錯覚と自覚
初めてのデートは『成功した』と言っていいのだろう。手も繋いだし、キスもした。ちゃんと恋人らしい順序を踏んでいる。しかしそれは、望がねだった結果なのだろうか?
手を繋いだ
キスをした
望が私といる理由は明瞭だ。
『恋愛というものが本当に必要なのか』それを知りたいがために私の側にいてくれる。
キスをするという行為にだって、そこにはちゃんと愛情が含んでいないと意味が無い。含んでないのならそれはただ唇同士を合わせた、ただの行為ってだけだ。
目を瞑って不安を口から吐き出す。誰もいない部屋で自分の心情を吐露したって現実は何も変わらない。自分が動かなきゃ変わってくれやしないのだ。
明日、ちゃんと聞こう。望の本当の気持ちを。
昔は常日頃から正直に生きなさい、嘘だけは絶対に許されない行為だと親から教えられてきた。しかし大人になった今の私は嘘を盾にして嫌なことから逃げてばかりだった。だからだと言うのもおかしいが人の本心や本音を聞くのが大の苦手分野である。相手の胸の奥を覗きたいのなら、自分も隠してはいられない。
望のことばかり考えていた私の寝付きは良いわけがなく、一限の授業に寝坊しそうになってしまった。隣に立っている望からは心配そうな視線が送られてくる。貴方のせいですよ。
聞かなきゃ。望の袖に手を伸ばす。しかし伸ばされた腕は宙を切った。
「やばい、授業遅れるよ。ほら行こ」
私の勇気はあっけなく散ってしまった。
そのあとの授業も結局は空ぶってしまい、なかなかに聞き出すタイミングが無い。周りに人がいてはダメなのだ。大勢の前で『ねぇ、私の事好き?』なんて聞けるだろうか。想像しただけで顔から火が吹き出しそうなのに。
「ごめん、今日はこれから予定があるんだ」
いつもと同じように望のアパートに向かうものだと思っていた。そうなったら2人きりだ。思う存分聞いてやる、聞き出してやる。そんな風に意気込んでいたのに。
初めてそんな事を言われたので一瞬動きが鈍ってしまう。関節が錆びたみたいに動かしずらい。望はしきりにスマホの画面を気にしているみたいだ。なんだろう、胸がざわついては騒々しい。
「そ、そっか。じゃあまた明日やね」
「もしかして寂しい?」
ニヤニヤとこちらを覗き込む望の頭を手で押しかえす。ああ、また正直になれない。『いかないで』なんて言うのは簡単だ。しかしその後の望の反応を考えるのが怖くて言い出せない。こんな風になるならこんな気持ちなんて知りたくなかった。
「また明日ね」
そう言って手を振る望の後ろ姿を何も言わずに見送る。見送って、ばかりでいいのだろうか?行動を起こさないと何も変わらない事は分かってるじゃないか。こんなとこでうじうじ悩む暇があるのなら少しでもなにか起こさなきゃ。
望の後ろを気づかれないようについていく。直接聞く勇気がないのなら自分の目で見届けよう。望がまたあの風俗街に向かうのならその時はちゃんと引き止める。そしてその時こそちゃんと自分の言いたい事をぶつけるのだ。
いつもと同じ電車に乗った望は一駅で降りてしまった。あれ?風俗街って全然場所違うよね?挙動不審になりながらも同じように電車から降りては隠れながらの移動に試みる。望は誰かと通話しており、電柱の後ろに身を潜めている私の事には全く気づいていないようだった。それが少し寂しくて、虚しかった。いや、気づかれたら絶対やばいのでそれで良いのだが。
望が誰かと話しているところなどあまり見た事がない。私が隣にいるから、ってのもあるのかもしれないが友人がいるタイプにはどうしても考えられない。本当に私が言えたものでは無いが。私以外の誰かと通話している。その事実が胸に突き刺さってしまう。チリチリと焼けるように痛むこの感情はなんて言うんだっけ。
この駅で降りたことからだいたい察しはつけていたのだがやはり最終のゴールは望の家だった。じゃあ予定っていうのは一度帰宅してから行うのだろうか?ふと脳裏にめいっぱいメイクをして出ていく望の姿がチラついた。それこそ風俗街にピッタリな服装をして。
頭をこれでもかってくらい振り回す。だからそうなったら止めるんでしょ。
寒気と戦いながらそのあとの結末を見届けようとしゃがんで待ってみる。その結末のせいで自分が後悔するなんて全く知らずに。
十分くらい経っただろうか。そろそろ私の両手も霜焼けになりそうだった。帰ることも視野に入れ始めた頃、誰かが望のアパートに近づいていくのが見える。
「あっ…」
その人物は遠目からなのでよく分かりずらいが女性のようだ。そのままアパート横の階段を登り望の部屋まで一直線に歩みを進める。止まらないで。望の部屋のドアの前で…立ち止まらないで。
そんな願いは誰にも聞き入れられるはずもなく。
インターホンを鳴らしたその女性を迎え入れる望。その顔は私だけに見せていたと思っていたあの笑顔だった。
ここで私は初めて後悔する。望を追いかけたこと。望を…好きになったことを。
「所詮、こんなものだよね」
誰もいやしない、そんな道の端っこで呟いたって誰も助けてなんてくれないのに。冬の寒さで乾燥しきった頬に流れるこれは誰の涙だろう?
都合が良かっただけ。取り替えのきく存在だっただけ。私なんてそんなちっぽけなものだったのだろう。望からしたら別に誰でも良かったはずだ。初めから全部嘘で、近づいてすらいない。一人だけ好きになって舞い上がっていた馬鹿な私。代わりなんていっぱいいたのにね。
走る気力もなかった私はどれくらいの時間をその場で蹲っていたのだろう。こんなこと前にもあったな。望と初めて出会った日も私はぐちゃぐちゃに壊れかけていた。それは望によって直してくれたはずだったのに、その手でまた壊されてしまった。ズキズキと貫くこの痛みは本当に私の身体なのだろうか。
「帰らなきゃ…」
こんな場合でも帰巣本能は働く。
私の帰る場所はここじゃないから。
何とか電車で我が家に帰りついた私は自分の部屋に引きこもった。一階から私を呼ぶ母の声が聞こえたが少しだけ、今は一人にして欲しい。
カーテンも締め切った真っ暗な部屋にはスマホの画面だけがぼやっと光っていて眩しい。
吐き出してしまいたい思いはホコリのように簡単に積もっていく。しかしその言葉の群れを吐き出してしまえば喉が詰まって噎せてしまいそうで。
無理やり自分の胸を叩くがそんなの意味なかった。息苦しく、吐き気と目眩が私を容赦なく襲ってくる。
心が張り裂けそうってこういうことを言うんだな。私の心は割と繊細だったらしい。
『会いたい』
そんなメッセージを送ってしまうほど、今の私の思考は機能などするはずもなく。
元カノの時とは少し違う激しい後悔とやり場のない嫌悪感に、何かが遠くで砕けてしまう音がした。
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