
娘が初めて口を開いた。
「蛍、とても綺麗だわ」
雅人はもう一匹の蛍を捕まえた。
「そうだね」
「こんなたくさんの蛍を目にしたのは生来初めてよ」
捕まえた蛍を夏子に見せてやると、放り投げた。
「ああ、こんなにたくさん光っている。君が喜んでくれたのなら俺はうれしいよ」
返す刀で、啖呵を切るでもなく、こう言った。
「ただ、こんなやり方は姑息でなくって?」
「同意しがたい」
星が一つ、夏子の腹のあたりに降りていた。
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