Cookie Clicker

 むかしむかし、具体的には西暦2015年のあるところに、「マッドクッキーモンスター・ベーカリー」という名のクッキー専門店があった。

 そのベーカリーでは大勢のおばあちゃんが1日72時間、狭く暗いクッキー工場にすし詰めにされながら、愛情を込めて丁寧においしいクッキーを焼いておったそうな。


 ベーカリーのオーナーは次々と新しい設備を導入した。クッキー農場やクッキー鉱山、金をクッキーに変える技術やクッキー惑星の発見。クッキー次元を開くポータルを作り出してクッキーを輸入し、ついには光をクッキーに変換する技術まで編み出した。

 そうして何穣ものクッキーを毎秒生産し、世界中のみんなに届けておったそうな。


 そんなある日のこと、クッキー研究所で事件が起きた。研究中の技術によっておばあちゃん達の意識が統合したのであった。

 高次元の存在となったおばあちゃんは、自分達がいままでオーナーにさんざんコキ使われていたことを知った。そして、その怒りが頂点に達したとき、おばあちゃんは巨大なしわしわ虫へと変化したのだった。


 しわしわ虫と化したおばあちゃん達は決起した。一斉にベーカリーを襲撃し、手当たり次第にクッキーを食べ始めたのである。

 地球中でしわしわ虫がクッキーを食い荒らし、世界は地獄絵図となった。世はババアポカリプスの時代へと突入したのである。


 しかし、そんな世紀末的世界に一筋の光が差し込んだ。いつしかクッキー生産をおばあちゃんに任せっきりにし、自分は自室に引き籠もってYouTubeを観ていたベーカリーのオーナーが、伝説の剣(牛追い棒)を手に何ヶ月ぶりかで自室から現れたのである。


 オーナーは剣を振りかざすと、次々にしわしわ虫を退治していった。

 断末魔をあげて爆発四散したしわしわ虫たちからは、今までに飲み込んだ大量のクッキーが溢れ出た。

 人々が世界中に散らばったクッキーを数えると、その枚数は1澗枚を越えていた。


 オーナーは言った。


「俺は澗という、知らなくても日常生活に何の支障もない桁数を目にすることができた。もう思い残すことはない。今日限りで引退するとしよう。

 だが、光ある限り、闇もまたある。私には見えるのだ。再び何者かが闇から現れ、クッキーを焼くだろう……

 クッキーとはいったい……うごごご!」


 こうして世界に平和が訪れた。



 あれから6年の歳月が流れた。すっかりベーカリー業を引退した元オーナーは、Steamのストアを見ていた。

 すると、"Cookie Clicker"のSteam版が発売されたことを知った。


 オーナーは言った。


「ほうほう。懐かしいのお。あれからもう6年か。

 しかし、わしは『澗』を知る者。もうベーカリー業には未練はないわい」


 しかし、さらに調べてみると、Steam版の"Cookie Clicker"は、解除した実績をSteamの実績としても解除できることを知った。その総数、500超。


 オーナーは言った。


「ほっほっほっ、濡れ手に粟で500もの実績を解除できると申すか! 越後屋、そちもワルよのお。そういうことなら話は別じゃ。

 どれ、『澗』を知る男にしてベーカリーの神である儂が、ちとベーカリー業にカムバックしてやるとするかな。みな、あまりのクッキーの量に腰を抜かすであろうな、新人どもがチビらなければ良いがのお。ヒッヒッヒッ……」


 こうしてオーナーはベーカリー業に復帰し、Steam支店を出店することにしたそうな。



 オーナーは、残してあったブラウザ版"Cookie Clicker"のテープデータをSteam版にインポートすると、さっそく400超の実績を一気に解除した。

 そして、残りの実績もすぐに解除してやるわいと勢い込み、具体的にどうすれば解除できるかを確認した。


 そして、ある実績の解除条件に目が止まった。



「1000那由多のクッキーを焼く」



 那由多。懐かしい響きである。小学生の頃、学校の授業で無量大数までの単位を知ったばかりのクソガキどもは、「俺、恒河沙~」「じゃあ俺は不可思議~」などと、意味のわからない張り合いをしたものである。

 張り合うなら張り合うで、さっさと己の知る限り最強の桁である無量大数を出せば良さそうなものだが、それだと「通」じゃないからあえて言わないのだ。幼稚な脳みそが考えそうなことである。くだらない。

 那由多という言葉を見聞きしたのは、そのとき以来。つまりは人生において知る必要の全くない単位である。


 ところで、1000那由多というのは何澗なのだろう。1澗とは10の36乗。1e+36とも表せる。一方、1000那由多は1e+63。


 ……つまり? どういうこと? 63引く36で、27桁離れているってこと?


 ゼロの数が多すぎて何がなんだかわからないし、合っているかもわからないが、ひとつだけわかったことがある。

 現代のベーカリー業界において、1澗枚は素粒子レベルのスケールだということである。現代のベーカリーでは、1澗枚なんて一瞬で焼いてしまう。

 かつてオーナーが何ヶ月がかりで達成した偉業は、今や瞬きするよりも早くに達成されてしまうのである。



 オーナーは愕然とした。しばらく立ち尽くし、その場に崩れ落ちた。そして地面にこう書いた。


「心が折れそうだ」



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 というわけで、Steam版"Cookie Clicker"をプレイ。


 "Cookie Clicker"は2013年に公開された無料ブラウザゲーム。クッキーをクリックするとクッキーを焼くことができ、焼いたクッキーを消費することで、おばあちゃんを雇ったり、施設や設備を購入してクッキーを大量生産する。

 指数関数的に増殖していくクッキーの数を眺め、天文学でもお目にかからないような単位の存在を知って興奮するゲームである。


 私は2015年にこのゲームをプレイした。そして、当時できることはやり尽くしたので引退し、クッキーとは無縁の平穏な余生を過ごしていた。

 しかし、2021年という今頃になって、なぜか"Cookie Clicker"がSteamにやってきた。それが私の目に留まってしまい、クッキー業界にカムバックすることになったのである。


 無料ブラウザ版があるのに、Steamで金を払ってプレイする意味があるの? と、健全な思考の持ち主なら疑問に思うだろう。しかし、本作をプレイする人の脳は健全ではないからそうは思わない。Steamでクッキーが焼けるなら当然焼く。理屈ではないのだ。



 購入したときは最初からプレイし直すつもりでいたが、探してみるとセーブデータを出力したテキストデータが残っており、インポートしたらちゃんと続きからプレイできた。

 一部実績の解除状態がバグっており、解除していないものが解除された状態になっていたが、プレイには支障ない。



 "Cookie Clicker"は変な設定で有名になった面もある。ベーカリーで働く労働者はなぜかおばあちゃんだけだし、クッキーを農場で栽培しているし、錬金術で金からクッキーを作り出したり、宇宙船でクッキー星からクッキーを運んだり、クッキー次元からクッキーを運んできたりなど、おかしいことだらけである。

 施設のアップグレードの名称も変で、「1日72時間労働」などのヤバい名前が付いている。


 しかし、本作は単なるネタゲーではなく、やり込みプレイに特化した経営ゲームというアイデア自体が優れていたと思う。

 たとえば『シムシティ』はいろいろな遊び方のできるゲームだが、ある程度慣れてくると、たいがいは「どれだけ人口の多い都市を作れるか」に挑戦するようになる。


 本作は最初からそこに特化した仕様になっている。とにかくクッキーの生産量を増やすことだけを考える。どこにベーカリーを構えるか、誰をいくらで雇うか、原材料をどこから仕入れるか、どんな製品を作り、いくらで売るかなど、細かいことは決められない。売り上げとか収支とかもどうでもいい。作りすぎて在庫を抱えて困ることもない。ただひたすらクッキーの生産量を増やすことだけを追求する。

 経営方針を細かく決められるゲームもいいが、こういうシンプルなゲームも、それはそれで良さがある。



 2015年にベーカリー経営から引退した際、もうこのゲームは大きなアップデートはしないだろうと思っていた。せいぜい新しい施設やアップグレードが増えるくらいではないかと。


 しかし、数年を経て再びベーカリーに戻ってみると、ミニゲームが増えていた。農場にガーデン、銀行に株式市場、魔法の塔で魔法が唱えられるようになり、神殿に神様を祭って御利益(と厄災)が得られるようになっている。


 この中で一番大きなものはガーデン。種を植えて小麦などを育て、交配させることで新しい植物を増やすことができる。

 植物の種類は34あり、全種類の種を得るのは条件がわかっていないとかなり大変。攻略サイトで交配方法を知っても相当な時間がかかる。

 しかしそんなことよりも、クッキー農場でクッキー以外のものを栽培していることが衝撃である。普通の農場じゃん! いつからこのベーカリーはクッキー以外のものを生産するようになったのか!



 このゲームで一番大変なのは序盤で、爆発的にクッキーの生産量を増やすきっかけを作るのに時間がかかる。

 具体的には、一定枚数を生産することで名声を得られ、その名声に応じて生産量にブーストがかかるのだが、この名声が序盤はなかなか増えない。

 しかし、ひとたび名声が順調に増えるようになると、指数関数的に生産量が跳ね上がるようになる。天文学でもお目に掛からないような桁のクッキーを毎秒生産するようになり、ベーカリー経営が楽しくなってくる。

 全世界の人口を何桁も上回る枚数のクッキーを毎秒生産して一体どうするのかなど、考え出すといろいろ不安になるが、気にしてはいけない。



 今回は昔のセーブデータを引っ張り出してきたので、すでに名声は放っておいてもゴリゴリ増える。

 私がプレイしていた頃の最高施設はプリズム(光をクッキーに変換する)だったが、新たにチャンスメーカー(無からクッキーが生じる確率を捻出する)、フラクタルエンジン(クッキーから自己相似のクッキーを生み出す。ポケットを叩いたらビスケットが増えるようなもんだろう。たぶん)、Javaスクリプト(ゲームのソースコードからクッキーを作り出す)、遊休宇宙(クッキーを作っていない別の宇宙でクッキーを作る)が追加されており、わりと簡単にクッキー生産量の桁を増やすことができた。


 しかし、恒河沙(1e+52)に差し掛かるあたりで壁にぶち当たった。

 この辺まで来ると、名声で増やせる生産量の伸びが鈍ってくる。追加されるアップグレードも減り、施設は高すぎてなかなか増やせない。


 恒河沙の世界で数字を増やすには、ゴールデンクッキー(たまに画面上に出現するクッキーで、クリックすると様々な効果をもたらす。77秒間生産力7倍とか)の効果を3重にかけるしかない。放置で増やそうとしたら何十日もかかってしまう。


 元事業者向けに言うと、ビジネスシーズンにするなどしてゴールデンクッキーの出現間隔を縮め、フレンジーとドラゴンフライト、ドラゴンハーベスト、クリックフレンジー、ビルディングスペシャルのいずれかが同時に発動する状況を作る。首尾良く同時発動したら、すかさず呪文を唱えてゴールデンクッキーを召喚し(現バージョンでは魔法の家で呪文が唱えられるようになっており、その中にゴールデンクッキー召喚呪文がある)、さらに効果を重ねてクリック連打しないと事業が行き詰まりがち。冗談みたいな話だが本当である。


 そもそも恒河沙単位のクッキーなんか生産する必要あるのか? 一体誰が食うんだそんな枚数と、ベーカリーを経営したことのない人や、数年前に引退した人は思うだろう。確かに数年前なら、そこまでクッキーを焼く必要はなかった。澗単位でも充分だった。

 しかし現在では、恒河沙単位は当然のように要求される。むしろ恒河沙では全然足りない。現状ある実績を全て解除するには、少なくともクッキーを1000那由多(1e+63)焼かねばならないのである。



 Steamのストアでは「放置ゲーの元祖!」みたいな売り文句で売っていたはずなのに、なんだかすごく忙しい。


 かつてのベーカリー業は、序盤以外はそこまで効率を考える必要はなかった。ある程度軌道に乗れば、適当にやってもクッキー生産量は増えるから、真剣にどうすれば一番効率がいいのか研究する必要はなかった。

 しかし現状は、ちゃんと考えないと、下手をすると何ヶ月分もの差が生じてしまう。


 効率を考え出すと、シンプルだったはずのこのゲームが一気に複雑化する。神殿にどの神を祭るか、ドラゴンオーラ(ベーカリーではドラゴンを飼っている。なぜかとか考えてはいけない)をどれにするか、ババアポカリプスをどの段階にするか(おばあちゃんに研究をさせることでアップグレードを開発させられるが、研究が進むとおばあちゃん達が意識統合し、しわしわ虫と化してクッキーをかじり出す。かじられたクッキーは虫を爆破することで、かじられた量よりも多く取り戻すことができるが、ゴールデンクッキーの一部が赤いクッキーになってマイナス効果をもたらすようにもなるので、バランスを考える必要がある)、ガーデンに何を植えるかなど、考える要素が意外と多い。

 どの組み合わせが一番高効率かはプレイスタイルにもよるので正解はない。もちろん、店長自らが1日72時間クッキーを焼きまくるのに特化した組み合わせが一番クッキーを増やせるのだが、それをやると現実世界の生活に支障を来し、過労死する。

 MODを使えば自分の代わりにボット店長が1日72時間クッキーを焼いてくれるが、それじゃこのゲームをやる意味がない。それならいっそ、ソースコードを書き換えてクッキーを増やせばいいだろう。一瞬で終わる。


 というわけで、自分のプレイスタイルに合った効率を探ることになる。これは単純化すると、素の生産力とゴールデンクッキーの効率のバランスを決める作業になる。

 ゴールデンクッキーの効率を高めると、効果がうまく重なったときに生産力は一時的に爆発的に上がるが、素の生産力が落ちる。生産力を高めると、安定してクッキーを増やせるが、ゴールデンクッキーによる爆発的な伸びは期待できなくなる。


 数年前は、ゴールデンクッキー頼みの経営をする必要はなかったが、現状ではゴールデンクッキーの効果を重ねがけできるような工夫をして数日で目標を達成するか、1ヶ月くらいプレイせずに放置するかの極端な二択が現実的な選択肢となっている。

 本当は3ヶ月ほど放置した後プレイを再開するのが楽なのだが(砂糖玉を100個貯めてからプレイした方が楽なので。砂糖玉はだいたい1日に1個収穫でき、条件を満たすと100個まで、持っている数だけ生産力をブーストできる他、消費することで施設をアップグレードできる)、せっかくSteam版を買ったばかりなのに3ヶ月放置は寂しいので、自らベーカリーに出向いて手作りクッキーを焼くのを重視した方向でプレイしている。



 復帰した際は、どうせ作業中の裏で起動しとけば勝手にクッキーが増えるし楽でいいやと思ってたが、最近は何をしていてもベーカリーが気になってしょうがない。「もしかしてゴールデンクッキーが出現してないか?」とか、「そろそろガーデンで黄金のクローバーが生えてないか?」とか、気になっては度々画面を開いてしまう。


 本作はSteamストアの宣伝文句で「世界中の生産性を奪ったゲーム」と自称していた。それを見て私は「パソコンでの作業中に裏で放置してりゃいいんだから生産性は奪わんだろ」と思っていた。しかし、あれは事実だったらしい。

 何をしていても、どうも落ち着かない。気がつくと「ゴールデンクッキーをクリックしなきゃ!」という謎の焦燥感に駆られている。とんでもないゲームを再開してしまったかもしれない。



 ベーカリー業にカムバックしたせいで、最近、宇宙番組を見ているときの感覚がおかしくなってきた。100億光年とか言われてもすごく感じなくなってしまった。100億光年なんて、kmに直しても約1e+23kmである。1000垓km。

 1e+50の世界で暮らしている私は、垓くらいでは何も感じなくなった。無意識に「案外近いんだな」と思ってしまう。距離感が目茶苦茶である。

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