期待と不安(当日譚2)
三途の川の向こう側を見たかのような錯覚に沈んでいた私の意識は、「姉ちゃんどういうこと?」の声で、現実へと引き上げられた。
意識を叩き起こし目の前の事実に目を向ける。リビングの前では望が頭を下げている後ろ姿が見受けられた。髪の毛がゆらゆらと揺れており、まるで私の足元の様におぼつかない。
「待って、違うのそれは友達として…」
必死に言い訳を、一言一句を吟味しながらの発言を試みる。色々なことが頭をよぎったがそんなものは父親の大きすぎる一言で真っ白に漂白されてしまった。
「娘はやらん!」
その場の空気を感じ取って妹は自室へ引き帰ったらしい。まったく、無慈悲な奴だ…
***
気がつくと父親を眼前にして望と二人、木製の椅子に腰掛けていた。先程まで読んでいた新聞なんてただのゴミと化したかのようにぐしゃぐしゃと、横に投げ捨てられている。今日の株価だけが認識できた。
「あの、お父さん…?」
「叶は黙っときなさい」
久方ぶりに父親の冷たい声を聞いた気がする。大学に入ってからは割かし自由にさせてもらえていたので、こんなに真剣なお父さんを見るのも随分と昔のように感じた。
隣を向けばこちらも笑ってしまうほど、そして見た事ないくらいに集中していたから何も言えない。
複雑な気持ちでこの場の空気に触れる。触れてしまえば凍ってしまうほど冷たいのに。
「…それで、なんだ。叶と付き合ってるんだって?」
「はい。天野望、叶と同じ大学に通ってます。半年ほど前からお付き合いをしていて将来もずっとそばに居たいと思って…いやそばにいます」
着ている服も相まって、まるで面接のようだった。背筋もピンっと立っているし、空気が鉛のように重い。
「将来なんて簡単に言うが、そんなこと分からんだろう」
冷たく言い放つ。言い放たれた言葉は鋭く私に突き刺さった。望はどうなのだろう。
父の言葉をどんな風に受け止めているのだろう。
「私が…女だから、不安なんですか?」
本当に躊躇という言葉を知らないのだろうか。望はドが何個も付くくらいに直球に問うた。
「不安だな」
薄いオブラートに包もうともせずに父がそう続ける。私は無意識に望の手を握ってしまった。机の下で、ゆっくりと。恐怖にも似た気持ちを押し殺すように。
繋がれた先の指先は凍ってるかのように冷たくて、それが緊張の証だということに気づくのも時間はいらなかった。
「これから君と人生を歩んでいくことに連れて、叶はどうなる?叶に降りかかる偏見の目や誹謗中傷の痛みが、私は心配なんだ 」
望もすぐには言葉を返せないようだった。父の発言はあまりにも正論で、正しくて。
否定しようがないくらい正しい言葉は時に、人を傷つけてしまう。
胸の奥が酒焼けたように熱い。その熱エネルギーの大元はなんだろう。父から伝わる無遠慮な優しさ?望との関係が否定されるかもしれない恐怖から?
消されていたテレビ画面にふと視線を送る。そこには父親の広い背中と私、望の姿がくっきりと反射されていた。反射される望と視線は、交わらない。本当に真剣そのもので、父と交差している。そんな中私だけが現実を見ていなかった。
父と望は話し合いにも似た怒涛の言い合いを繰り広げているのだろうか。耳たぶが閉じてしまったかのように話が入ってこないのでよく分からない。
暗黒面に引き込まれそうになり、将来のことへざっとした懸念を思い浮かべる。
「お父様の気持ちは分かります。だけど、ひとつだけ言わせてください。これはただの希望論や理想論なんかじゃないです」
絶望の縁でどうしようかと迷っている私を無理やり望は引っ張りあげた。転んだまま気が付かなかった傷口をそっと撫でるように。
握られた右手にグッと力が入る。
父の反応は薄く、コクリと頷いただけだった。
「叶のことは私が幸せにします。私にしか、幸せになんて出来ません」
それは戯言にも聞こえてしまうかもしれないセリフ。子供が後先考えずに言い出してしまうような、根拠なんてありやしない簡単に崩れてしまう戯言。責任なんて一切考慮してないようにも聞こえてしまう。
「何か勘違いしているようだが」
父が声のトーンをひとつ上げて言葉をゆっくりと紡いでいく。
「私は君たちのことを頭から否定しているわけじゃないよ」
私たちの目をしっかりと見つめて、押し付けるんじゃなくて優しく包み込むような。
「同じ性別同士で付き合うことに私は何も違和感なんて覚えやしない。だけどやっぱり大事な愛娘だからね、他人事にはなれないんだ」
「分かります」
隣にいる望も強く頷く。
「だからそうだな…うん。本気で君が叶のことを愛しているのなら、人生に寄り添ってくれるのなら、この子を守ってやってくれ。守れる自信は…あるかい?」
──降り注がれるかもしれない偏見の目から
「もちろんです。私にしかできないことですから」
ハッキリと口に出す。望もリビングに広がる酸素が弛緩するのを許さないようだった。
そのやり取りに私だけが取り残された気がした。
「で、でもお父さんショックやないと?私の子供が見たいとか…結婚して欲しいとか…」
どうして私がこんなこと言わなきゃいけないのだろう。20年近く育ててくれたこの人に幻滅されるのが怖いからだろうか?父の本心が聞きたいと思った。父の思いを汲み取って。
「孫の顔だって確かに見たいと思う。けれど、お前の笑顔が消えてしまうのならそれ以上に辛いことはないからね」
そこで厳格な父とは思えないほどの儚げな微笑みを向けられる。空気が一変して緩い風が吹き込んできた。
「あとな、ウェディングドレスは見るぞ。これだけは譲れん、お父さんの夢だったんだ。愛しの娘が純白の衣を纏う日を目に焼き付けとかなきゃならん」
「私も叶のウェディングドレス見たい」
二人の視線が私に刺さる。うう、何だこのプレッシャー。
「得した気分だ。二人分も見られるんだからな」
「…え?」
ここで初めて望からの動揺を感じた。ガタッと椅子が傾きかけるほどの振動が右手越しに伝わる。
「なぁ、母さん」
「そうねぇ、望ちゃん美人さんだからきっと白いドレスも似合うわ」
今までずっと黙っていたお母さんが口を開く。
その表情はやはり雲ひとつなく晴れやかだった。
「…ありがとうございます」
動揺を隠すためなのか、反応が薄いけれど私にはわかる。そんなふうに嬉しそうな望が素直に恋しくなった。
「ていうか最初に"娘はやらん!"なんて言うもんだから絶対許して貰えないと思ってた…」
私は最初から感じていた不安を無愛想に口に出す。拗ねたようにも見えてしまうその姿はやはり親にとってまだまだ子供なのだろう。
「ふふ、そうね。お父さん昔から意気込んでたもの。もし娘達を自分から奪いに来るような輩が来たらこのセリフを言うのが夢なんだって」
父の方を向くと気恥しいのかポリポリとこめかみを掻いている。意外と茶目っ気のある父だなぁ、なんて今更ながらに気がついた。
男とか女とか本当に元から関係なかったのだろう。ただ私の幸せを願ってくれているだけ。
「まあ、そういう事だ。望ちゃん、叶をどうかよろしく頼む」
「私からもよろしくお願いします」
そう言って二人同時に頭を下げるもんだから少し笑ってしまう。
リビングの中心には形のないものが浮いていて、目には見えないけれどこれが期待や不安の根底にある同じ種類の希望なんじゃないかなって。そんなふうに考えられるくらいには私も余裕が出来たのだった。
皮肉だが、その余裕の溝にハマってしまったばかりに二階の階段から覗く妹の冷ややかな視線に気付くことなんて出来やしなかったわけだけど。
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