相合傘 / もうひとつの相合傘

雨宮吾子

相合傘

相合傘

 表紙の煤けた大学ノートを閉じたとき、少女の目には涙が兆していた。天を仰いで堪える仕草が、まるで幼い子供が鼻血の流れ出るのを抑えようとするのと似ていて、閉じたばかりの大学ノートに記されていたある家族の歴史を想うと、茫漠とした痛みがじんわりと心を打つのだった。庭に下りた拍子に、抑えきれなかった涙の粒が夕立の後の湿った土に溶けていく。今このとき、自分の流した涙が所詮はその程度のものでしかないのだと思うと、虚しさはなおさら強まる。少女は自分が見つけた缶ケースを元の場所に戻そうとした。縁の下には小柄な少女なら何とか入れるだけの空間があって、この缶ケースは偶然ここで見つけたものだった。どうしてこんな場所で見つけたのかというと――今、その答えは向こうからやってきた。

 本格的な夕立がやって来た。さっきまでのにわか雨はほんの先触れに過ぎなかったのだ。少女は腰を上げることなく、縁の下に留まって夕立を感じている。雨粒の音、風に乗って運ばれてくる独特の匂い。想像の羽を広げれば、急な夕立に右往左往する人々の姿さえ見えてくる。少女にとっては貴重な、世界と繋がっているかもしれないというその感覚が幸せなひとときなのである。しかし、このときばかりは少し事情が違った。


 この空間に入ろうと思ったのは思いつきだった。それが常識外れな考えだったから、思いついてから三日三晩悩んだ末にようやく決心がついた。この空間に潜り込んだ瞬間、世間の喧騒から隔離された、あるいは世界の喧騒を隔離できるこの場所が、自分の心の隙間を埋めていく特別な場所であると悟った。後ろ向きな考えを持つことは少女には許されていなかったから、暗くじめじめとしたこの場所は聖域になった。以来、少女は辛いことがあればこの場所に逃げ込んだ。それは三日に一度くらいの頻度だったが、雨の日にここにやって来ることは偶然にもなかった。

 聖域に相応しい聖遺物を見つけたのは、初めての雨の日のことだった。いつもならもっと浅い、境目の辺りに隠れるのが、その日は雨に濡れまいと深い場所に隠れた。頭から潜り込むと、顎から滴り落ちた粒が、かこんと何かを打った。それが缶ケースだったのだ。中身を照らせるようなものは持ち合わせていなかったから、少女が缶ケースの存在を気味悪く感じたのも無理はない。雨が上がり、次第に照りつけてくる日差しの境目、つまりいつも隠れているところまで缶ケースを引っ張り出して、中身を確かめた。表紙に年号の記された大学ノートが数冊入っているだけだった。興味本位で一番上のノートを開いたとき、これは触れてはいけないものだと分かった。それは、ある家族の歴史を記録したノートだった。

 他人の領域に不意に入り込んでしまった少女は、それからしばらくの間、何かが穢されたと感じた。誰が何を穢したのか、まるで正体が掴めなかった。ある一面を切り取れば、少女は自分だけの空間に自分以外の他者が介入していたことに対して、ひどく理不尽な怒りを覚えた。繊細な少女はそう感じたが、繊細であることと弱いこととは等しくはない。だから少女は自分が立ち入った側の人間であることを、次第に認めていくようになった。

 缶ケースを見つけてから何となく疎隔していた聖域との距離は、少女の心境の変化に伴って縮まっていき、それでも缶ケースを再び開封しようとまではなかなか思わなかった。最終的に好奇心が勝って少女はある家族の歴史を繙くことにしたのだ。


 その家族は昭和四十五年からの五年間、少女の暮らす家屋に住んでいた。ノートは夫婦二人の筆によって記録されている。日記の形で記されていることもあれば、日付もないままに一行だけ意味深な言葉が書かれていたりする。平成初期に生まれた少女にしてみれば、昭和という時代はひどく昔の、暗闇の中にあるような世界だと感じられる。けれどそこにはきちんとした一つの文化があって、目の眩むような輝きを放っている。

 少女は思った。この家族には、どんな結末が待ち受けているのだろうと。少女は逸る心を抑えて少しずつ記録を辿っていった。

 そして結末は、悲劇だった。

 少女は本格的にやって来た夕立の中を縁の下に潜り、まるで長い夢の後の倦怠のようなものを感じた。最後のノートを戻すために缶ケースを開く。ふと、見慣れないものが底にあった。まるで雨とともに運ばれてきたかのように、今までは目に止まらなかったものだ。それは随分と古い、ある男女の姿を後ろ姿を捉えたセピア色の写真だ。理解の範疇に収まらないような、不思議な光景がそこには写っている。

 雨の中を歩いていく背広姿の男の肩を叩く女の姿をした天使。女は羽を広げて宙に飛び、片手で傘を差している。まるで、相合傘に誘っているかのように。

 少女の想像力は羽ばたき、涙でぼやけた瞳はそこに恩寵を見た。そして、雨はまだ降り止まずにいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る