幸せへの片道切符
望が好きだという水族館には多くの人で賑わっていた。頬を突き抜ける風が冷たくなってきたのもあってか、やはり暖房器具の付いた室内施設は人気なのだろう。まさかこの寒さで海に行くバカなどいないだろうし。
「大人二人分お願いします」
慣れた手つきでチケットの注文を済ませる望。流石にここでは自分のお金くらい出すよって言っても「大丈夫、今日は私から誘ったんだし」と、私の財布を開けさせてくれない。それだけに飽き足らず、自販機に売ってあるホットココアまでご馳走してもらう様となってしまった。
リードされてばっかりで癪だが望を少しだけかっこいいだなんて思ってしまう。本当のデートみたいでなんだかドキドキと気分が高揚するのだ。女同士だから…女心が分かるってやつなのだろう。そういえば望には最初っから適わなかったし。
「ちょ…こんな所で」
身体が冷えてもいけないので足早に水族館の中へと向かったのだが、望と繋がられている指先がさらに熱をこもらせる。
望の細長い指が私の右手に深く絡み密着しては離れない。いわゆる恋人繋ぎと言うやつだ。
「別に変じゃないよ、女の子同士ならこういうスキンシップ良くするでしょ?それにほら、周りカップルばっかだし」
言われて周りを見回したがなるほど、やはり水族館はいいデートスポットなのだろう。どこもかしこも手を繋いでいる男女カップルの姿が目に映る。だけど女の子同士だからといって恋人繋ぎをする友達がいるだろうか?私がそういう友達がいなかったから違和感を感じるだけなのかな…
「嫌ならやめるけど」
こっちに顔を向けて、目が合う。そんな顔されて振り払えるわけがないじゃん。
「別に、寒いからちょうどいいよ」
ちょっとだけ強がりながらも薄暗い水族館特有の暗さに導かれるように足を進めた。
水族館なんて子供の頃、親に一度だけ連れられて来た覚えしかない。だけど水族館の雰囲気は好きだった。静かで常に適温に設定されているこの場所はなんだか心が落ち着くような気がして。
今日はやけにくっついてくる望は無言でジーッと入口付近にあるお土産コーナーを見つめていた。何を見ているんだろうと自分も視線を動かしたがどうやらクラゲのキーホルダーにご執心らしい。ふーん、可愛いところもあるやん。
「まず何を見に行くん?」
「んー、特には決めてなかった。叶は好きな魚とかいるの?」
「好きな魚ね、チンアナゴとか」
「チンアナゴって…魚?」
「た、多分」
結局は入館してすぐにイルカとペンギンのショーがあるとの放送が流れたのでまずはそちらを見ることにした。
ショーは室外で披露されるらしく間に合うように向かったがもう既に多くの人が席に着いてしまっている。生憎空いていた席は水しぶきのかかる前の方だけだった。濡れるのを防止するための透明のカバーみたいなものは置いてあったがあまり意味は無さそうだ。
ショーまでにはまだ時間がある。しかしいつもとは違う雰囲気に呑まれてしまい会話は続かない。無言で時間が流れてしまう間、浮かぶのは話題ではなく冷や汗ばかり。
手持ち無沙汰になってしまった私は無言で携帯電話を出して弄るだけだった。右手は繋がれているから左手で不器用に画面を叩く。やはり強く意識してしまう。こんなふうに望と出かけたことなど無かったから。
望の横顔をチラッと伺うと、ぼんやりとイルカが目の前を泳いでいるのを眺めているだけで何を考えているのかはわからない。
一人だと意識する必要も無いので辛くない無言の退屈。望がいると気を使ってしまい変に疲れてしまう。だけどこうした疲れはなんとも心地の良い気だるさで嫌いにはなれない。
「もっと近くで見ようよ」
「うん」
持っていた荷物を座っていた席に置いて立ち上がる。自分の背丈寄りは少し低い、イルカの泳いでいる水槽まで歩いていって、コツコツと指で軽く突いてみた。分厚いガラスはそんな振動など通さないのだろう。本当に水の抵抗など感じているのか、すごい速さで泳いでいる。そんな私たちを呆れたような目で見ているような。んなことないだろうけど。
「めっちゃ速い」
「ほんと」
「叶だったら乗れそう」
「え、なんで私?」
「特に理由はない」
そんな意味の無いやり取りをしていると笛を首からぶら下げた女性の飼育員がショーのステージに高い声を発しながらやってきた。こんな寒い中笑顔でご苦労さまです。そそくさと自分の席まで戻り、なんだかんだショーを楽しむための準備を始める。
初めて見たイルカショーはなんとも目を引くものがあった。飼育員の動きと連動して跳ねたりボールを鼻の上で転がしたりと、頭のいい動物なんだな。水面に飛び込んで、泳ぎ回って、息継ぎを繰り返して。また、深くまで沈んでゆく。イルカたちは水中で何を考えているのだろう。餌一つでここまで芸を覚え込ませられるのか。…イルカも大変だな。
「ほおぉ…」
いつもは澄ました顔の望でさえ目をキラキラと輝かせている。…キラキラしてる!?こんな望の姿を見るのは初めてだった。ショー中は一言も言葉を交わす事がなかったがどうやら集中していたらしい。
「めっちゃ凄いじゃん…イルカ…」
そんなに関心出来るのも凄いと思う。やっぱり魚、好きなんだろうな。
別に特筆するようなことでは無いんだけど、やっぱり超濡れた。もう寒くて寒くて。望が楽しそうだから、いいけど。
「次はペンギンだって」
「ペンギン…期待」
どんだけ楽しみにしてるんだよ、とちょっとクスッとしてしまう。そんな横顔はとても可愛いなんて。
ベンギンの方はイルカとは違い笑いを誘ってくるようなショーだった。合図に合わせてコテっと転ぶペンギンの様子はただただ微笑ましい。
「ペンギンって望っぽいよね」
「え、どこが?」
「なんか気づいたらボーっとしてる所とか」
「…そうかな?」
全く自覚がなさそうに首を傾げながらこちらを見るその姿もペンギンを想起させるのだが黙っておこう。
雰囲気が少し似てるのだろうか。
望と私も似ているのかもしれないとその時思った。上手い下手いの差はあったとしても人付き合いに対する姿勢は共通する部分もありそうだと感じる。そういう部分に、もしかしたら少しだけど惹かれているのかもしれない。
「次、回ろっか」
そのまま柔らかい手に包まれてショーを後にした。
多くの魚が展示されていた。しかしその中でも私の中で一番のお気に入りはやっぱりチンアナゴ。
水槽の近くまで行くと私たちの影に驚いて頭を引っ込めてしまった。しばらく待ってみると恐る恐る顔を出してまた長時間同じ姿勢でユラユラと揺れている。つい、怖くないよーだなんて言ってしまいそうだ。
ちなみにチンアナゴはちゃんとした魚らしいです。
「チンアナゴ、叶に似てる」
「いやいや、似てないって…」
「ちょっと驚かしただけで地面に隠れちゃうとことかそっくりだよ」
…まさかさっきのペンギンの仕返しだろうか。口をつぐんで望を訝しむが相手からはただただ優しい視線が送られてくるだけだった。こりゃ本当に似てると思われてそうだな。まあ言われて、自分でもそうかもしれないなんて考えちゃったけれど。
「隠れちゃうけどじっと待っているだけでちゃんと顔を出してくれるでしょ?ほんと、待つ側の気持ちも察して欲しいよね」
何を言いたいのだろうか。それは分かるようで分からない。いや、分かってしまえばきっと私はそれを否定する。
10分ぐらいチンアナゴとにらめっこを続けていた気がする。そんな中、望だけがにらめっこ中の私を見つめていた。
そろそろ他のところも回ろうかと館内の順路に従って歩き出す。私の知らない魚ばかりだ。途中タコなんかもいたが感想としては美味しそうとしか思えない。久しぶりにたこ焼き食べたいなぁ。
「クラゲって綺麗だね」
クラゲ水槽の前で望が立ち止まる。
鮮やかなLEDの光がクラゲに反射してここだけが他の場所と少しだけ違って見えた。
「自由にふわふわと浮かんでられて、こいつらは幸せだ」
「そうかもね」
「こんな小さな水槽の中で強制的に縛られて可哀想だ、なんて言う人もいるけれど、どうしてその人たちはクラゲの幸せを決めつけるの?」
それは多分私に聞いているわけじゃないのだろう。まるで自分に言い聞かせているようにも聞こえてくる。
「きっとその人たちは自分だって小さい箱に押し入れられて、ルールという安全な物に守られているのに。自分が幸せだって気づけない」
「幸せ…」
「小さい箱の中でさえも自由にさせて貰えない人だっているのに」
それは望自身を嘆いているのだろうか。また私は聞けないでいる。
「叶はどう思う?」
「え?」
「人魚姫の話、聞いたことあるでしょ?」
人魚姫。人間の王子様に一目惚れをしてしまった人魚が自分の美しい声と引き換えに人間の足を手に入れ王子に逢いに行く。しかし王子は隣国のお姫様とついには結婚してしまい、悲嘆に明け暮れる人魚姫。そんな時自分の姉から手渡されたナイフで王子を切り裂けばもう一度美しい人魚に戻れるという。
結局、人魚姫は王子を殺すことは出来なかったんだっけ。そのまま人魚姫は死ぬことを選び、泡になった。色々な説があるのだろうが私はこの話しか知らない。
「もし私が人魚姫だったら好きな人に近づいて人間になるよりも、好きな人を人魚にしちゃうと思う。そうすれば人魚姫も幸せになれたかもしれないのにね。」
望の話にも一理あるのかもしれない。だけど、それじゃあ物語として美しくないのだろう。
「私が王子様だったらどうするん?」
「叶だったら一緒に来てくれるもん」
なんでそんなに自信たっぷりなんだ。だけど、うん。そうかもしれない。私ならきっと望の美しさに見蕩れて海へと足を沈めちゃうかもな。
館内を何周も見て回った結果、だいぶ日が落ちていたことに気づく。
「そろそろ出よっか」
「あ、ちょっと待って」
そう言って外に出ようとする望を引き止めてはその場で待ってるようにと伝える。
望は急になんだ?と手持ち無沙汰な様子だが、まあ待ってなさいって。
入口付近にあったお土産コーナーにせっせと向かう。確か、これだったかな。目的のものをレジまで持って行っては素早く会計を済ませた。
「はい、今日のお礼」
「えっ」
目を見開いてすっかり驚いている望の前に小さなキーホルダーを差し出す。へっへっへ、その顔が見たかったのだよ。一泡吹かせてやったぜ、みたいな態度でドヤ顔を決める。差し出した物は入ってきた時に望が見つめていたあのクラゲのやつだ。
ポケットの中に手を突っ込み入っていた物を握りしめる。実は望とお揃いで同じものを買っていたのだ。なんだか恥ずかしくて言い出せないけれど。
「あ、ありがとう」
「望にだけかっこいいことさせないもんねー」
「ふふ、なにそれ」
なんだかとぼけた会話を繰り返しながら二人で笑う。望のこんな笑顔、見られるのはきっと私だけだ。そんな優越感に浸れるのもなんだか良いななんて。
「どうしよっか。時間も時間だし、もう帰る?」
外に出るともう既に太陽はオレンジ色に染まっていた。
「ううん、ちょっと行きたい所あるんだ」
「ふーん、遠い?」
「ちょー近い」
そう言って歩き出した望の背中にトコトコとついていく。不意に右手が寂しいことに気がついた。えいっ。
「ふぁ、なにっ?」
なにっ?じゃないでしょ。先に繋いできたのそっちじゃん。
「うーうん、寒かったから」
「へー」
ニヤニヤとした視線が私に刺さる。そんな目で見るな。
水族館から出た次の場所は本当に近かった。徒歩五分くらい行った場所にあったのはなんだろうやっとか、みたいな。
海じゃん。
「こんな寒い中海行くバカなんていないと思ってたのに…」
「この時期の海ってとても綺麗なんだよ」
「ま、まさか、水着って!?」
「あ、いや違くて違くて。本当なら水族館の中に温水プールみたいな施設があったんだけど今はやってなかったっぽい」
危ない殺されるかと思った。というか水族館に温水プールって最近のは随分シャレておるのぉ。
「叶の水着姿、見たかったなぁ」
心底残念そうに落ち込む望。いやいや私の水着姿なんて見ても何も得しないでしょ。無駄肉のない望のなら…分かるけど。ビキニ姿の望を想像してすぐにかき消す。豊満な胸を全面に押し出す望が気に食わなかった。
望と並んで夕焼けが反射している海面を静かに眺める。最近は日が沈むのも早くなって少し寂しい。だけど隣に望がいるのならそれでも良いやと思ってしまう。
しばらく無言の時間が流れる。どちらも何も言わずただ静かな波の音に耳を奪われていた。
普段は見慣れない目の前の景色を望と共通の思い出にする。なんだか霞んでぼやけてしまいそんな思い出。
「綺麗だね」
「うん」
この世界はまるでピントがあってないみたいに簡単にぼやけて霞んでしまう。
でもきっとそうだ。こんな地味で元カノにさえも捨てられてしまった、もう誰も私の事なんて見ないこんな世界で一人だけ。いてもいなくても変わらない、私が消えてしまいそうな暗闇の中で。望だけが見つけてくれたんだ。
水面に顔を出せずに溺れていた私を引っ張り出してくれた。
望だけが…ピントを合わせてくれていた。
ねぇ、望。あの日、あの夜に望が私を見つけてくれた時、灰色でくすんでいた私の世界に色がついたんだよ。
泣いて見上げていた満天の星空を、今なら笑って吹き飛ばせるかな。
もうそろそろ認めなくちゃいけないな。
「望」
これが勝負だというのなら、もう私が負けでもいい。今なら大体わかる、自分のことだもん。本当はもっと前から気づいていたのかもしれない。その事実に逃げていたのは紛れもなく私自身だ。
私は、望のことが好きなんだって。
「私ね、望のことが…」
その先の言葉は望によって封じられてしまった。唇に柔らかい感触が広がる。望の顔が…ゼロ距離。
飴でも舐めていたのだろうか。望との初めてのキスはとても甘かった。
「んっ…」
私から離れた望の顔は夕日に照らされていつもよりも綺麗に見えた。
「何でもかんでもハッピーエンドで終わらせちゃう物語、嫌いなんだ」
まだ口の中に残る仄かな甘みに頭は酔ってしまっている。
「最後は必ずお姫様と王子様が結ばれて終わるラブストーリーなんて聞き飽きちゃったし。お姫様だってたまには従順なメイドと幸せになったっていいと思わない?」
「うん…ってそれ私がメイドってこと!?」
「私の可愛い可愛いメイドさんでしょ?」
自分がお姫様だとは思えない。お姫様は望にピッタリだし、そう考えたらそうか。私はメイドなのか…
でも望と結ばれるならそれも…幸せなのかもしれない。
「よし!帰ろー、叶さんは水着着てくんないしー」
「いやいや無理でしょめっちゃ寒いやん…」
「ぶー」
「また、夏来ればいいじゃん」
また二人で。
「約束ね」
帰りの電車ではやはり疲れたのだろう、二人して肩に頭を乗せながら寝てしまっていた。
結局望に好きだとは告げられなかった。だけど忘れられない唇の柔らかさが残っているうちはまだいいかなーなんて先延ばしにする。
自分の気持ちに向き合えただけ、収穫があったってもんだ。
望よりも先に起きて先程のやり取りを思い出してしまう。そして一層落ち着きを無くすのだ。目だけでなく頬もぐるぐると海の潮みたいに渦を巻いて、熱を帯びていく。隙だらけの望の寝顔をチラッと伺ってしまったのも原因の一つだろう。いけない気持ちにもなったし、目が離せなくなる。もう一度なんて、ダメだろうそりゃ。
私、望とキスしたんだ。
「家まで送ってくから」
望の家まで直接電車で乗っていけばいいのにわざわざ私の駅で一緒に降りた。
「別に一人で帰れるって」
「叶、女の子なんだし危ないでしょ」
「いや望もでしょ…」
まあ一度言い出したら引いてくれないのが望なので遠慮なくそうさせてもらおう。本当は望が一人で帰るのも心配なのだが。
そんなことを考えているとふとスマホからメッセージの通知音が響く。私のものでは無い。
望が鞄からスマホを取り出しすとあからさまに嫌な顔を浮かべた。眉間にシワが寄っている。どうしたんだろう。
「…ごめん叶。店長から呼び出しかかっちゃった。一人で帰れる?」
「えっ、あ、うん。大丈夫、元からその予定やったし…望こそ平気?こんな時間に」
本当に、どうしてこんな時間に、だ。もう夜も遅いのに呼び出しをかける店長。
頭の隅に不安がよぎった。望がやっている仕事など一つしか浮かばない。そしてそれは今の私の不安を仰ぐには最適の種だった。
「ごめんねほんと、じゃあ気をつけて。ばいばい」
「うん、じゃあね…」
急ぎ足で駅のホームに向かう望の後ろ姿。
急なさよならに明らかにテンションは下がってしまう。望のこれから向かう行き先や、仕事内容、私の知らない見知らぬ人に望の身体が汚されてしまう、そんな姿を想像して気分が悪くなった。望の背中に向かって叫んでしまいたい。行かないで、と。
だけどまだ言えないでいる自分はチンアナゴみたいに臆病なのだろうか。
海水など飲んでもいないのに、先程まで甘かった口内はただただしょっぱかった。
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