断章三篇

傘の内

 夫が医者から妻の病名を知らされたとき、また彼自身が彼女にその病名を伝えたとき、彼らは押し黙って聞くこと以外の何事もできなかった。彼女はどうにもならない不治の病であった。前兆はなかったはずだと彼は思い返す。子供ではなく病気を授かってしまったのだと彼女は嘆く。そして空には黒い雲が居座り続ける。梅雨であった。

 入院の準備のために一時的に帰宅を許された彼女は、玄関で靴を脱いだとき、そのまま座り込んでしばらく動かなくなった。いつものように気を利かせて、冷蔵庫から麦茶を運んできた彼は、そのグラスが汗をかくのをじっと見つめた。手をつける者のない、小さな盆の上に乗った麦茶が汗を流せば流すだけ、時間は進んでいく。蒸し暑さはないが、決して涼しくはないところで二人は押し黙っている。玄関の扉の磨りガラスは、向こう側を散歩する猫の姿を映している。猫は何か死のにおいでも嗅ごうとしているのか、顔を近付けてしばらくそのままでいたが、やがて人間には分からない合図を受けでもしたのか、そっと立ち去っていった。

 家族が帰ってきたことを知って家の奥にいた愛犬のポニーが走ってくる。彼はその逸る心を抑えるかのようにポニーの身体を受け止めると、そっと頭を撫でてやった。ポニーは座っている彼女の脇に顔を突っ込んで、彼には見えない彼女の顔を見上げた。何かを察したらしいポニーは、彼の方を振り向くと、そのまま立ち去ろうとした。そのとき、彼女がその名を呼んだ。帰宅してから初めて発したその言葉は、ぎざぎざとした揺れのあるものを含んでいる。呼ばれたポニーは彼女に招かれ、膝の上に顔を乗せた。彼は相変わらずその場にいるが、彼女にかける言葉が見つからない。今はポニーがいることがただただ有り難く、そして何もできない自分が情けなかった。しかし、先ほどの猫やポニーのように、立ち去ろうとすることはしない。いくら情けなくとも、それだけは決してしてはならないことだと夫は考えていた。

 雨以外には音のしない、いやに静かな日曜の午後だった。やがて彼女は立ち上がって彼の手を取ると縁側に向かった。二人はそこに座って小さな庭を眺めた。どこまでいっても言葉は出てこない。一向に叶えられない願いを抱えて、それを荷物にすることなく明日への活力として、夫婦は生活を送ってきた。どうしようもなく楽天的な二人が挫けそうになったことは何度もある。それでも、最後の最後には何か恩寵のように子供を授かることができると信じていた。それは頑張っているから報われるとかそうしたこととはまた別の考え方で、そうあるべきだし、そうなるはずだという無垢な想いだ。あるいは夫婦はどこか達観していたといえるのかもしれない。仮に子供を授かることができなくとも、二人の行く末にはきっと明るい光が射しているのだと考えていたりもした。

 二人はお互いに身体を傾けて庭を眺めている。いつかの日のような一瞬の通り雨が土の表面を穿ち、小さな池に波紋をつくった。万物は流転する。彼の頭の中には、不思議とそんな言葉が再生された。彼女がより強く、より熱く身体を預けてくるのを感じた。どうしてそんな言葉が頭の中に響いたのか、そんなことを考えている。

 再生。それは再び生まれること。生まれるものは何だろうか。光であり、音であり、言葉であり、それから……。

 彼はこの家に越してきた日のことを思い返す。あのときは春先の冷たい雨を浴びたのだった。落成したてのこの家の軒先には早くもつばめが巣を作っていて、けれどもその日ばかりはお互いに身を寄せ合って寒さに耐えていたのだろう、静かなものだった。彼ら夫婦もまた傘の下に身を寄せ合って、身体を濡らさないようにと歩いてきたのだ。不安がなかったと言えば嘘になるが、それ以上に新しい我が家での生活に胸を膨らませていた。小さいとはいえ庭付きの我が家と、そこに暮らす二人、それからいずれ授かるはずの子供たち。何もかもがこれから始まる、本当に始まるのだと思っていた。

 あのときの希望に比べてしまうと、どんなものでもくすんで見えるかもしれないが、それでも現状はあまりにも厳しい。もしこの先、彼女を亡くしたならばどうなるだろう。いつもなら快く感じる廊下のしんとした響きが、妙に心細いもののように思われ始めた。一人で住むにはこの家はあまりにも広く、立派に過ぎた……。

 束の間の思考。その間に、彼女は顔をこちらに向けていた。彼女が不思議に笑っているので、彼は何か狐につままれでもしたかのような気分に陥った。死の気配を内に孕んで、彼女は次第に自分とは異なる存在になりつつあるのではないか。そんな予感が彼を取り囲む。彼の不安そうな表情に気付くと、彼女は取り繕うでもなく、次第に笑顔を沈めていった。やがて真剣な表情になって、彼女はこう言った。

 始めましょう、最後の晩餐を。

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