胎内回帰 作・麦茶
真夜中に目が覚めた。何か不可解な音の響きが、シイーンと耳の奥に残っている。カーテンの隙間から月光が差し込んでいる。寝汗で額にはりついた巻き毛を、手で払いのける。寝室は月の青い光に満たされている。焦燥がひたひたと迫ってくる。徐々に居ても立ってもいられなくなる。とうとうベッドから下り、寝室から出る。何か忘れているような……何かを何処かに置いてきてしまったような……しかし何処へ……。私は玄関扉に手をかけた。
外は満月だった。深海のような青黒い空に、月の光が冴え渡る。冷たい夜風が、家の周りの草むらを通り過ぎるたびに、ザザザ……と音を立てる。一歩踏み出すと、足はそれ自身が意志を持って、ズンズン前へと進み始めた。頬を撫でる風は青く、月の光芒は私の前方を真直ぐに照らしている。知らない土地に来てしまったかのような不安感が時折胸に兆すが、葉擦れの音にかき消される。
家の裏手に山がある。山といっても小高い丘のようなもので、私はたびたびこの山に分け入ってはひとりで遊んでいた。私は寂しい子供だった。物心ついた時には親はいなかった。学校に通う年頃になっても、この家でばあやと二人、のどかに暮らしていた。そのばあやも既に亡い。裏山は未だあの頃と変わらず、昼に見ればこんもりとかわいらしく、夜眺めれば腕を広げて迫ってくるようで恐ろしい……。しかし今夜の木々はおとなしく湿っていて、風にもさやさやとか弱い揺れを返すだけである。木肌に触れると掌がほんのりと温かくなった。幼い頃は、このぬくもりに触れるたび、母の膝とはこのようなものかと思いをめぐらせたものだ。ばあやの膝は柔らかく広かったが、母の膝の匂いやぬくもりや、肌から伝わる母の声を、私は知らない。
手を添えた木の向こうに、細い木立に囲まれるようにして、一本、黒々と太い樹木が立っている。私は彼を知っている。月光に照らされて、彼は今夜も海底の静けさをたたえている。近づくと、涼しい杉の匂いに交じって、ふと磯の匂いがする。彼の下には昔の魚や貝が埋まっていて、夜になると彼らの夢が夜霧になってゆらめく。私には磯の匂いとしか感じられないその夢が、彼にとっては自身に絡みつく悪夢に見えることもあるだろう。
彼の根元をぐるりと回ると、ちょうど反対側に、根に抱えられるようにして小さな洞窟が口を開けている。私は左足をそっとその中に差し入れ、土を踏んだ感触をとらえると、次に右足を入れ、最後に頭をくぐらせて、洞窟の中にすっぽりと収まった。海の匂いがいっそう強くなった。ばあやに叱られた時、山で遊んで少し休憩したい時、悲しい気持ちが晴れない時、たびたび身を隠してくれた洞窟である。洞窟の中は月光に淡く染まり、木のぬくもりが毛布のように全身を覆ってくれる。眠るにはちょうどいい案配だ。
しかし今回ばかりは、私は眠るわけにいかなかった。洞窟の先に、何か空間を発見したのである。何ということだろう! 二十年以上も友としてきたこの洞窟に、未だに私の知らない何かがあったのだ。それは左足を差し入れた瞬間に分かっていた。洞窟の奥は今まで杉の木の根に覆われて、堅い壁になっていたのだが、その根が弱くなったようで、根と根の間に空洞が生まれ、そこから風が吹いていた。この先にも道がある! 私の驚きと興奮は尋常ではなかった。ずぼんが土に汚れるのも構わず、私は洞窟の奥に足を踏み入れた。
洞窟の奥はしっとりと湿っていて、手をついた地面は柔らかくうねっていた。私は真っ暗な中を四つん這いで進んだ。そのくらい天井が低かったのだ。道はどこまでも続いているように思えた。海の匂いが私の鼻をくすぐり、私の背中を撫でて後方へ流れていった。この先にはほんとうの海があるのかもしれない。私は海を見たことがなかった。本や、絵や、ばあやの話から推測することはできたけれども、私は真実には母なる海を知らないのだ。私の知る海は、死んだ二枚貝の青灰色と、小瓶の中で揺れる、翡翠色に濁った海水の、塩からい匂いだけである。それらは夏、行商人がやってきた時に、そのポケットから取り出して見せてくれたものだった。今でも、私の体は山の中にあって、私の心は海を探している。
洞窟の先は少しずつ天井が高く、道幅が広くなっていった。時々首をあちらこちらに巡らし、掌で地面や洞窟の側面を撫で、自分のいる場所の状況を確認する。私が身動きするたびに、洞窟は女のように息を震わせ、磯の匂いを吐き出すように感じられる。今、この天井を上に向かって掘り進んだら、どこに出るのだろう。私は杉の巨木を遠く離れ、家からも離れ、見知らぬ土地で海を見る自分を想像した。海はこの世界を広く覆い、魚や貝や、様々な恵みをもたらしてくれるものだと聞いた。大地は海という水に囲まれ、頼りなく浮かんでいるものである。人々は海を渡って、大地から大地へと移動する。翡翠色に光る広大な海の、靄にかすんだ彼方から聞こえる、異国の笛の音……彼らをゆったりと運ぶ、不可思議な波……木々のざわめきにも似た、波間の合唱……。
波は何処から来て、何処へ行くのだろう……。
不意に、天井がとても高くなっていることに気づいた。そっと膝に手を当てて立ち上がると、難なく背筋が伸びた。手を天井に近づけると、木肌の感覚が指先をかすめた。少し踵を上げて掌でその木肌を撫でると、磯の匂いに紛れて、杉のすっとした匂いが零れた。
私は思わず息をのんだ。見えもしないのに目を大きく見開いて、私はその木の根を見つめようとした。いかにもそれは、私のゆりかご、私の隠れ家、私の友である杉の巨木の根に違いなかった。私は未だにあの木の下にいるのだった。前も後ろも分からない真っ暗な中を今の今まで進んできたのに、私は杉の木の真下から一歩も動いていないのだ! 幻覚を見ているのか、夢の中にいるのか、いや、待てよ、と私は口元に手をやった。徐々に洞窟の天井が高くなったと感じていたが、本当は天井の位置はそのままで、地面が少しずつ傾いたり曲がったりして、手狭な場所に長い長い道がつくられたのではないだろうか? つまり、この洞窟は途方もない回り道をしながら、杉の巨木の周囲を巡っていることになる。私はその答にとても満足した。同時に少しがっかりした。その考えが正しければ、私がこの洞窟を通って海へ行くことはできないからだ。しかし道はまだ続くらしい。どこかで、杉の巨木から離れる道が出来ているかもしれない。私は洞窟の壁に手を添えて、再び歩き出した。長い時間膝をついていたが、痛みはなく、気分はむしろ溌溂としていた。海の匂いが強くただよい始めた。
歩きながら、ふと、手についた土を落とそうと両手を擦りあわせたとたんに、私はまたも息をのんだ。自分の掌が、二十歳を過ぎた男のものではないことに気づいたのだ。青年の手というよりむしろ、これはまだ五つか六つの子供の手だった。つねってみると肉厚で弾力に富み、湿り気のある温かさをもっていた。背筋に寒気が走った。喉に手をやっても、返ってくるのはふわふわと柔らかい感触だけで、何の突起物も感じられない。膝は丸々と太り、少し土がついていた。頬も鼻も白パンのようにふっくらとして、髪は細くさらさらと滑り、アー、と声を出して耳に届いたのは、甲高く響く子供のそれだった。
自分が出したとは思えないその声が、暗闇に反響して溶けて消えるまでの間、私は一歩も歩けなかった。天井が高くなっていった理由が、今なら明確に分かる。天井が上がったのでも、地面が下がったのでもない、私が小さくなったのだ! 友達もなく、親もなく、たったひとりで山の中を歩き回っていたあの頃まで。とたんに私は泣き出しそうになった。心までも幼くなってしまったようだった。ばあやは何処に行ったろう。私は星も見えない洞窟の中でか細い身体を抱えているというのに、年取った彼女ではとても私を迎えにここまで来られない。洞窟から出なくてはならない。ばあやが待つあの家に、戻らなければならない。クリーム色の壁、レンガ色の屋根、暖炉の傍で丸い背をさらに丸めて、編み物をしている老女……。しかし、あの頃の家は失われてしまったのだ。今となっては、壁は緑と茶の汚らしい蔦に絡みつかれ、屋根には嵐の時に飛んできた小枝がいくつも引っかかっている。家は悲鳴を上げている。過去に戻りたいと叫んでいる。私が洞窟から出たとして、何の意味があるというのだ。私には家と共に、過去を思って泣くことしかできない……。
私は洞窟の先へ進んだ。右手を洞窟の側面にあて、目を閉じ、足を地面に滑らせて進んだ。その様子は、敬虔な巡礼者のように見えただろう。耳は手足が土を擦る音に満たされた。礒の匂いがこれ以上ないほどに強く香り、鼻はほとんど利かなくなってしまった。
そして、私はついに終着点に訪れた。今までまっすぐに続いていた土の壁が、いきなり立ち消えになった。驚いて目を開けると、目の前にうすぼんやりと、ささやかにひらけた場所が見えた。その先は木の根で塞がれている。太い血管のような根だ。右手にあった土の壁は大きく湾曲しつつ、その根の群れとゆるやかに繋がっていた。私はひらけた場所に立って、木の根にちょっと触れてみた。馴れた匂いがただよってきて、胸がすっと軽くなった。足がくたびれてしまったので、私はそこに座った。深呼吸をして、杉の匂いを身体の隅々に取り込んだ。腹の底から息を吐き出すと、春風のようにさらりとした眠気が私の全身を通り抜けて、そのまま私は地面に横たわった。指先がぽかぽかと温まって、頬に触れる土は柔らかかった。
ふと、私は足元をくすぐられたような感覚がして、そっと頭をもたげてみた。さっき私が入ってきた道から、するすると水が流れてきて、それが私の足元に溜まっているのだった。水は少しずつ地面を覆い、次第に水位を増すようだった。恐ろしさはなかった。私は海のことを考えていた。世界を覆い、異国の人々を運んでくる海……。水は私の口元まで迫ってきた。次には、温かい液体が私の鼻や口から流れ込んできた。手足はすでに、水に優しく抱かれていた。私は身体を小さく丸めた。見たことのない母を思った。全身が温かい水中に浮かんだ。母の胎内にいるようだった。胸の底から安堵が湧き上がってきた。私は満ち足りて、目を閉じた。
翌朝、クリーム色の壁、レンガ色の屋根の家で、可愛らしい巻き毛の男の子が生まれた。
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