モノガタリビョウ  作・紫水街

タンッと軽やかな音が響く。

「ふうう」ぼくは息を吐きつつ、ぐーんと背筋を伸ばす。今度の部誌に載せる作品を書き終わったのだ。執筆中に散々叩いたエンターキーも、最後の一回はなんだか嬉しそうな音を立てる。

 カチカチとクリックして文書データを保存し、パソコンの電源を落とした。

 何かを書き上げたときというのは気分がいい。特に今回はかなり悩みながら書いては消しを繰り返した作品だけに、喜びもひとしおだ。ぐるぐると腕を回し、凝り固まった筋肉を解した。ついでに首をごきごき鳴らしていると、ふと、なんだか、誰かに見られているような気がした。部屋の中を見渡してみたけど、まさか人がいるわけでもないし……。

 家の中は隅々まで見回ってみたし、窓を開けて外を眺めてもみた。誰もいない。誰もぼくを見てはいない。けれど人に見られているようなちくちくする感覚は消えない。だんだん気味が悪くなってきて、ぼくは頭をぶんぶん振って立ちあがった。

 気分転換だ。執筆終了のささやかなご褒美に、寿司でも食うか。

 ぼくは財布をひっ掴み、家を出た。

 夜の九時。家の近くの回転寿司店は家族連れの客で賑わっている。一人で入るのは少し憚られたが、今から友達を呼び出すのも申し訳ない。店に入って順番待ちの機械を操作し、しばらくすると茶髪の店員さんがぼくの番号を呼んだ。

「さて、何を食べようかな」

 席に着いて、回る寿司を眺める。一番好きなサーモンは最後に残すことにして、軍艦巻きあたりから食べていこう。いそいそと手を伸ばすと、指先になんだか不思議な違和感を覚えた。これは……風? 寿司から風が吹いている。どういうことだ。

 まあいいか。ぼくは構わず手を伸ばす。

 ばちん、と指が何かに弾かれた。

「えっ」

 何に弾かれた? ひりひりと痛む手をさすり、寿司をじっと見る。ゆっくり回転している普通の寿司にしか見えない……が、よくよく見ると微かにぼやけている。もう一度手を伸ばす。ばちん。また何かに弾かれた。

 そのとき、ぼくの脳裏にとんでもなく馬鹿馬鹿しい推論が浮かんだ。

 もしかしてこの寿司、実はとんでもなく速く回っているんじゃないだろうか。扇風機の羽根なんかを見ていればわかるが、ある程度速く回転している物体は逆にゆっくり回っているように見えるものだ。

 それなら寿司から風が吹いているように感じたことにも納得がいく。

「まさかね」

 苦笑した瞬間、首筋に生暖かい息がかかるのを感じた。

「ペナルティ」

 いつの間にか側に立っていた店員さんが、ぼくの耳元に顔を寄せているのだ。さっきぼくを呼んだ茶髪の店員さん。香水だろうか、かすかに柑橘の香りが漂ってきた。

「ここは超高速回転寿司。この寿司の回転速度を上回る速さで手を伸ばさねば寿司に触れることさえできない、高みに到達した者のみが賞味できる極上の寿司。しかし貴様は二度失敗した……よって命はない」

「はい?」

「問答無用! とりゃーーっ」

 店員さんが寿司の皿を振りかぶり、勢いよく振り下ろしてきた。

「うわーーーーっ」

 のけ反ったぼくの鼻先すれすれを通過した皿は、置いてあった醤油差しごとテーブルを叩き割った。

「小癪なっ」

 店員さんが飛び上がり、なんと天井に着地すると、そのまま懐から取り出した皿を手裏剣みたいに投げつけてくる。皿は床にガスガスガスと音を立てて突き刺さっていく。ぼくは転がるようにして店の外へと駆け出した。当たったら死んでしまう。まだ食べてないから食い逃げにはならないだろう、なんて緊迫感のないことを考えながらドアに体当たりして外に飛び出す。後ろを振り向く余裕はない。

 このまま逃げ切ってしまおうと左右も見ずに飛び出した道路で、ぼくは右手から来たトラックらしきものに跳ね飛ばされた。

 強い衝撃と同時に、一切合切が黒い砂嵐の中に沈んでいく。

 そして目を覚ますと、そこは不思議な空間だった。真っ白だ。上も下もわからない。ぼくはそこにふわふわと浮かんでいて、いや、床に立っているような感覚だけど床はどこにも見当たらないという不思議な状態だ。

 目の前にはふわふわとした光の塊のようなものがある。見ているうちに、それは突然ぐにぐに変形したかと思うと人のようなシルエットになった。そして一際大きく輝いたあと、そこには背中に白い翼が生えた女神様のようなものが悠然と佇んでいた。

「あなたは死にました」

 女神様は開口一番そう言った。ぼくは口をぽっかり開けた。

「これからあなたは異世界『クリスタリア』に転生することになります。通常攻撃が防御無視の無限回全体攻撃+毒、暗闇、沈黙、混乱、麻痺、恐怖、睡眠、石化付与になるチートスキルを差し上げますので選ばれし勇者として魔王を倒す旅に出てください。あなたのスキルは凄すぎて正直何が起こったかよくわからないため、最初に組んだパーティからは役立たずのレッテルを貼られて一度追放されますが、その後はあなたの強さを理解してくれてあなたのことが大好きで強くてえっちで猫耳だの翼だの尻尾だの爪だの牙だのが生えたかわいい女の子たちといくらでも出会えるようにしてますんで、好きな娘を好きなだけ選んでハーレムでもなんでも作って異世界スローライフしつつ元のパーティの人たちが落ちぶれていく様を散々コケにして見返すとよいでしょう」

 情報量が、情報量が多い。 

「そんなのいいんで元の世界で生き返らせてくださいよ!」

「欲のない人ですね。翼のない人だけに……なんちゃって……ふふっ」

「何笑とんねん」

「じゃあお望み通り元の世界に帰してあげましょう。特別ですよ? あなたを呼んでいる人の声が、ここまで聞こえますのでね……」

 女神様は元の光の塊に戻り、目の前で一際眩しく光った。呼んでいる人って……? その疑問について考える間もなく、白かった世界は急激に暗転し、ぼくは急に空中に投げ出された。上も下もわからない世界で何かに引き寄せられるようにして落ちていく。やがて何かとてつもなく大きな門のようなものを潜った瞬間、ぼくの意識は途絶えた。

 次に意識を取り戻したとき、ぼくは奇妙な模様が描かれた床に寝かされていた。視界がぼやけている。身体中がずきずき痛む。そうだ、ぼくはトラックらしきものに轢かれて、それから変な真っ白な世界で変な女神様と話して……それから……?

「よかった、目を覚ましたのね!」

 ぼくに抱きついてきたのは寧々だった。

「寧々! なんでここに?」

 寧々は小さい頃からずっと一緒に過ごしてきた幼馴染で親友で、正直結婚したいレベルでお互い好きだったけど向こうの親が許してくれなかった感じのアレだ。隣の家はすごく大きく、古くから続いてきた陰陽師の家系だから、寧々は顔も見たことのない強い陰陽師の男と結婚させられることが生まれたときから決まっていたのだ。寧々は外で遊ぶことさえ許されず、ぼくが遊びに行くといつも嬉しそうな顔をしていた。叶わないと知っていながら、いつか結婚しようね、なんて約束もした。だけどそれを知った相手方の親が烈火のごとく怒り、ぼくらは半ば強制的に引き離された。そうしてぼくは故郷を追い出されてこんな辺境の地の大学に通う羽目になってしまったのだ。ぼくは決めた。陰陽師の修行に励み、いつか誰よりも強くなって寧々を迎えに行くと。それなのにどうして……。

「君を蘇らせるために一族の掟を破っちゃった」

 床に描かれた模様が怪しく光った。多重円の中に重なるいくつもの図形とルーン文字。この文様、この様式は、寧々の家に代々受け継がれてきた、符呪を用いるものじゃない。明治の御代より伝わりし外つ国の技……魔術だ。

「私が持ってる知識をすべて……符術も魔術も全部使って君を冥界から取り返した。黄泉返りは禁術の中の禁術…あーあ、破門じゃ済まないかも」

 さらりと言うが、とんでもない術だ。少なくともこの年齢の陰陽師が一人で、何の対価もなしに行使できるような術式ではない。

 寧々がよろけて、血を吐いた。

「君の血が足りなくて、私の血を触媒にしたから……私の染色体が混じってるというか、損傷した君の身体を完全に元には戻せなくて……それで、あの、大事なものは失ったけど魂だけは取り戻せたから……」

 何を言っているのかわからなかったけど、ぼくはとりあえずよろよろしている寧々を支えるために立ちあがった。そして気づく。重力が変なところにかかる。具体的には、下半身にあるはずのものがなく、上半身にないはずのものがある。

 ぼくは目を剥いた。

「ない! ある……いや、ない! あるけど!」

「ごめん……」

 なんてこった、これからどうしよう。とりあえず一人称を私に変えるべきだろうか?

「説明は後。とりあえずここから逃げよう、早くしないと追っ手が来る」

 寧々に手を引かれるまま走り出し、家の外へ。

 外は暗かった。腕時計を見ても、まだ昼前なのに。空はこれまで見たことがないほど重く立ち込めた真っ暗な雲に覆われ、何やらゴロゴロと唸るような音も聞こえる。雷が近づいているのだ。

 瞬間、雲の中で何かがギラリと光った。

「しまった……! 大叔父さまの『雷雷雷世』が、もうこんなところまで!」

 寧々が言い終わるや否や、天が一瞬のうちに幾度となく明滅し、無数の雷が至近距離に降り注いだ。

「うわーーっ」  

 咄嗟に体を縮めて身を守ることしかできない。

 衝撃は、来なかった。

 おそるおそる目を開けると、目の前の地面から何かが突き出している。これは……金属の……棒? それは付近に落ちてくる雷をすべて引き寄せ、吸収し、怪しく唸っていた。

 助かった……いや、助かってない気がする。

 金属棒の真下の地面が突如ぼこりと膨れ上がった。

「ワーーッハハハハハハ」

 地面の下から土塊を撒き散らしながら立ちあがったのは全長十メートルを超えそうな金属光沢の巨人だった。艶やかな外装甲はチタンの煌めき……全身を駆け巡る磁性流体が滑らかな駆動と油圧以上のパワーを叩き出す、人智を超えた人工の浪漫!

「どうだ私の試製02ブロッケンは! 落雷の超高電圧をすべて吸収し、蓄え、動力源とする……局所的な雷雨は幸運の一言だったが、エネルギー充填が完了した今、この巨人にもはや敵はなし! 進め! 破壊しろ!」

 巨人が口元のスピーカーから吠えた。

 その音圧によってぼくは今度こそ吹っ飛ばされ、その勢いで近くの建物の窓を突き破って室内へと飛び込んだ。

「……困りますねえ、診察は順番を守っていただかなくては」

 分厚い眼鏡をかけた小太りの男が、ガラスと土まみれのぼくを眺めて迷惑そうに言った。

「あなたは……?」

「窓から飛び込んでおいて開口一番それですか。私は医者です。精神科の」

「医者! 精神科!」

 ぼくは叫んだ。よくわからないまま押し流されていたけど、この状況はあまりにもおかしい。相談しよう。幻覚なら幻覚でいいから。いやむしろ幻覚であってほしい。

「診察してください今すぐに」

「予約は?」

「予約を待ってたらぼくは死にます」

「皆さんそう言いますのでねえ」

「この短時間で、ぼくの周囲でものすごくいろいろなことが起こったんです」

「人の話を聞かない人ですね」

「寿司が高速回転して店員に襲われて、トラックに撥ねられて異世界に転生させられそうになって、幼馴染に蘇生されて、起きたら身体が女の子になってて、雷に打たれそうになって、金属の巨人に吹っ飛ばされたんです」

「重症ですね」

「どちらかというと重傷です」

 医者は顎に手を当てて、少し考え込んだ。

「……もしかしてですが、誰かに見られているような感覚が……」

「ありました! でもどうして」

 医師はぼくの言葉を遮った。

「もしやとは思いましたが、そうでしたか。発症者は少ないが、非常に特徴的な症例なのでね」

「では、ぼくはやっぱり……」

「ええ、病気です。しかし、鬱病や統合失調症のような精神病とは一味違います。大変特殊な病気です」

「特殊な……」

 ぼくはごくりと唾を飲む。

 医師は、ゆうに十秒ほど経過してからやっと重重しく口を開いた。

「あなたは『物語病』です」

「モノガタリ……ビョウ?」

「ええ、そうです」

 分厚いレンズの奥から、品定めするような視線を投げかけてくる。

「簡潔に言えば、あなたは主人公になってしまったのです」

「はい?」

「物語病患者であるあなたは、何かしらの物語の主人公になる運命なのです。それはミステリであるかもしれないし、ハートフルな童話であるかもしれないし、救いのない陰鬱な自伝であるかもしれない。誰かに見られているような感覚、それが発症の合図です。これからあなたの周囲には幾多の物語への誘いが大量に現れます。そして、そのどれかを選ばなければならない」

「どれか……?」

「そう、どれかです。どれでも構いませんが、ま、私ならできるだけハッピーなやつを選びますね」

「はあ……」

「いいですか、選んだ時点であなたの物語は確定します」

「確定」

「そうです。今のあなたは非常に不安定な立ち位置にいます。どの物語に派生するかが定まっていない状態なんです。でもあなたが辿る物語を一度定めてしまえば、あとはその筋書き通りに進むだけ。もちろん筋書きを事前に知ることはできませんが、でも予測はできるでしょう。突然現れた宇宙船に拉致されたならSFだし、突然お嬢様学校への転入が決まればラノベかギャルゲだ」

「……真面目に言ってます?」

「大真面目ですとも! 世の中で衆目に晒されるエンターテインメントとして出回っている物語なんて氷山の一角、いや、一粒以下に過ぎません。物語は今この瞬間にも人知れずノートに書かれ、あるいは頭の中で形作られ、増え続けているのです。そしてその情報濃度が一定値に達したとき……第四の壁は決壊し、物語は次元の狭間から溢れ出す。そう、あなたのように物語を生み出す人間を通じて」

「そんな……」

「まあ、治療法はないけれど適切な物語を選べば素敵な人生が待っています。そういう意味では一概に悪い病気であるとも言えません。頑張ってください」

 ぼくはふらふらと立ちあがった。

「出るときは扉を使ってくださいね。お大事に」

 言われた通り扉から出て、あてどなく進みながら医者に言われたことを反芻する。これからぼくの前には無数の物語の誘いが現れる……つまり昨日の夜から続くこの喧騒は、ぼくがどれかを選ぶまで終わらないということだ。

 ぼんやり歩いていると、いつしか病院の敷地の外に出てしまっていた。

 そこでぼくを待っていたのは、ずらりと立ち並ぶ黒い服の男たち。黒いネクタイ、黒いサングラス、体格や顔の造作まですべて同じに見えて気味が悪い。なるほど、これも新たな物語の誘いか。

「……今度は何ですか?」

 男たちは、答えない。

 さらに問い詰めようとして、ぼくは気づく。喋れない。動けない。その場から一切動けなくなっている。言葉を発することもできず、視線を外すこともできない。しかし目の前の男たちもまた、固まったように動かない。何が起こっている? ぼくはこれからどうなる? 動けないまま時間だけが過ぎていく。

 何も感じない。思考だけがぐるぐると巡る。いつだ? いつまでこのままでいればいいんだ? ぼくが主人公なら、誰かが助けに来るはずだ。それとも最近とみに増えてきた、主人公に激しめの苦難を与える系の物語だろうか。主人公がこのまま何年何十年と放置されるなんて、はたしてそんなつまらない物語があるんだろうか。いや、つまらなかろうが面白かろうが物語は誰かによって生み出された瞬間、確かに存在してしまうのだ。面白さの優劣など摂取する側の都合でしかなく、物語はただ純然としてそこにあるだけなのだ。

 考えたところで何もわからない。ひょっとして、ずっとこのままなのか? それはいやだ。助けてくれ。誰か。

 助けてくれ。





  *


「やれやれ、物語病の患者を診察したのは久しぶりだなあ。時折現れるが、根本的な対処法はない……結局あのように希望を持たせてやるしかないのだ。それとも、彼に言うべきだっただろうか? 生み出され続ける物語たち、そのほぼすべては『未完』のまま閉じているということを。ボツになった物語、もう続きが描かれない物語、未完のまま終わった物語……それらを引き当ててしまった場合、物語の途切れ目から進むことも戻ることもできず、永遠に囚われてしまうということを……」

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