心音の反響


望とキスをする夢を見た。


ガバッと勢いよく起き上がったせいでベッドの下に薄いシーツが落ちてしまう。

何かよく分からない複雑な物が胸の中で込み上げて来ては私の思考を乱雑に壊していく。空気が足りない。大きく口を開けてそれを求めるが思ったように吸い込めず脳に酸素を送り込めそうにないのだ。


望の唇の感触は分からなかった。それもそうである、触れた事など一度たりとも無いのだから。

分かったのはキスしながらも握り続けていた指の柔らかさと、長く綺麗なまつ毛がゆったりと閉じていく瞬間だけ。


「……ありえん」


夢は自分の願望を映すとよく聞くが今の私はその説を全力で否定するだろう。その結果のせいで生まれたのが『望とキスをする』という産物なら尚更だ。

自分の唇に手を当てながら、身体中には嫌な汗が吹き出してくるのを止められるほど今の私に落ち着きなど存在しない。



「先に好きになるのはそっちやけん」



彼女(仮)が出来ってしまった。


望は恋愛のメリットを理解するために。

私は元カノの傷を癒すために。


お互いがお互いを利用しあっている。はたから見たら奇妙な関係であることは間違いなかった。


「好きにさせる、かぁ」


今更何言ってんだろうと一人、悶々としたままベッドの上で頭を抱えてしまう。挑発に乗ってしまった結果とはいえ私が望に勝てるわけが無い。分が悪いにも程があるだろう。だいたいこれは勝負なのだろうか。

どちらが先に恋に落ちるか。相手に溺れるか。



でも一応ここらでハッキリさせておくとしよう。誰かに今朝見たキスの理由とともに言い訳しようという訳では無い。ただ私の中で整理したいだけだ。


私が望に向けているこの気持ちは、けして恋とは違う。

言うなれば憧れに近いものだろうか。

顔が良くて自分の思っていることを明らかにできる望に純粋に憧れている。私には無い魅力を望は持っているから。私には…一生届きそうのない存在だから。


顔が超好みなだけで好きになるというのならもうとっくに恋する乙女になっている。私は違うと思いたい。


夢の原因だって多分だが想像はつく。

大雨とほろ酔い気分の私の頼りない足のせいで結局泊まることが決まってしまった昨日の夜のことだ。



「この関係を続けていくにあたっていくつか決め事を作らない?」


そう言って望はどこから取り出したのだろう。大学ノートとシャーペンですらすらと何かを書きだす。やっぱりノートに浮び上がる文字ですら綺麗なのだから文句の付けようもない。


「できるだけ恋人としての時間を作ること…?」


「そ、なるべく一緒にいよ。じゃないと叶ってずっと家に引きこもりそうだし」


「そんなこと…ないけど」


強く否定できないのが悔しい。どっちかって言うと私は相手に合わせるのがスタンスだ。良い意味で謙虚、悪い意味で優柔不断だった。デートの場所だって自分で決めたことは無い。一緒に行く人の行きたいところについて行き、合わせるだけで相手に任せっきりだったし。だからそういう所が元カノに捨てられた理由でもあるんだって。


そんな風に過去の自分に反発してみる。少し反省してしまうような気分に陥ってしまうのは望のせいだ。

考え込んでしまい、いかんいかんと顔を上げる。上げた先に目と鼻があるとも知らずに。


「わっ…なに!?」


「でもそうだね。叶に私を満足させられるのかな」


「…はい?」


「私を好きにさせるとか言っといて何もしなさそうだし。叶って世間一般で言うあれでしょ?」


「なんよ…?」


「ヘタレ」


「…痛っあ!?」


近すぎる望の顔を払い除けるかのようにデコピンを喰らわせてやった。少しだけ心に生まれた鬱憤がスッキリした気がする。


望との出会い方があまりにもアレすぎてどうやら望の中の私にはそんなイメージが出来上がってしまってるらしい。

失敗したなぁ…まああんな出会い方でもしない限り私が望とこうやって仲良く話す未来も無かったことになるのだが。

いつかこれが正解だと思える日が来てほしい、なんて。


「そうやって大見栄を張れるのも今だけやけんね」


「ふふ、楽しみに待ってる。でももう遅いかも、先手必勝」


望が私の肩を掴んで押し倒してきた。かくんと腰の位置がずれてカーペットに頭をつく。

それはあまりにも不意打ちすぎて避けることも出来なかった。


覆いかぶさる望の目をできる限り強い視線で睨みつけた。それは子犬が飼い主に反抗する時の目と似ているのだろう。迫力も何も無い。

私の上にまたがっている張本人はそんなの1ダメージも効いてないようでニヤニヤと口角を上げている。


「な、なに…?」


「私って結構プライド高いんだ」


うん。だろうね。

何となくそれはわかっているつもりだ。


「それで…なんこの状況」


望と間近で、ジッと視線を絡ませる。

上手く息ができない。自分の吐き出す空気をなんとなく望の顔に吹きかけたくなかった。


「叶に否定されたあの夜、結構傷ついたんだよね」


あの夜とはあの夜だ。言わなくたって分かるだろう。


「誰かから拒否されたことも、逃げられたこともなかったから」


「それは…」


「だからこれはあの時のやり直し」


あの時のやり直し、ってえっと。これは、これは…

一気に顔が熱くなる。恥ずかしさから生まれた火花がパチパチと顔から吹き出しそうだった。

目を閉じた望の顔がもう数センチの距離しかない私の元へ近づいてくる。

本当に日本人なのかと疑うほどの高い鼻。距離が近くなったことによりさらに引き立つまつ毛の長さ。柔らかそうでぷっくりと膨らんでいる女の子の唇。


そして…0センチ。



「って…だめええええええ!!!!」


全力で望の肩を押し返す。まさかもう一度拒否されるなんて思ってもみなかった望は意外とすんなり後ろへ尻もちを着いた。


「もうなに!叶のおっぱいはとっくに見ましたけど!?」


「そういう問題じゃない!」


「あの時の風俗代、私が出したんだけど!だからいいじゃん」


「あー!今関係ないじゃん!てかいくらよ、財布あるし払ってあげるし!」


「5万円」


「高ッ!?」


望と無言で見つめ合う。その時間は10秒ほどか、いやもしかしたら5分程度だったかもしれない。



「っ…ふふ、あはは。もう叶、必死すぎ」


大きく口を開らき歯を見せながら笑う望の顔が目の前に咲く。もしかしたらとても珍しいものを見せられているのではないか。大人っぽい雰囲気を纏いつつ人をあまり引き付けないオーラを振りまいていると思えばこれだ。

ずっとずっと見ていたいなんて思ってしまうほどには素敵に笑う望だった。


「ねえ、なんでダメなの?」


「こういうのは…ちゃんと、好きになってからと思う…」


「犯すのも?」


「犯そうとしてたの!?」


肩で息をするほど息も絶え絶えになっている私と反して余裕たっぷりの望に少しだけ威嚇の意を覚えたが何とか押し殺す。


「そっか、分かった。じゃあ叶が落ちたら…その時は叶からしてよ」


首をコテっと傾げるだけで可愛いなんて反則だろう。表情は真顔で何考えているのか分からないが。

私が好きになったら、か。そんな時が来るとは思えないがとにかく納得していないと何をされるかわかったもんじゃない。


「…はいはい。それよりあの夜の事は忘れて欲しいんやけど、私も馬鹿なことしたと思っとるし」


その事ばかりを話題に出され続けたらきっと私の精神はどんどん鋭利な刃物で削られてしまいそうだ。それこそ望の言いなりになる忠犬みたいになってしまう。


「了解。じゃあ叶もちゃんと忘れてね。私があそこにいたこと」


うん?どういうことだろう。辛い記憶は綺麗さっぱり洗い流せということだろうか。


「ほれ」


ベッドに背を傾け脚を広げた望がポンポンと股の間を叩く。そこに座れということだろう。

これくらいのスキンシップなら…いいかな。

何もかもを否定していたらこの距離はいつまで経っても縮まってくれやしない。縮まって…欲しいのかな。


四つん這いでそろそろと望の足の間に収まって座り込む。

俯くと望のすらっとした白い両足が視界に入ってしまい、なんだか少しドキドキする。


なかなか背を寄りかかることが出来なくて望との間に生まれる微妙な隙間。身体に変な力が入ってしまい謎の負荷がかかってしまう。そのせいで色々なところが痛い。特に首とか折れるのではないか。


「えい」


望が私の肩を抱きながら引き寄せる。そのまま力を抜いて全体重を傾けて抱きしめられる形となった。男性とは違う女の子の特有の柔らかさ。ふわふわと気持ちが良くてお日様の元に干したばかりの布団のようだった。

あまりにも言いなりになりすぎると直ぐに望色へと染められてしまいそうな気がした。薔薇の花びらはちょっとした事で簡単に色を変えてしまう。


「嫌なことがあったら、ちゃんと言ってよ」


今更何言ってるんだ、なんて思ったがこれが望なりの優しさなのだろう。背中がポカポカと暖かい。

今なら直接心臓の音も望に伝わってしまうかもしれない。それでもいっか、なんて諦めてしまうほどにはそこの居心地が幸せだった。

気づけば望の手は私の頭上へ移動していてゆっくりと撫でられる。まるで子供をあやす様に滑らせるその手に適度な安心感を覚え、私はされるがままになってしまう。

それがなんとも気持ちよくてうっとりと閉じてしまう瞼に私は抵抗出来なかった。



「おやすみ」



思い出す度に頭から汗が吹き出しそう。望があんなことをするから夢にだって見るのも当然なのだ。そうだそうだ…私は悪くない。別にほんとに何も悪くは無い。だいたいキスごときで慌てすぎなのだ。キスの一つや二つ、させてやればいい。させてやれば…


そのまま何も考えることなく真っ白な頭のまま壁を見つめる。あまりにも多すぎる情報量に脳がキャパオーバーしているようだ。

そんなこんなで無駄に時間を潰していると家族からの連絡以外は鳴らない私のスマホから通知音が響いた。


望かな?なんて期待を孕んだ指先でスマホの画面をタップする。いやなんで私、期待してんの?


しかしそんな予想は大いに裏切られる。画面に光る通知は望のものではなかった。



『やっほー、暇してる?叶のことだし部屋でボーッとしてるんでしょ。駅前のドーナツ屋さんに集合ね!今から!』



こっちの事情なんて何も気にして無さそうなその軽い文章に少しイラッとする。

望でも元カノでも無いその相手は、隣に住んでいる小学校からの幼なじみからだった。

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